ヒガンの先に   作:霊界案内人

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 ふわふわ、ふわふわ。

 感情が浮ついている。なんてことのない街並みなのに、どうしようもなく心が弾む。

 普段から歩いている道なのに、視点が違うだけで別世界に感じられる。

 違う、別世界なんだ。実際に薄皮一枚の別世界に私は今立っている。

 だって私は歩いていない。だって私は見られていない。だって私は。

 

「生身じゃない」

 

 すれ違う人が私の身体をすり抜けていく。零した言葉は誰にも聞こえない。なぜなら今の私は幽霊だから。

 

 知っている街を一回り。自宅へ帰ってきた私の前には私がいる。

 力が抜けきり、くてっと横たわっている。気のせいかもしれないが、なんとなく顔色が悪い気もする。徹夜明けとかこんな顔色していたかも。

 

「さてと」

 

 横たわる自分の身体と重なるよう私も横になる。フリーフォールで落ちる瞬間のような浮遊感。

 

「うっ、はぁ……」

 

 運動で疲れ切った時のような虚脱感と倦怠感。力が入らず、身体が重い。ゆっくりと身体を起こしていく。川の流れに逆らう時の、まとわりつくような重さがこれまた怠さに拍車をかける。空気の重さを感じるのはなんだか新鮮だ。

 あの世界を体験してしまうと、なんと暮らし難い世界に我が身はあるのだろうかと思い知らされる。かといって知らない方が良かったとは思わない。

 私は自分だけのあの世界を思いのほか気に入っているのだ。何をするということはないけれども、私にはそれだけで十分だった。

 

 

 

 いつもと変わらない帰り道。特にこれといって何かがあったわけではない。けれどもなんとなく気怠い一日だった。

 

「早く帰って散歩に行こう」

 

 気分転換は大切。ガス抜きできる手段があるならやらない理由はない。善は急げと少しだけ足音の間隔が短くなった。

 今日は遠出をしよう。近所を歩いていても、どことなく空気が重くて居心地が悪かった。流されるように、遠くへ、遠くへ足を伸ばした。街並みが流れ、後ろへと消えていく。

 次第に街が消えていく。徐々に自然が増えていく。少しだけ空気が軽くなった気がする。裸足の足で原っぱを踏みしめる。茜色に染まる空はどこまでも落ちていってみたくなる色合いだった。

 行けるところまで行ってみようか。吸い込まれそうな空にそんな気持ちを刺激される。ふわりと身体を浮かそうとする。

 

「つれないねぇ」

 

 浮かび上がる直前に声が聞こえた。こんな森に誰だろうか。独り言か、誰かに言っているのか。興味をそそられる。

 声のした方へと向き直る。そこには一人の男がいた。なんて事のない平凡そうに見える人。強いて言えば、目つきがちょっと悪いかもしれない。

 けれども他には誰もいない。ならば先ほどの言葉は独り言だったらしい。続けて何かを言うのだろうか? 

 お行儀が悪いけれども、聞き耳を立ててしまおうか? 

 いたずら心がむくりと起き上がる。

 

「そこのお嬢ちゃんよ、無視しなさんなよ。寂しいじゃないか」

 

 お嬢ちゃん? 

 私のことだろうか。男の視線の先、私の背後を振り返ってみるが何もない。であるならば、見えているのだろうか。

 右へ三歩分。視線がずれる。左に三歩分。視線が戻る。

 

「見えるんですか?」

「おかしな事を。はなしかけているじゃあないか」

 

 にこやかな表情とともに答えを返される。俗に言う見える人、と言うやつだろうか。でも少しだけ、なんだか……。

 男が一歩踏み出した、無害そうな微笑みを浮かべて。だが、すぐに怪訝そうな表情へと変わる。理由は簡単、同じだけ私が後退ったからだ。

 

「お嬢ちゃん?」

 

 首筋がヒリヒリする。漠然と良くないものを感じている。言語化できる具体性も、確固たる根拠があるわけでもない。けれども、私はなんとなく良くない気配のようなものを感じていた。

 

「霊感能力がたけーのか」

 

 めんどくせぇと男がぼやく。先ほどまでの柔和な表情はどこにもない。目つきが悪いなりに目尻を下げて笑みを形作っていたが、今はもう鋭い視線が私を見ていた。

 お腹の奥から底冷えしてくる。胸がきりきりとして焦燥感を覚える。じりじりとすり足気味に足が離れようとしている。

 

「楽な獲物だと思ったんだけど……まぁ、いいや。姉ちゃんや、ちと喰われてくれんか」

 

 瞬間、身体中の血管が浮き上がりミチミチと嫌に生々しい音を響かせる。肉が盛り上がり、肌が変色していく。くすんだ緑色に染まった肌。隆起した筋肉。底冷えする気味の悪い圧迫感。

 薄っすらと男から、否、化け物からもやのようなものが立ち上っている。今朝からずっと感じていた嫌な空気と同じものをそれから感じた。周囲に広がる圧が増し、浮きかけていた足が地面に再び捕まる。

 

「っ!」

 

 弾かれたように駆けだす。いやだ。いやだいやだいやだいやだ。

 食べられたくなんてない。死にたくなんてない。まだ、まだ生きていたい。どうして私が? 何が悪かったの? 散歩(幽体離脱)が悪かったの? 

 みっともない癇癪が何度も頭の中で繰り返される。気がつけば視界が滲んでいた。混乱に陥った思考とは別に、ほんの僅かな冷静な部分が幽霊も泣けるのかとおかしな感心をしていた。

 生存本能に背中を押され、がむしゃらに走る身体。人の多いところとか、身体があるところとか、そんな明確な目標なんてない。

 ただ、直感が、本能が、こっちだと囁くままに必死で足を動かした。

 

「あーあー、まったく。面倒だなァ」

 

 化け物が笑う。嗤う。ワラウ。言葉とは裏腹に愉快だと、哀れだと、痛快だと嗤っていた。きっとすぐにでも追いつけるのに、いたぶるために距離を詰めてこなかった。

 だが振り返らなくともわかる。少しも離せていない。まとわりつくいやな気配は微塵も薄れない。聞こえる足音が少しずつ近づいている。首筋のひりつく感覚が強くなっていく。

 どれだけ走っただろうか。息も絶え絶えで、筋肉痛とは明確に違う痛みが身体の至る所を走っていた。

 

「はぁっ……はぁっ……いや、だ……」

 

 止まりたいと泣き言を叫ぶ身体を、歯を食いしばってねじ伏せる。あとちょっとだと勘が囁く。そう、この木々を抜ければと訴える。

 男がいた。無論、背後の化け物が先回りして人間の時の姿に戻ったわけではない。

 まだ随分と先にいるが、坐禅を組み、滝に打たれながら埋没する姿はどこか侵しがたい神秘的な印象を与えてくる。

 

「もう逃げないのかい?」

 

 耳元で囁かれる言葉。うなじを撫でる生暖かい吐息。ほんの僅かな時間だったけれど、惚けすぎているというには十分すぎた。危機感が足りていない。恐怖は本物だ。けれど、どこかでまだ死なないと思っていたのかもしれない。目が覚めたら普通に自分の身体で目覚めると。

 

「あっ……」

 

 間近で感じる圧力に腰が抜ける。辛うじて振り返り、尻餅をついて化け物を見上げる。だめだ、もう…………。ならばせめてと最期の悔いを清算したい。こんな化け物を連れてきてしまった事を彼に伝えなくては。

 

「……ぃ……」

 

 喉が張り付く。カチカチと歯が打ち合い、いうことを聞いてくれない。怖い。でもそれじゃあ駄目なんだ。心残りが残ってしまう。

 

「じゃあ、しまいだな」

 

 振り上げられる拳に終わりを幻視する。動け、動け動け動け! 

 最期なんだ。関係ない人を巻き込んで死ぬなんてだめだ。ならせめて、どうにかできる未練だけでも、果たしなさい、この意気地なし! 

 心の叱咤に決意を固める。拳を握りしめる。一度強く歯を食いしばり、震えをねじ伏せ、息を吸う。

 化け物を見上げ、精一杯の虚勢を込めて睨みつける。最期くらいは泣いてやらない。小さな小さな反骨心。

 ニヤつく顔が恨めしい。幽霊だから化けて出てやることもできない。

 ……幽霊が死んだらどうなるんだろうか。感覚が引き伸ばされている。世界がゆっくりと動いている。

 握った拳を強く降り抜く。拳の中の土を投げつける。

 

「このガキッ!」

 

 油断しきっていた化け物の顔に砂がぶちまけられる。化け物も眼球はやわいらしい。しきりに目の辺りを擦っている。ざまあみろ。

 いや違う、そんなことで溜飲を落としている場合ではない。吸った息を言葉に変えようと、力を込める。

 

「そこの人! 化け物がいるから」

 

 化け物が私の声に反応して何かを喚いているが、意味のある言葉として耳に入ってこない。もうそんなことを気にしている余裕すらない。けれど、男の人はピクリとも動かない。

 ああ、そうか、幽霊の姿が見えないように聞こえていない。

 理解をするも、すでに吐き出している最中の言葉は止められない。

 

「逃げて!!」

 

 ああ、自分で逃げて巻き込んでおいて、自己満足さえまともに果たせない。不甲斐ない。最後の最期でどうしようもない未練だなぁ。

 

「オラァ!!」

 

 怒気のこもった一括が背中を叩く。

 ごめんなさい、名前も知らない人。

 謝罪を言葉にする時間はない。でも時間はあっても聞こえないなら意味はないのかな。あーあ、やりたいこと、もっと色々──。

 

 パンッ

 

 空気の破裂音。駆け抜けた音に一瞬意識の空白が生まれる。意識が戻る前に何かが降ってきた。赤い雨。

 

「あっ……」

 

 咽せ返る鉄錆の匂い。体温を感じさせる生温い肌触り。

 

「……ぅ……」

 

 振り返った先には腰から上の無くなった化け物があった。噴水のように血を吹き出しているその姿は、今日一番で現実味を感じられなかった。

 

「俺もまだまだだねぇ」

 

 男がいた。ついさっきまで滝に打たれていたはずの男が、拳を振り抜いた姿勢で静止している。この人が拳で……。

 けれども不可能だとは思わなかった。どこまでも絞り込まれ、無駄のない肉体がその膂力の高さを教えてくれるようだった。

 私みたいに化け物の血で汚れているのに、侵し難い神秘さも、触れ難い気高さも、化け物の汚れごときではかけらも曇らない。

 理不尽な暴力を打ち払う姿はまるで、正義の味方。

 

「悪いね、お嬢ちゃん。自分に向けられた敵意だったらすぐに気がつけたんだがねぇ」

 

 霊感能力を鍛えなとゲンカイに叱られると、彼は小さな声で呟いていた。

 ただすぐに反応を返さなかったからだろう。怪訝そうな表情を私に向けてくる。

 

「あのっ!」

 

 彼の表情に返事をせねばと、湧き上がる感情に突き動かされて声を出していた。色々なことが頭の中でぐちゃぐちゃしている。未だに思考がまとまらない。無意識下で自覚もなく浮かんでは消えるいくつもの思考。でもだからこそ、きっとこの時の私は。

 

「弟子にしてくださいっ!」

 

 どこまでも本心で懇願していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「師匠、師匠! また変な使い魔が来ましたよ!!」

 

 眼球に羽根の生えた、異形蝙蝠みたいな生き物を摘んで道場の中へと入っていく。

 何度目かもわからないことだからか、精神統一のために坐禅を組んでいた師匠の表情が煩わしげに歪んでいる。周りの他の弟子達もまた来たのかとどこか呆れ顔だ。

 

「あっ」

 

 師匠の返答を待っている僅かな時間の間に、手の中の使い魔が私の拘束を抜け出す。もともとしっかりと捕まえてはいなかったのだから仕方ない。だって眼球を鷲掴むのはねちゃねちゃして気持ち悪いうえに、蝙蝠っぽい翼に清潔感は感じられない。

 必然、指先で翼を少しつまむ程度の拘束しかしていないのだから。

 

「戸愚呂、貴様を──」

「斬っていいぞ」

「はい師匠」

 

 まだ伝言を続けようとしている使い魔を遮って師匠が結を下す。

 

「霊刀」

 

 言葉とともに私の手から霊気が溢れ、刀の姿を形作る。一閃。それだけで使い魔は両断され、煙のように消えてしまった。

 師匠に弟子入りしてから流れた年月は、そろそろ片手の指では足りなくなりそうなほど。その時間で私も一端の霊能者と言える程度には成長を遂げていた。少なくとも昔、逃げることしかできなかったあの名も知らない化け物にも危なげなく勝てるだろう……多分、きっと、そうだと思いたい。

 

「成長したな」

「師匠の教えがいいからですよ」

「いや、俺は基本を教えただけだ。力を伸ばしたのはお前が努力をした証だ」

「あー……えへへ」

 

 師匠のまっすぐな瞳が照れ臭くてついつい顔が緩んでしまう。だらしない顔を見られたくないなぁと俯いていると、他の弟子仲間たちが冷やかし混じりでからかって来る。

 組手の時に覚えていろよと思いながら、深呼吸をして精神を平静化していく。

 

「まったく、どいつもこいつもだらしないね」

 

 背後にある道場の入り口から女性の声が響く。聞き覚えのある、少しだけぶっきらぼうでいて、実は面倒見のいい彼女の声だ。

 

「幻海さん、いらしていたのですか!?」

「あんたは……毎度毎度大型犬みたいに目を輝かせているんじゃないよ、馬鹿者」

「今日も相変わらずの鉄壁ですね」

「あんたは少しでも優しくすると図にのるからね。これくらいでちょうどいいんだよ」

 

 幻海さんの返答に、思わずぐぬぅと唸ってしまう。心当たりがありすぎる。数少ない同じ女性武術家で霊能者ということで、師匠との繋がりもあり何度も面識を持つことができた。そして幻海さんの人柄に慣れた頃、一緒に買い物へ出かけ、つい着せ替え人形にしてしまい、一発入れられたのは記憶に新しい。というかちっさくて可愛い幻海さんが悪いと思う。まぁ、他にも細々としたことが間々あるのだが。

 それでも何だかんだと友誼は続いているし、心配をしてくれたりもする。幻海さんはわたしを大型犬と言うけれど、幻海さんは人馴れしてない猫みたいじゃないか。

 

「馬鹿なこと考えてるんじゃないよ」

「馬鹿なことは考えてませんよ」

「はぁ……全く。あんたの弟子は煮ても焼いても食えそうにないねぇ」

「すまないな、幻海。これはこれで他の弟子たちにいい影響を与えてくれている」

「だろうね。見りゃわかるよ」

 

 幻海さんが道場内を見渡して、口端を小さく持ち上げた。

 

「アンタに似たのか、求道者の集まりみたいなとこだったけど、いい感じに肩の力みが抜けてるね。悪くないじゃないかい」

「そうか……弟子に助けられるとは、まだまだ俺も未熟ということだな」

「クソがつくほど真面目だね。たまにはアンタの兄を見習いなよ」

「兄者と俺は違う。俺は兄者のようには振る舞えないさ」

「振る舞いじゃなくて、休みを取ったりするってことをだよ。馬鹿だね、ほんとに」

 

 幻海さんの切り返しに、師匠が小さな呻きを漏らした。返す言葉がとっさに出なかったのであろう。師匠には悪いけれど一回りも二回りも小さい幻海さんに、たじたじの姿は何だか人間味を感じられてとても楽しい。やはりわたしは二人が並んでいる姿を見るのが好きなんだと改めて実感した。

 弟子入りし始めた当初は、師匠の鬼神のような強さや頼もしさに惹かれもした。でも幻海さんと出会い、お二人を見ていると入り込む余地の無さを理解したし、それ以上に二人が好きだったから自然と気持ちは無くなっていった。

 今はただこんな日がこれからも続けばいいなと、師匠と幻海さんを見て心からそう思う。

 

 

 

 大きな変化もなく、私の日常は続いている。鍛錬を行い、時折先輩方とともに霊能者としての経験を積む。妖怪退治や、ちょっとした除霊。本人の思い込みによるなんでもない案件。

 武術家としても霊能者としても、少しずつ経験を積み、技量を研鑽していた。そしてやってくる使い魔の頻度が、最近は徐々に減ってきていた。

 

「ふっ!」

 

 そんな変わらない日々の大半は修行だ。師匠の方針は、基礎的なこと以外は本人の多様性を伸ばすというものだ。霊能力は人によって差異がある。

 幻海さんのところのように霊能力自体を体系化し、伝承するのではない。武術家として、戦う者としての基礎を教え込み、それを土台として自身の霊能力を融和させていく。

 心技体でいえば、どちらかといえば技に重きをおく幻海さん。どちらかといえば体に重きをおく師匠。どちらが優れているという話ではない。どちらが自身に向いているかというのが大切なのだと思う。

 少なくとも私は霊光波動拳のような、高度な霊力の取り扱いは向いていないと思っている。

 

「はっ! せい!」

「軽い、軽いぞ!」

 

 私の振るう棍が師匠に軽くいなされる。時折防御を抜けて、胴体を捉えるが私の手の方が痺れてくる。今の武装じゃ話にならない。

 霊気で生成した棍を崩す。崩れた霊気が両手に集まり形をなす。コンマ数秒で棍は旋棍へと形を変える。旋棍の持ち手を強く握りこむ。悪くない。掌へ帰ってくる感触が、霊気の収束密度を教えてくれる。

 長柄の武器ではないから、師匠との距離が近くなる。自分から師匠の間合いへ踏み込まなければならない事実に一瞬だけ身体が竦む。これではダメだ。臆した気持ちを叱咤して、一歩踏み込み打突を放つ。

 

「ちぇぁあ!」

「遅い!!」

 

 叱りつけるような声とともに、私の視界が激しくぶれて、意識が途絶えた。

 

 

 

 冷たい。そんな漠然とした感覚に、意識を蹴り起こされる。判然としない意識の中、ぼんやりと瞼をこじ開ければ、バケツを片手に私を見下ろしている先輩の姿があった。

 

「あれ……わたし……」

「覚えてないか? 組手で意識飛ばされたの」

「……あ」

「よし、記憶は飛んでないな。師匠、問題なさそうです」

 

 先輩が私とは別の方向を見て報告をしている。周囲を見れば、道場の外の水場だった。そうか、という師匠の返答が遠くから聞こえる。

 弟子仲間たちの声と、続いて響く師匠の叱咤の声から推測するにまだ皆修行中のようだ。

 

「先輩、私はもう大丈夫ですので戻ってください」

「そうか?」

「はい。もう少ししたら中へ戻ります」

「わかった。だがあまり無理はするなよ」

「はい」

 

 私の言葉に、先輩は特に迷うことなく道場へと戻って行った。先輩の後ろ姿を見送りながら、以前聞いた幻海さんの言葉を思い出す。

 求道者の集まりが多少マシになった。彼女はそう評していたけれど、私たちからすれば全然そんな気はしない。ぱっと見は良くなったかもしれないけれど、結局のところは変わらない。

 師匠の元へとやってくる武術家はみながみな求道者だ。強さを求め、力を求め、師匠へと弟子入りしていく。

 私はどうなんだろうか。やめることなく食らいついている。だから少なくともてんで才能や適性がないということはない。けれど浮ついた気持ちはないと言い切れるのか。浮かんだ雑念を振り払うため、頭を振れば、少しだけくらりと目眩がする。

 目眩で多少気は紛れたが、まだ立って歩くには心もとない。仕方ないと手持ち無沙汰な私は、手元で霊気を弄ぶ。数字を1から2、3と数えるように順番に、霊気で形を作っていく。一人あやとりをしている気分に近いが、黙々と没頭できるこの修練は結構気に入っている。

 これが私の霊能力。私には霊気の物質化適正があったようで、私はその能力を伸ばしている。武器に強いこだわりはないので、選択肢の多さを重視し、成形する武器にこだわりはない。

 最初はそれこそ丸めた新聞紙みたいにぐちゃぐちゃで、てんでお話にならなかったが、今ではこの通り数字を作るのも朝飯前。

 

「ん、そろそろましになったかな」

 

 目眩も気持ちも、ある程度すれば落ち着いてくる。立ち上がって軽く一伸び。組手での打撲が痛みを小さな声で主張するが、この程度なら日常茶飯事。さて私もそろそろ戻ろうかと気持ちを切り替え用とした時に気がつく。

 感じ覚えのある霊気だ。

 

「あ」

 

 霊気の方角へと視線をやれば、やはり見知った顔がそこにはあった。

 

「幻海さん!!」

 

 反射的に大きな声となった呼びかけに、遠くに見える幻海さんは嘆息したように見えた。

 

 

 

 

「そういうことですまないが、数日道場を空ける。面倒をかけるが許してくれ」

 

 幻海さんの用事は師匠を借り受けたいというものだった。どうにも大陸での妖怪退治を依頼され、師匠にも声がかけられていたらしい。

 師匠と幻海さんは同じチームではないし同門でもないが、切磋琢磨し時に共に仕事をすることもあるせいか、二人で一組の退治屋と認識されていることがある。

 まして海を挟んだ国外のものから見れば、余計にその辺の細かい事情はわからないのかもしれない。仲間の師匠と来て欲しいとの依頼が幻海さんのところへ行っていたようで、「私はあんたの受付じゃないんだがね」と少しだけ不機嫌そうに零していた。

 しかし、わざわざ海外から二人を呼ぶような相手に武術家として興味が湧くようで、不承不承ながら今回の依頼を受けることにしたらしい。

 

「いえ、お気になさらないでください。むしろ留守の間も道場の使用を許可していただいてありがとうございます」

 

 道場の出口で出発前の謝罪を口にする師匠に、最古参の弟子が代表して私たちの気持ちを代弁してくれていた。

 師匠はすまなそうにしているが、私たちはその間に普段の清掃では後回しになっているような場所や、道場の一部の修繕などもしてしまおうと計画している程度には図太い。

 師匠も四六時中道場に詰めているわけではない。初めて出会った時のような、自身のためだけの修行や、今回のような仕事などで道場を開けることがある。

 だからこそ稽古をつけて貰えるときは、その辺りがどうしてもおろそかになりがちであった。そういった理由から、師匠がいない時に細々とした雑務を進めることが多い。

 

「まったく、子供の留守番じゃないんだ。私は先に行ってるよ」

「幻海……やれやれ、また叱られたか」

 

 私たちがどう過ごしているかなんてお見通しの目敏い幻海さんは、付き合ってられないと踵を返して離れていく。その背中を視線で追いながら、師匠は頭を掻いていた。

 

「師匠、追いていかれますよ」

「そうだな。すまんがあとは頼む」

「お任せください」

 

 そうして師匠は幻海さんの後を追いかけて行った。

 離れていく師匠の背中に、私は理由もわからない不安を覚えていた。

 大切なものをなくしてしまうような、二度と会えないような、そんな喪失感と寂寥感を漠然と抱えていた。

 

 

 

 

 師匠が出かけて数日経ったが、特に何か起きたりはしていない。

 あの時に胸に抱いた感覚は杞憂だったかと、抱いたという記憶も薄れつつあった。その間私たちは、大掃除をしたり、畳を干したり、日々私たちが叩きつけられ叩きつける床板の一部を補修したりと大忙しだった。

 

「そろそろ師匠は戻られるんですよね」

 

 諸々の雑事も一通り終わり、道場で一息ついている時に、近くにいた兄弟子の一人へと問いかける。今朝の始まりに最古参の弟子で、実質的なまとめ役をしている人物が、師匠が無事に仕事を終えて帰路についていることを報告していた。

 報告によると、自分一人でも楽に方のつく仕事で拍子抜けしたとこぼしていたそうだ。

 妖怪を過大評価していたのか、師匠達が過小評価されていたのか。海を隔てた別国の師匠達にわざわざ声をかけたのだから、きっと前者が正しいのだろう。

 自分の中でそう結論づけて、似たようなことが何度もあった出来事の一つとして、いずれ記憶の中で埃を被る。そうなるはずだった。そうなるはずだったのだ。けれど現実は。

 

「──っ!」

 

 違った。初めの変化は怖気だった。圧倒的と言えるほどの不快さ。今まで感じてきたことのあるソレと比べると、いっそ別のものなのではと疑いたくなるほどの違いを有するソレは、紛う事なく妖気だった。

 まだ遠い。しかし、確実にこちらへと向かってきている。それも凄まじいほどの速度で。霊感能力の高さから感知能力に差はあれど、私に続いて霊感能力の高い他の弟子達も気がつき始める。

 霊感能力の低い弟子も、一様に変化を起こしている弟子達が、霊感能力の高いもの達だと気がつくと、自然と臨戦体制へと入って行っていた。

 そうしてそれはやってきた。道場の扉を障子紙みたいにあっさりと引き裂きながら現れた。

 

「潰、煉」

 

 ぽつり。誰かが零した妖怪の名が、嫌に耳にこびりついていた。

 

 

 

 戦況、なんて呼べるものではなかった。戦いなどではなかった。それは蹂躙であった。それは羽虫を潰す作業となんら変わりなかった。

 先手必勝と血気盛んな五人が我先にと飛びかかったが、腕の一振りで即死した。肉の潰れる音。骨が砕ける音。飛び散る液体の音。むせ返る鉄の香り。

 たった数秒で私たちの知っている景色が、完膚なきまでに破壊された。私たちの仲間が誤解を挟む余地さえないほどに、ただの肉へと変えられていた。

 感情が仲間の仇を取れと憤怒に燃え上がる。理性がこいつを殺さないと生き残れないと答えを導く。そしてそれは弟子たち全員が共通して出した答えだった。

 不思議と恐怖はなかった。仲間が死んだ現実は正確に理解している。悲しいし、言葉にできない怒りも湧いている。だが自分も死ぬ可能性があると理解しているのに、どうしても現実感を伴うものとして実感が湧かなかった。

 そんなだから。その程度だから。だから。だから。だから。

 

「……かふっ」

 

 血反吐を零し、無様に這いつくばるのは必然だった。

 物質化した霊気が盾の代わりとなったお陰で運良く、いやこの場合は即死できず苦しんでいるから、運悪くが正しいのかもしれない。

 妖怪の体のいたるところから伸びる触手の一振りで力の差を思い知らされた。

 ほんの数分。たったそれだけの時間で五体満足の弟子は存在しない。むしろ死んでいる仲間の方が多い。生きている弟子も私とそう変わらない。

 妖怪が本気を出さずに遊んでいるから生きているだけだ。全力で来られていたのなら、道場内の生者は妖怪だけとなっていただろう。

 痛む臓器を無視して、無理やり立ち上がる。

 

「うっ……はぁ、はぁ……」

 

 無理に動かした痛みを我慢し、せり上がってくる吐き気をギリギリで押しとどめる。だが舌の上には胃酸特有の酸っぱさではなく、鉄の味が残っていた。

 妖怪は、立ち上がる私を含めた数名を楽しげに眺めながら、もはや立ち上がる気力のない者達へ引導を渡していた。

 脳震盪の私を介抱してくれた先輩が死んだ。

 同じ霊力の物質化能力を持っている同輩が死んだ。

 霊力の基礎鍛錬の面倒を見ていた後輩が死んだ。

 死んだ。死んだ。死んだ。

 意識のないまま死んだ。私に手を伸ばして死んだ。死にたくないと懇願しながら死んだ。助けろと縋る瞳を向けてきて死んだ。

 死んで死んでまた死んだ。

 

「うっ、おぇぇぇ」

 

 目の前の殺戮に、一度堪えられたはずの吐き気を抑えきれなくなった。ここにきてようやく現実感を伴った死の気配が私を捕まえる。びちゃびちゃと真っ赤な胃液が床へと落ちる。誰のものかわからない部品へ落ちていく。

 頭がおかしくなりそうだ。いっそ正気を失くすことができたのなら、どれだけ幸せだっただろうか。

 本当に最悪だ。命乞いの無意味さなど考えるまでもなくわかる。戦うしかない。だが勝てるわけがない。子供でもわかるほどの力量差が隔たっていた。

 けれども死にたくないと心が騒ぐ。死なないために戦うしかない。戦えば死ぬしかないとわかっているのに、選択肢が存在しなかった。

 

「師匠……」

 

 弱気な心が、思わず最も頼りになる相手のことをつぶやく。

 

「あっはっはっはっ!!」

 

 唐突に妖怪が嘲笑をあげる。妖怪の感情に呼応したのか、妖気にもうねりが生じ、弱気になった私達の心をさらに追い詰める。胸が重くなり、息が苦しい。

 

「師匠、師匠ねぇ……あっはっはっはっ!! 哀れで惨めで思わず優しくなっちまいそうだ、あっはっはっはっ!!」

 

 どうにも私の呟きを耳ざとく聞き届けた結果らしい。どうにも妖怪は気分が良いようで、私達の返答は必要としていないらしい。

 

「お前らがこうなっているのは、その師匠の戸愚呂の所為だったのに健気で泣けてきちまうぜ」

 

 言葉の内容とは裏腹に、かけらもそんなそぶりを見せない妖怪の姿は、どうしようもないほどに不愉快だ。

 視線に宿った嫌悪をどう受け取ったのか知らないが、妖怪の口元が釣り上がる。化け物の表情なんて知らないが、笑っていることだけは理解できた。

 

「お前らは招待状だ」

「招待状?」

 

 妖怪の言葉に、他の誰かが訝しげな言葉を返す。

 

「暗黒武術会のゲストに選ばれたのさ、戸愚呂は。そしてお前らはその招待状。逃げたらどこまでも追いかけて殺すっていう伝言だ」

 

 武術会に出ても殺すがな。愉快だという声音を隠すことなく付け足すと、妖怪は私達の反応を伺うためか瞳を細めた。ドブのように薄汚れている瞳は、加虐の色を隠すつもりは一欠片もない。

 私は理解した。時折やってきては、弟子の誰かに処理されている使い魔が思い出される。最近妖怪たちの活動が活発だった理由が理解できた。

 あれらは武術会への誘い。騒がしいのは武術会(イベント)が待ち遠しいゆえの高揚。そして極め付けの招待状。どうにもこいつらは師匠をそこへ引きずり出して嬲り殺しをしたいらしい。

 そんな馬鹿げた理由で。そんな身勝手な理由で。

 

「……け……な」

「んん? 戸愚呂への恨み言なら俺が伝えて──」

「──ふざけるな! 貴様らの娯楽に師匠を巻き込みやがって!」

 

 心の底から腹立たしい。怒りが恐怖を踏み潰す。身体の痛みが引いていく。

 何だって人を救っている人が理不尽に晒されるんだ。どうして私の恩人が、恩師が、大切な人が馬鹿をみるんだ。

 ああ、本当に腹がたつ。何故こんな奴が強い。何だってこんな奴の思い通りにならなくちゃいけない。どうしてこいつが師匠よりも強いんだ。

 この目で見て、肌で感じたからわかる。この妖怪は師匠よりも確実に強い。どうしようもないくらいに強い。私達が束になったって足元にも及ばない。

 でもそれは理由にならない。もう諦めておびえる理由にしたくない。

 私達が死ぬことは、どうあがいても決定している。こいつが見逃すとは思えない。師匠達の帰りも間に合わない。師匠たちの仕事は仕組まれたものだったのだろう。

 ならやることは決まった。師匠と出会った時と何も変わらない。どうにかできそうな未練を片付ける、この命を捨ててでも。

 師匠に救われていなければあの時死んでいた命。師匠のために使いつぶすことに忌避はない。

 

「師匠はお前なんかに負けはしないっ! けど最後の師匠孝行だ、指の一本でも貰い受ける!!」

 

 啖呵を切って、自らを鼓舞する。霊力が普段よりみなぎっている。死にかけなのに今までで最高のコンディション。命が燃えている。

 背後からため息が聞こえる。でもそれは呆れていながら、少しだけ楽しげだった。

 私のわがままに付き合ってくれるのか。一緒に死んでくれるのか。それは望外の喜びだ。

 

「あの世で謝らないとなぁ」

 

 冗談めかして呟けば、小さな笑いや呆れた声が返ってくる。私は本当にいい人たちに恵まれた。

 

「……つまらん。もういいから死ね」

 

 妖怪の持ち上がっていた口角が下がる。気分を害すことはできたらしい。それは僥倖と私の口角が逆に持ち上がる。

 本当は死ぬのは怖い。それでもやらなければならない、やるべきことは決めている。小さく震える身体に力を入れて、震えを止める。逡巡は隙を晒すと師匠が何度教えてくれた。思い出せ、師匠の教えを。

 

「みなさ──」

 

 飛び出すための掛け声が搔き消える。理由は単純、妖怪が行動を起こしたから。

 妖怪の胴体から生えている触手が私の横を通り過ぎていた。背後から身体にかかる妙な生暖かさの液体。ギチリと軋む音に、無意識に歯ぎしりをしていたことを自覚する。

 分かっていたけど見えなかった。知っていたが、力が隔たりすぎている。だけど、それでいい。それくらいで丁度いい。侮り、見下し、蔑み、慢心されるくらいが丁度いい。一矢報いるのなら、これくらいでいいのだ。

 

「お前っ!!」

 

 激昂したように見せるため声を荒げる。事実、怒りは満ちている。けれども冷静さは失っていない。それを悟らせてはいけない。勝負の機会もほんの一瞬。たったの一度。

 注意を分散させるため、私は側面へ回り込もうとする。まだ生きている他の弟子たちも私の意図を察して散会してくれた。伊達に数年同じ釜の飯を食べていない。

 一秒、二秒と刹那の間に誰かが死ぬ。私を見ながら、奴が誰かを殺す。生意気に口答えをした私の心を折りたいらしい。見せつけて殺す姿に、私から逸れない歪んだ瞳に、私はそのことを理解させられた。

 無力さに歯噛みする。握りしめている拳から血が垂れる。けれどもお陰で一矢は報いれそうだ。私を含め、生き残りは後三人。

 死屍累々の道場内で、私たちは三方から妖怪を囲んだ。私と向き合い、他二人に背中を見せる余裕ぶり。

 睨み付けると、加虐の瞳が返ってくる。好都合だ。私が折れずに睨みつけている限り、相手の視線は私を見ているだろう。

 

「覚悟ッ!!」

 

 気合い一声。霊気の刀を手の中に精製して跳びかかる。

 

「ひひっ」

 

 妖怪の笑い声が聞こえる。跳びかかった私の世界が引き延ばされる。死の間際による集中と、死を僅かでも先伸ばそうとする肉体が世界の時間を遅延させる。

 視界の隅、今まで見えなかった妖怪の触手の動きの起こりが知覚できた。なぎ払い。私の身体を上下に両断したいらしい。

 ゆっくりと流れる世界。でも私は霊刀を盾にしようとはせず、突きを打ち込む体勢を崩さない。遅れる世界の中にあってなお、ぶれるほどの速度で触手が迫り来る。僅かな先の未来が嫌でもわかる。

 このままでは届かない。私はもちろん、妖怪もそれを理解している。歪む瞳が喜悦を宿していた。だからこそ私は笑う。

 

「はぁっ!!」

 

 身体が軽くなる。先ほどまであった妖気を隔てる壁が一つ減り恐怖が増す。妖怪の顔が歪む。初めて見る歪み方。

 ざまぁみろ。口に出すほどの時間はない。背後で(わたし)の潰れる音を聞きながら、私は霊体のまま刃を突き出す。肉を突き刺す感触。やはりあの時と同じ、妖怪も目は柔い。

 

「貴様ァア!!!」

 

 怒声。衝撃。

 

「ぁ……」

 

 霊体が妖怪から離れ始め、全身が砕けそうな痛みが遅れてやってきた。離れたことで視界が広がる。妖怪の背後では二つの肉が宙を舞っている。妖怪の正面には、幽体離脱で捨てた私だった物が飛散していた。

 ふり抜かれている妖怪の腕に、殴られたことを理解した。残った片目で私を見ている姿は実に気分がいい。身体の痛みを一瞬忘れるほどの達成感。しかし、私の上機嫌もつかの間。

 悲鳴が聞こえる。慟哭が耳を打つ。絶叫が木霊する。よく知る声の初めて聞く声色。

 妖怪の後方、道場の入り口に師匠がいた。

 

「し、しょ……」

 

 声が出ない、続かない。言いたいことはたくさんあった。伝えたいことが山ほどあった。知ってほしい想いがあった。けれど届かない、届けられない。師匠の叫びに、悲壮な表情に、彼の心境が伝わってくる。

 和らげたかった。慰めたかった。

 

(ごめんなさい)

 

 謝りたかった。

 浮かんだ未練を最後に、私の意識は闇へと落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

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