ヒガンの先に 作:霊界案内人
何をしていたのだったか。私は何をしていたのだろうか。
ぽた。ぽた。水滴が何かを打っている。
私はどこにいるのだろうか。私は何を忘れているのだろうか。
ぽた。ぽた。水音がする。
周囲は闇に覆われて、何も見通せない。どこまでも。どこまでも。
深淵がごとくすべてが黒に沈んでいる。
自分の身体の輪郭があやふやだ。私の身体は本当にここにあるのか。
幽体離脱をしているときよりなお、ふわふわとした浮ついた感覚。
闇色の世界に視線を巡らせれば、何かがうっすらと見えた。
人影のようなその何かへ意識を集める。少しずつ、少しずつその形が鮮明になっていく。
発達した筋肉に、大柄な身体。短く切られた髪。
私は彼を知っている。私は彼をよく知っている。
師匠。
呼びかけようとした言葉は音にならなかった。声が出ないことにその時初めて気が付いた。
人影が、師匠がゆっくりと足を進める。ゆったりと私の方へと近づいてくる。
近づくにつれ、見えなかった表情が浮き彫りになっていく。
鬼だ。師匠の姿の鬼だった。師匠の心に鬼が、修羅が宿っていた。
まるで幽鬼のようだった。黒い瞳は何も写さない。ピクリともしない表情は、死者のように生気が褪せている。
ひたり。ひたり。師匠が近づく。
怖い。恐ろしい。見ていられない。
けれども視線はかなしばりにでもあったかのように逸らせない。
師匠が近づいてくる。瞳は虚無を、顔に鬼を、心に修羅を宿らせて。
師匠が目の前まできた。歩みは止まらない。
師匠は目の前にいるはずの私を一顧だにしない。私をみていない。私がみえていない。
ぶつかると思った瞬間、師匠が私をすり抜けた。否、私が師匠をすり抜けた。
あぁ、そうか。私は…………。
背後へと流れていく師匠へ振り返る。もはや表情は見えない。
離れていく背中を見ることしかできない。私の足は、動かない。私の声は、届かない。
ぽた。ぽた。水滴が落ちている。
「馬鹿だね、あんたも」
聞き覚えのある声だと理解した瞬間、離れていく師匠と私の間に、幻海さんが立っていた。
私の知る彼女にしては、珍しくどこか寂し気な表情をしていた。
「本当に、あんたもあいつも大馬鹿者だよ」
幻海さんはそういうと、私の顔へと手を伸ばす。
「泣くな。泣いたってどうにもなりゃしないよ」
水滴の音がする。私のこぼした涙が音を立てる。
幻海さんの手をすり抜けて、雫は下へ下へと落ちていく。
幻海さんの表情が、何かを耐えるように一瞬だけこわばり、すぐに元へと戻った。
「あんたもいつまでも立ち止まってないで、自分の進む先を決めて歩くんだよ」
幻海さんは一言、そう告げると私をすり抜け、師匠とは逆の方へと歩いて行った。
引き留めようとした言葉はやはり音にはならない。
師匠はもう随分と遠くへ行ってしまっていた。輪郭がぼやけ、闇に溶けようとしている。
幻海さんも離れていく。二人の距離がどんどんと離れていく。
その事実がどうしようもないほどにやるせなくて、悲しくて、苦しかった。
「ごめんなさい、師匠」
何についての謝罪だろうか。誰にもその言葉は届かない。
「ごめんなさい、師匠」
自分の声で目が覚める。どうにも夢を見ていたようだ。
頭がぼうっとする。この夢を見るのも随分と久しぶりだ。
この夢を見るといつも胸に大きな喪失感を覚える。ひどく気分が滅入ってしまう。切り替えないと。
さて、寝る前は何をしていたのだったか?
「なんじゃ、昼寝はもう終わりか」
愉快そうな声にハッとする。しまったという後悔と、みっともない姿を見せたという羞恥で顔がかぁっと熱くなり、一気に頭が覚醒した。
反射的に声の方へと視線をやれば、予想通り部屋の主であるコエンマ様が、楽しげな笑みを浮かべていた。
「コ、コエンマ様……仕事中に居眠りなど申し開きもありません……」
「よいよい。珍しいものを見れたと楽しんでおるよ、わしは」
私の謝罪の言葉を、コエンマ様はからからと楽しげに笑いながら切って捨てる。相も変わらず優しくて愉快な方だ。
それならばと好意に甘えさせてもらうことにした。私が意固地になってもコエンマ様が困るだけなのは、長い付き合いで理解している。死後から数えて十年ほどの付き合いだ。それくらいはわきまえている。
「ご配慮痛み入ります」
「やめいやめい、堅苦しい。ジョルジュほどと言わんがもう少し力を抜くといい。でなければわしが疲れる」
「であるならばお言葉に甘えまして、コエンマ様」
「なんじゃ?」
返答がお気に召したのか、コエンマ様の声に楽しげな色が混ざる。普段から糸のように細められている瞳が、ゆるりとアーチを形作る。
「私が寝ている間に食べられた饅頭は美味しゅうございましたか?」
驚いたコエンマ様が吹き出しかけ、危うくおしゃぶりが口元から出かかっていた。
何故バレたのじゃと頭を悩ませるコエンマ様を横目に、私は書類の整理を行う。コエンマ様が結を下したものとそうでないものとをより分けていく。
ちなみにおやつをこっそり食べたのがわかった理由はお茶の香りだ。仕事時に飲む用のものではなく、ちょっといいものを食べるときに取り出すお高めの茶葉の香りが残っていたのだ。
肩の力を抜けと言われたから、ちょっとだけ羨ましげに言ってみたが、別段食べたいわけではなかった。
「自分だけ美味しいものを食べてずるいなぁ」とかはジョルジュさんの領分であって、私の担当ではない。私はコエンマ様の忠実な部下枠で、ジョルジュさんは気の置けない明け透けな部下枠。
なんて勝手なことを自分の中では思っているが、コエンマ様にとってはどちらも見守るべき幼い部下なのかもしれない。
「うーむ、やはり起こすべきだったか? でも最後の一個だったしなぁ」などと腕を組みながらウンウン唸るコエンマ様は、見た目相応に愛くるしいが、流石に気にし過ぎな気がする。親しみやすさを出すためのコエンマ様なりの工夫かもしれない。
「冗談なのですから悩むふりをしないでこちらの書類をお願いしますね。お父上に仕事が遅いと叱られますよ」
うたた寝をしていた私が言ってはいけない台詞ではあるが、言わねば進まないこともまた事実。自らの振る舞いを戒める思い出の一つとして、甘んじて今回の恥を胸に刻む。
「親父を仕事に絡めるでない。尻が痛くなるだろう」
何かを思い出してしまったのか、ふかふかの椅子の上でお尻をもぞもぞとし始める。やれやれ、どうにも集中が途切れてしまっているようだ。
「あと少しですから頑張ってください、コエンマ様。また人間界へと出向いたついでにお土産を買ってきますから」
「ほほう??」
糸目だったコエンマ様の瞳がカッと見開く。相変わらず感情表現が豊かな上司である。
「もちろんわかっておろうな」
「いつものお店のですよね、了解しておりますよ」
「よーし、やるぞー」と袖をまくって判を取り出すコエンマ様。袖口がゆったりとしているから、捲ったそばからズリ戻っているが、やる気を込める儀式のようなものだから指摘しない。
なんともはや良い上司に巡り会えたものだ。お土産だって、毎回理由付けをあれやこれやとしているが、返せないほどの恩があるのだ。
恩に着せても良いし、上司命令でも良いというのに本当にお優しい方である。
こんな事で欠片でも恩を返せるとも思わないが、少しでもコエンマ様のためになることをしたいというのも偽らざる本心である。たとえそれが賄賂染みた行為であっても。
「あまり思い詰めるでない」
同じ声なのに、先ほどまでの冗談めいた調子が微塵もない言葉に心臓が跳ねる。
「声にでも出していましたか?」
「なに、そんなことはないさ。ただ良くないことを考えている時の顔をしておったからな。年寄りとしてのお節介じゃよ」
こちらを見ずに書類を読んでいるというのに実に聡い。あぁ、本当に
少しすれば本日分の仕事が片付く。やるべき事が全て終わったのではなく、本日分のノルマを達成しただけであるが。
葬儀屋は不況知らずとは良く言ったものだ。なるほど確かにと、体験すれば納得せざるを得ない。
といっても私が葬儀会社に就職したというわけではない。今私がいるところは、死後の世界にある霊界と呼ばれる、あの世とこの世の境目にある途中駅のような場所だ。
死後にやってきた魂に公平な判決を下し、各々の魂に見合った行き先へ案内する。その仕事のお手伝いが私の職務である霊界案内人、つまるところ死神とでもいうやつだ。死神といっても人を殺すわけではないが。
人を殺して魂を連れてくるのではなく、死んだ魂を霊界へ運ぶのが主な仕事だ。
人の生命を掌握するような神様ではない。どちらかといえばタクシーみたいなもの。
そんな幽霊専門のタクシー運転手になったきっかけは無論死んだことだ。
人の世で死に、霊となった私もほかの死者の例に漏れず霊界へと運ばれた。
違いがあるとすれば、私の魂が損傷していたために、生前の行いへ判決を下すには、回復を待たねばならなかった点だろうか。
損傷しているがゆえに、生前の行いを映し出す浄玻璃鏡が正しく機能しなかったからだ。欠けたものを写しても欠けたものしか映らないのは鏡の常識だ。
だがそれはほんのきっかけに過ぎない。ただ他のものよりちょっと長く霊界にいる程度の違いしか発生しない。
だから今私がここにいるのは別の理由が原因である。それは幽体離脱の才。もっといえば霊体での活動における適性の高さとでもいうのだろうか。
普通の幽霊は一般人には見えないし、何かに触れることもできない。霊能力のあった者であれば、霊力を用いてある程度のことは出来るらしいが、非常に効率が悪いらしい。
それに対して私は、昔妖怪から逃げる際に霊体のまま砂を掴んだことや、幽体離脱を生きている頃から難なく行えていた点から考えて、霊体での活動適性が高いとのこと。
さらに自分は気がついてはいなかったが、意識すれば普通の人間にも霊体の姿を、生身のように視認されることも可能とのこと。
つまるところはその適性の高さから、死後にスカウトされたのだ。霊界で働かないかと。
わたしにも思うところというか、未練とでも言うべきものもあったため、話をすり合わせた結果が今である。
「いやぁ、疲れた疲れた」
よっこいせと年寄りじみた掛け声を漏らしながら、コエンマ様が自らの肩をトントンと叩き始める。
なんともはや似合わない仕草にもほどがあるが、実際問題疲れているのだろう。
「それではこちらは下げさせていただきます」
判を押された処理済みの書類の束を綺麗に整え、手に取る。
「あぁ、後は頼むぞ」
「はい、お任せを」
書類を抱え、コエンマ様の執務室を後にする。向かう先は上司の上司。つまるところは閻魔様のところである。
普段通りに閻魔様の執務室に控えている職員へ書類の束を渡し、当たり障りのない会話を少々。
部屋を出る前に、閻魔様から軽くコエンマ様のことを聞かれ、普段は厳しくしていても何だかんだと心配性な御父上なのだと実感する。コエンマ様の事を心配していることを漏らしてはダメだぞと軽い口止めののち、私の今日の仕事が終わりとなった。
明日は久方ぶりの休日だ。人間界へと顔を出すことは決めているが、何からやっていこうかと、しなければならない事、したい事をそれぞれ思い浮かべ、優先順位をつけていく。
自室へと向かって歩いていると、誰かが向かい側から歩いてきていた。
厳格そうな表情に口ひげを生やしたその人物は、私の知っている人であった。
霊界特別防衛隊の隊長、大竹さんだ。彼も私に気が付いたのか、足を止めて声をかけてきた。
「しばらくぶりだね」
「はい、そうですね。ご健勝そうで何よりです、大竹さん」
「何、最近は大きな事件もないからな。我々の仕事がないだけさ」
「それは重畳でございます」
当たり障りのない返答を口にする。外面を綺麗に取り繕っているせいか、大竹さんからは別段不快そうな様子は見られない。
さっさと会話を切り上げたいが、そうはいかないのだろうなと、笑顔の裏で嘆息する。
「それでまた話を蒸し返すようで悪いが、考えが変わったということはないかな」
「申し訳ございません。その件でしたら依然変わりなく、お断りをさせていただきます。私はコエンマ様の部下であることに誇りを持っておりますので」
「うぅむ……」
前回とまったく同じ返答をすれば、不服そうなうなり声が漏れ聞こえた。
わずかに深まった顔の皺が、残念だという感情を物語っていた。
「君にも特別防衛隊の一員となり、力を貸して欲しいのだがな」
「申し訳ありません。それにほかの隊員の方々も優秀ですので、今更私が加わっても微々たる足しにしかならないかと」
「そんなことはないさ。それに我々はチームで力を発揮するのだ。頭数が増えればそれだけやれることの幅も増えるというものだ」
「その考えには一理あります。けれども重ねてお断りさせていただきます。申し訳ありません」
私が深々と頭を下げれば、「またふられたか」と苦笑が聞こえた。
ちょうどいいと、私は話を切り上げ、断りを入れて再び歩みを再開し、大竹さんとすれ違う。
「君が追っている妖怪、私達が力を貸そうか? 本来B級程度は我々の管轄ではないが、どうにか掛け合ってもいいぞ」
背後から聞こえた言葉に足が止まる。
「戸愚呂、と言ったかね、確か。我々の力が必よ──」
「──いりません。あなた方の力は、いりません」
自分でも驚くほどに感情のない声だった。けれども大竹さんは気が付かなかったのだろう。「そうか」とだけ短く言葉を返してきた。
「必要であればいつでも声をかけてくれたまえ」
「はい。必要であれば」
もはやこれ以上話すことはない。再開した私の歩みは、今度こそ止まることはなかった。
ジョルジュはアニメ版に出てくるキャラとなります。
あと深い意味とかないのになんとなく書いてたら主人公の名前を出すタイミングを見失ってしまった。