「しかし、まさか『鹿のや』に行ってあの二人に遭遇するなんてな。流石に予想外だ」
「色々びっくりしちゃったね。月見さんって、ああいう人だったんだ」
三門の繁華街を歩きながら、クレープを頬張る男女が二人。
『いいとこのどら焼き』で有名な和菓子屋『鹿のや』を後にして街を散策していた七海と那須は、ふとした会話から先程の事を想起する。
和菓子をかっ喰らう
怜悧な美貌を持つスパルタ式クールビューティのイメージで通っている月見だが、彼女の太刀川の
恋愛している男女のような甘酸っぱい雰囲気こそなかったものの、月見が太刀川に向ける視線の中には空恐ろしい情念というか、執着のようなものが見て取れた気がする。
多分、色々と複雑な関係なのだろう。
少なくとも、那須の眼には月見は自分と同程度────────否、それ以上に
駄目男好きの性癖を持っているようだが、彼女の場合自分の手で相手を叩き直して成長させる事に遣り甲斐というか、生き甲斐を見出しているように思える。
恐らくそんな月見にとって、才能ある駄目男の典型であり叩いても叩いても図太く立ち上がる太刀川は格好の育成対象なのだろう。
……………………今脳裏に『調教』という文字が浮かんだ気がしたが、気にしてはいけない。
月見が色んな意味で女王様だったなんて、口が裂けても言えない。
その光景を容易に想像できるので、すぐさま頭を切り替えた那須であった。
きっと、それが正解。
あの手のタイプは、自分の所有物に余計な干渉をする相手には容赦しない。
だって、他ならぬ自分がそうなのだ。
例の一件で落ち着いたとはいえ依存癖も交じっている自分とは異なる部分もあるだろうが、執着対象に手を出された女のやる事など決まっている。
────────
軽い干渉であれば警告程度で済ませるが、そうでなければ即
それが、
那須は確かにROUND3の後の小夜子の発破を経て落ち着きを見せるようになったが、その本質は微動だにしていない。
今回、七海に女の匂いが付いていたのに許容したのは相手が小夜子だからである。
もし彼女以外の女の匂いが七海に付いていた場合、那須の取る行動は決まっている。
無論、
自分が七海を好いている事は、ボーダーの中では知らない者は殆どいない筈だ。
それを知りながら七海に近付いた以上、それは自分への
相手をどういうつもりなのか問い詰め、然るべき
勿論、力づくなんてスマートさの欠片もない事はしない。
那須は自分が笑顔で殺気を向けた時の威力を、半ば自覚している。
美人が怒ると怖い、という言葉を聞くが、それは事実だ。
那須程に整った顔の少女が笑顔で威圧すれば、大抵の相手は委縮する。
後は相手が
実際、何も知らずに七海に言い寄って来たC級の女子隊員はその
そんな事を、那須はこれまでに幾度も繰り返しているのだ。
那須は、確かに七海が傷付いても過度に取り乱さなくはなったし、七海が自分の言う事を全て聞いてくれると思い込む事もなくなった。
だが、七海に近付く女がいれば
感情を制御する術を学んでいても、那須の七海への執着は全く衰えていない。
それどころか、独占欲は以前より強くなっている有り様である。
以前の那須は七海へ対する自分の感情を誤魔化していたが、今の那須はそれを自覚している。
更に七海の気持ちを確認した事で、那須が抱いていた躊躇いも露と消えた。
ちょっとやそっとでは揺るぐ事のない、恋愛的な一種の
今の彼女を揺るがせるとすれば、唯一の例外たる
それ以外の女は、有象無象に過ぎない。
そんな那須からしても、月見蓮という女傑は決して
組織の都合などで敵対するならまだしも、彼女
これは最早理屈ではなく、女としての直感だ。
触らぬ神に祟りなし。
争ってもデメリットの方が大きい以上、余計な干渉は控えるべきだ。
…………まあ、もしも万が一七海に要らぬちょっかいを出した場合は即刻戦争だが、その可能性はまずない。
相手の方も、自分が
かなりの切れ者という話らしいし、不必要な面倒を背負い込むような真似はしないだろう。
「あ、この桃クレープ美味しい」
「こっちの苺クレープも中々だな。とは言っても、俺は薄くしか味は分からないが…………食べてみるか?」
「うん。じゃあ少し頂こうかな」
あーん、と口を開ける那須に、七海は苺クレープを差し出した。
差し出されたクレープを一口ぱくりと食べてご満悦な那須は、余計な思考を打ち切った。
今は、デート中だ。
先程感じた月見の脅威度から思わず考えを巡らせてしまったが、今はそんな事に頭を回すべきではない。
折角、小夜子が迂遠な方法で後押しをしてくれたのだ。
今はただ、このデートを思いっきり楽しむべきだろう。
「ん、おいし」
「そうか。残りも食べるか?」
「ううん、後は玲一が食べて。流石にクレープ二つ全部は多過ぎるわ」
そうか、と言って七海は残った苺クレープを食べ始めた。
口にクリームがつかないよう、器用に食べる七海を見ながら、那須は自分の桃クレープを賞味した。
ふと、思う。
七海は苺クレープを「美味しい」と言っていたが、それは本当であれば正しくない。
彼の生身の味覚は、無痛症によって失われている。
今七海が使用しているトリオン体を以てしても、「薄く何の味か分かる程度」にしか彼は味覚を感じ取れない。
彼が本当の意味で味が
それ以外の料理は、
少なくとも、普通の店屋物ではまず味が分からないに違いない。
なのに「美味しい」と言ってくれたのは一緒にいる那須への気遣いだろうが、その事に那須は忸怩たる思いを感じていた。
七海が本当に
だが、折角のデートに第三者を巻き込むのは少々気が乗らなかった。
こればかりは、流石に譲れない。
先程は
しかし、このまま食べ歩きを続けたとしても本当の意味でそれを楽しめるのは自分だけ。
かと言って、あまり多趣味とは言えない自分達が行けるような
服は最初に見て回ったし、それなりに買い物もしたのでこれ以上の余計な出費は控えたいところである。
お金に余裕がないワケではないものの、余裕があるからといって際限なく使って良いというものでもない。
買い食い程度なら多少の出費で済むが、それでは七海が楽しめない。
ならばどうするか。
(…………あ…………)
不意に、脳裏に過る場所があった。
デートの行き先としては、お世辞にも相応しいとは言えない。
きっと、楽しい気持ちでもいられないだろう。
だけど。
それでも。
────────今行くべきだと、そう思ったのだ。
「玲一」
「なんだ? 玲」
「ちょっと、付いてきて欲しい場所があるんだけど……」
おずおずと切り出した那須の眼を見て、七海は僅かに微笑み────。
「分かった」
────即座に、頷いた。
二人が向かったのは、警戒区域の一角だった。
不自然なまでに整地された、無人の住宅街。
その一角に、不自然に広がる空き地がある。
目的地に着いた七海は、目を見開いて驚きを露わにしていた。
「此処は……」
「…………覚えてる、よね。七海の家が、あった場所。そして────」
────
「そうか……」
七海は深く、溜め息を吐く。
そう、此処は他ならぬ七海があの大規模侵攻の時まで住んでいた場所であり────。
────同時に、七海の姉が自らを黒トリガーに変えて命を喪った場所でもある。
七海が、あの日以来この場所に来るのは初めてだ。
黒トリガーと化し、身体が砂となって崩れて消えた玲奈の墓には、彼女の遺体も遺灰もない。
玲奈の遺骸とも言うべき砂は、殆ど風に溶けて消えてしまった。
故に、玲奈が眠る場所という事であればこの場所が最も相応しい。
けれど、七海にはこの場を訪れる勇気がなかった。
未だ
那須は勿論、そんな七海の葛藤は知っている。
知っていて、此処に連れて来たのだ。
彼をこの場所に連れて来るには、今しかないと考えて。
再び、この世界が近界の大きな脅威に晒されている今こそ、彼を此処に連れて来るべきであると考えたのだ。
七海は今でも、黒トリガーを起動出来ない事を気に病んでいる。
彼を蝕む過去の疵は、未だ色濃く残っている。
だからこそ、此処でもう一度自分の
…………以前の那須であれば、考えられない行動であった。
以前までの那須であれば、七海を
だが、今は違う。
この場所は、那須にとっても忘れ難い悲劇の象徴だ。
今こうしているだけでも胸を締め付けられる感覚を覚え、今すぐに踵を返して立ち去りたくなる。
「…………」
だが、それは出来ない。
他ならぬ七海が歯を食い縛って己の
那須は顔を上げ、目の前に広がる空き地を見据える。
────ごめんね。遅くなって────
目を閉じれば、当時の玲奈の言葉が蘇って来る。
────分かってる。大丈夫だよ。玲一は、私が助けるから────
自分が縋り、その望みを聞き届けたのは彼の姉である玲奈だった。
────お姉ちゃんの
その結果として、玲奈は自らの命を使って七海の
────だから、お願い。玲ちゃんと一緒に、生きていて。お姉ちゃんの分まで、玲一には幸せになって欲しいんだ────
七海の
彼女は、その身を犠牲にしたのだ。
────さよなら、玲一。ずっと、見守っているからね────
────二人の心に、大きな傷跡を残して。
彼女の死は、未だに二人の心を縛り付けている。
二人だけではない。
迅も、小南も、玲奈と関わりを持っていた全ての人々が、彼女の死を忘れられずにいる。
否、忘れて良いようなものではない。
遺された自分達に出来る事は、嘆き悲しむ事ではなく、彼女の遺志を継いで前に進む事。
しかし、それは容易く出来るようなものではない。
これまで、その疵に縛られて正面からお互いの気持ちに向き合う事の出来なかったのが
けれど、今は違う。
七海も那須も、お互いの気持ちにきちんと向き合えるようになった。
過去から、逃げる事を止めた。
今なら、この
そう信じて、那須は七海に声をかけた。
「いきなり連れて来て、ごめんなさい。でも、今しかないと思ったの。私達の気持ちにきちんと向き合えるようになって、大きな戦いが来ようとしている今だからこそ、此処に来るべきだと思ったの」
「玲……」
「だから、此処で一緒に玲奈さんに言おう。自分達が、どうするべきか…………どうしたいの、かを」
那須はそう話し、七海の手をぎゅっと握り締めた。
その手は、震えている。
無理もない。
過去に疵を持つのは、彼女も同じ。
「あ……」
「…………大丈夫だ。一緒に、言おう」
そっと、七海は那須の手を握り返した。
手の震えが、止まる。
そして二人は隣り合わせで、
「…………姉さん、来るのが遅れてごめん。色々、あってさ」
「うん…………勇気がなくて、色々遠回りしちゃったけど、やっと…………自分達がどうするべきか、分かった気がするの」
それは、懺悔ではない。
自分達の意思を、
今を生きている、自分達の想いを伝える宣言だった。
「まだ、姉さんの
「もう、A級隊員昇格が遠めに見える位置まで来ているの…………ってのは言い過ぎかもしれないけど、それでも私達、強くなれたんです」
もう、過去の傷痕を引きずったままの自分達ではないと。
もう、悲しみに暮れるだけの自分達ではないと。
玲奈に、伝える為に。
「姉さんの死を忘れる事は出来ないし、する気もないけれど…………でも、俺達は俺達なりに、未来の為に戦うよ」
「もうすぐ、大きな戦いが来るみたいなの。迅さんが言うから、間違いないと思う」
そして、告げる。
自分達の、想いを。
「────だから、見守っていて欲しい。俺達が、未来を掴み取るその時まで」
「きっと、未来を守ってみせる。だから、見ていて下さい。私達の、戦いを」
二人は自らの意思を伝え、その場で一礼した。
そして、言うべき事は言ったのだと、二人はその場を後にする。
────うん。ずっと見守ってるよ。だから、頑張って────
ふと、そんな声が、聞こえた気がした。
振り向いても、そこには誰もいない。
けれど、確かに聞こえたのだ。
────「頑張って」という、玲奈の激励の声が。
七海の家のあった場所が空き地なのは、城戸さんがそう指示したからです。
本当なら家を復元してあげたかったらしいですが、下手に張りぼての家を復元しても七海を傷付けるだけだろうという判断です。
そんな感じで色々気を回してるのがこの世界線の城戸さんですね。