「……成る程」
七海は隊室のモニターで映像を見ながら、小さく頷いていた。
彼が見ているのは、ROUND5における『香取隊』の試合である。
『柿崎隊』と『諏訪隊』を相手とした試合であり、この組み合わせはROUND3で『香取隊』が辛酸を舐めた相手でもある。
だが、ROUND5における『香取隊』の動きはROUND3の時とも、七海達と戦ったROUND4の時ともまるで違っていた。
まず、香取が独断専行をしていない。
開始直後から隊の三人全員がバッグワームを使用して隠密に徹し、『柿崎隊』と『諏訪隊』がかち合った時を見計らって横から奇襲。
その奇襲で虎太郎・堤の両名を落とすと、即座に撤退。
最後は柿崎と諏訪の一騎打ちに乱入し、両名を撃破。
生存点を含め、6ポイントをもぎ取った。
香取を乱戦に投入し、獲れる点を取った後は即座に撤退。
最後には、疲弊した相手を横から落とすという真似もやってのけた。
以前までの『香取隊』では、考えられない戦い方である。
犬飼の言う通り、これは舐めてかかれるような相手ではない。
元々、香取のポテンシャル自体はずば抜けて高いのだ。
今まで成績が低迷していたのは、一重に戦術というものをまるで理解せずにただ香取の好きにやらせていたからだ。
若村と三浦も、香取のその場その場でのフォローが精一杯で具体的な作戦指針を示したりもしない。
だからこそ、『香取隊』は
今の『香取隊』には、以前のような不安定さは見られない。
途中途中の若村と三浦のフォローも的確なものであったし、犬飼が
少なくとも、前のような戦術も何もなくただ香取が暴れるだけ、という状態からは脱している。
香取を闇雲に暴れさせるのではなく適切に運用出来るようになったのであれば、『香取隊』は充分な脅威となる。
『那須隊』としても、対策を怠れば足元を掬われるだろう。
今回のMAP選択権は、『香取隊』にある。
だが、前回と違いこちらの思い通りのMAPを選んでくれる事はない筈だ。
この映像での立ち回りを見れば、そのくらいは理解出来る。
前回の試合では、MAP選択から『香取隊』の行動に至るまでそのほぼ全てをコントロールする形で完封した。
初見殺しを思う存分活かし、翻弄し切った戦いだったと言って良い。
MAP選択権はあの時も『香取隊』にあったが、実質こちらがMAPを選んでいたのと変わりはなかった。
しかし、今回は違う。
ROUND5で、これだけの立ち回りを見せた『香取隊』だ。
MAPも、きちんと考えられた戦術と共に選んで来るだろう。
油断は出来ない。
元より、するつもりもない。
己の持てる全霊を以て、隊を勝利に導く。
七海がやる事は、何も変わらない。
やる事は、幾らでもある。
今回の相手は、『香取隊』だけではないのだ。
『ボーダー』随一の『旋空孤月』の使い手、生駒達人が在籍する『生駒隊』。
こちらもまた、かなりの難敵である。
隊長である生駒の扱う『旋空』の射程は、およそ40メートル。
しかも本人が居合い抜きの技術を持っている為、剣速も凄まじく速い。
武術の心得がある為、接近戦での立ち回りも抜群に上手い。
以前に幾度か個人戦で戦った事はあるが、その時は個人戦用の立ち回りをしていた事もあって『旋空』の斬撃を掻い潜れずに落とされている。
少なくとも、正面から戦り合えば分が悪い相手である事に間違いはない。
無論、何も策がないというワケではない。
だが、『生駒隊』の射手である水上は中々の切れ者だ。
容易な策では、看破されて返り討ちにされるだろう。
そんな考えを巡らせ、七海は取るべき策を思案する。
「あ、七海先輩。こんばんはです」
不意に隊室の扉が開き、そこから小夜子が顔を出した。
七海は小夜子に気付くと一旦映像を止め、向き直る。
「志岐か? どうした?」
「那須先輩から七海先輩がこっちにいると聞きまして。多分試合のログを見て対策立ててるんだろうなーと思って、お手伝いに来ました」
「そうか。助かる」
小夜子の言葉を七海は特に疑問に思わずに受け入れ、小夜子はにこりと笑って七海の隣に座る。
そして、七海と共に過去の試合ログを視聴し始めた。
「映像で見ると生駒さんの『旋空』って結構速いですけど、実際に戦ってみた時の感想はどうです?」
「ああ、映像よりもずっと速く感じたな。サイドエフェクトで感知してからの回避では、間に合わない可能性がある。生駒さんの『旋空』の射程に入りそうな時は、教えてくれるとありがたい」
「了解しました」
小夜子はそう言うと凄まじいスピードで手元のキーボードを叩き、数値の入力を開始した。
恐らく、ログの情報を元に各MAPでの生駒の『旋空』の射程範囲がどうなるのか、どういう場所が危険なのかをピックアップしているのだろう。
その作業スピードはかなり速く、七海が横から見ても画面で様々な数値がとんでもないスピードで入力されて試算を繰り返しており目が追い付かない。
心なしか普段よりも気合いが入っているように見えるのは、気の所為だろうか。
そんな事が脳裏に過るが、さして重要な事でもない。
七海はただ、小夜子の作業が終わるのを試合映像を見ながら待っていた。
「…………いつもいつも、志岐には苦労をかけるな。俺達のオペレートは、大変だろう?」
「いえ、私が望んで引き受けた事ですから。全然苦なんかじゃありませんよ」
七海の言葉に、小夜子はそう言って笑みを漏らす。
その笑みには何処か物寂しい空気が漂っていたが、七海は気付かない。
元より、七海は人の心の機微には疎い。
那須が相手であれば長年の付き合いである程度察する事は出来るが、逆に言えば幼馴染程の付き合いでもなければ相手の心証を察する事は難しい。
小夜子の想いを理解しろと言っても、七海には酷な話だろう。
「七海先輩は、私の我が儘で那須先輩と戦う機会をこれまで逃し続けてしまいました。だからその分、私が頑張らないと。お二人に顔向け出来ません」
「いや、それは……」
「こればかりは、私の気持ちの問題です。七海先輩は気にしていないと言って下さいましたが、私なりにケジメはつけないといけませんから」
小夜子はハッキリとそう告げ、有無を言わさぬ口調で言い切った。
七海は「気にする必要はない」と言うつもりだったが、こうまで小夜子の意思が硬いと下手な気遣いは侮辱にあたる。
そう考えた七海は渋々言いかけた言葉を飲み込み、それを察した小夜子は苦笑した。
「…………七海先輩は、ちょっと人に気を遣い過ぎです。此処は、思い切り詰っても良いくらいなのに」
「そんな事、出来る筈ないだろう? お前の事情は、熊谷から聞いている。過去のトラウマに苛まれる気持ちは、俺にも理解出来る。そんなお前を責めるなんて、俺には出来ないよ」
それは七海の、偽らざる想いだった。
七海は未だに、あの日の事を夢に見る。
右腕を失い、朦朧とした意識の中で垣間見た光景。
姉がその命を使って自分を助けた代償に、砂と化して崩れ去るあの瞬間の映像が。
その悪夢を垣間見る度、七海は声にならない叫びと共に目を覚ます。
そして、気付くのだ。
自分の右腕が、今何で出来ているのかを。
姉がもう、戻って来ない事を。
そんな事が続き、あの大規模侵攻の直後には、碌に眠れない日々が続いていた。
自分のそれとはベクトルが違うだろうが、小夜子のトラウマも決して軽く見れるものではない。
信じていた相手に裏切られ、男性というものを信じられなくなった小夜子。
その絶望は、苦しさは、彼女にしか分からない。
男性恐怖症とて、彼女が望んでなったものではないのだ。
たとえその男性恐怖症故に七海の入隊が遅れに遅れたのだとしても、七海にそれを詰る資格はない。
他ならぬ七海が、そう強く感じていた。
「お前の気持ちは分かるが」と言うのは簡単だが、人の気持ちなんて早々理解出来る筈もない。
自分の気持ちが分かるのは、自分だけだ。
他人はただ、
七海が、三輪の想いに共感出来なかったように。
似たような体験を経た者であっても、その感じ方や受け止め方は個々人によって異なる。
それは環境による違いかもしれないし、本人の資質に依るものかもしれない。
いずれにせよ、「お前の気持ちは分かる」なんて言葉を、他人はともかく自分が言うのは許容し難かった。
あの時に抱いた想いは、絶望は自分だけのものだ。
同じように、あの大規模侵攻で肉親を失った者は山ほどいる。
身内が近界に攫われた者も、数多くいる筈だ。
だが、あの時の絶望を共感出来るとすれば、あの時あの場にいた那須だけだ。
姉の死を看取ったのは、自分と那須の二人だけ。
同様に、小夜子の
どうやら小夜子は自分の体験と七海の体験を比べて
トラウマに、絶望に優劣などというものはない。
確かに、傍から見れば彼女は何かを喪ったワケではない。
家族はいるし、家が壊されてもいない。
友達を喪った、という経験もしていない。
だが、彼女の心はその一件で深く傷付けられたという事実は消えない。
傷とは、何も目に見えるものだけではない。
心の奥深くに刻まれた傷痕は、時に取り返しのつかない結果を生む。
小夜子が男性恐怖症を患い、碌に外出が出来なくなっているように。
目には見えずとも、彼女の心には確かに深く大きな傷が刻まれているのだ。
それを、
それは、彼女への侮辱だ。
よく、引き籠った人間に対し「もっと頑張れ」などと言う人間がいるが、見当外れも甚だしい。
全てがそうだとは言わないが、少なくとも大多数の人々は
好き好んで、そうなったワケではない。
つまり、引き籠っている人々は
そこに
塞ぎこんだ人間に対し、
無論、小夜子に関しても同じ事が言える。
彼女の男性恐怖症は、拭い難い
心に刻まれた傷は、自分でもどうしようもないものだ。
何か劇的な切っ掛けがない限り、そう簡単に払拭出来るものではない。
そんな状況下で、小夜子は男性である七海の入隊を受け入れる事が出来た。
これは、誇るべき成果である事に間違いはない。
七海がそんな
…………まあ、肝心の小夜子の本心については、何一つ気付いていないのが困りものではあるのだが。
「むしろ、礼を言うのは俺の方だ。志岐が俺を受け入れてくれたから、今の俺がある。他人がどう思うかなんて関係ない。お前はきちんと、胸を張るべきだよ。『那須隊』の、優秀なオペレーターとしてな」
「……先輩……」
小夜子の瞳が、潤む。
七海としては、なんてことのない労いの言葉だったのだろう。
だが、小夜子にとってそれは別の意味を持つ。
七海はあくまで、
それはつまり、
…………分かっていた、事だった。
だって、知っているのだ。
小夜子は、七海の想いが誰に向いているのか、知っている。
その上で、この道を選んだのだ。
もし、この場で自分の想いを吐露して七海に縋り付けたらどんなに良い事だろう。
そうしたい、という気持ちがないと言えば嘘になる。
けれど、そんな事は出来ない。
七海はまだ、正式に那須と恋人の関係になったワケではない。
だが、この間の一件で二人はお互いの気持ちを確認している。
近い将来、彼等二人の関係は変革を迎えるだろう。
それを焚き付けたのは、自分だ。
慣れない罵倒までして、那須を焚き付けたのは他ならぬ小夜子なのだ。
そんな自分が、那須を裏切る事など出来よう筈もない。
「……あ……」
「悪い、何か気に障ったか? 俺が原因なら謝るが……」
不意に、七海の手が小夜子の頭を撫でた。
七海としては、特に意味のない行為だったのかもしれない。
もしかすると普段、那須に同じ事をしている為に癖で出たのかもしれない。
けれど、その優しさは小夜子の心を揺り動かし、そして────。
「え、志岐……?」
「…………少し、このままでいさせて下さい。大丈夫、すぐ済みますから……」
────寄りかかるように、小夜子は七海に抱き着いた。
七海は突然の小夜子の行動に困惑しながらも、そんな彼女を受け止める。
小夜子は七海の抱擁の温かさを感じながら、穏やかな顔で目を閉じた。
もう少し、このままで。
叶う事はない恋慕なれど、このくらいはいいだろう。
そんな想いを抱きながら、小夜子は一時の安らぎを味遭っていた。
…………その日の夜、七海から小夜子の匂いがする事に気付いた那須の笑顔が凍り付き、小夜子のフォローがあるまで殺伐とした空気が発生する事になるのだが、それはまた、別のお話。