秘書嬢によるスコッチさん救済話。救済に地雷がある方は注意を。
タブラ・ラサで構わない
FBIで、ひとつ有名な話がある。鏡に映らない者には用心せよ。FBIアカデミーに限らず、正式に捜査官として配属された後も、口を酸っぱくして捜査官の間で語り継がれるそれは、お伽噺のような、それでいてすぐそばの日常に忍び寄っているようなホラーのような凄みをもっていた。それが途切れることなく語り継がれていたのは、ひとえにFBI捜査官が、その特殊な任務の中でそういった存在と遭遇することがままあるからだ。
鏡に映らない者には用心せよ。奴らは、生き血を啜る魔怪である。ドラキュラやカーミラといった世界的に有名な古典的ホラーの中のフィクションではなく、実際の民間伝承に語られる不死者・吸血鬼であると。
どう考えても科学で立証できない、理解の及ばない怪現象が起きた時は、速やかにとある機関に出動要請を申請しなければならない。いくら厳しい基準をクリアし、知識と武力を備えた捜査官であろうと、犬死にしたくなければ絶対に手だししてはならない、手に負えない領域外の相手だと。それがFBI内の暗黙の了解だった。
その機関とは、ヴァチカンに本部を置く“牙狩り”と呼ばれる、吸血鬼専門の武闘組織。人外の化け物に対抗するために、一般人の括りを大いに外れた戦闘能力をもつ
全世界に潜む吸血鬼を見つけ出すため、FBIで語られているような伝承を用いて、牙狩りはあらゆる諜報・警察組織と秘密協定を結んでいる。吸血鬼と思しき目撃情報と引き換えに、不死者の撃退・殲滅を行い、時には人界を護るために必要と判断されれば、裏稼業でもある牙狩り独自の情報網から得られたテロ組織などの情報共有も行う、Win-Winの関係を結んでいた。とはいえ、アメリカに忠誠を誓う公的な司法組織のFBIと、キリスト教系の宗教的側面の強い巨大秘密組織が表立って共闘戦線を張ることはなく、多くがシークレットナンバーによる連絡が殆どだ。
ただし、ごく一部の例外を除いて。
「死なれては困るわ」
誰もいない、気配すら感じなかったその場に、艶やかな女の声が突然響いた。
「だ、誰だ!?」
動揺するスコッチと同じく、俺も口にこそ出しはしなかったものの、素早く周囲に目を走らせる。埃が積もって曇りきっているヒビの入った窓辺に、溶け出るように不意に影が落ちた。その陰から滲みだすように、ひとつの人影が像を結ぶ。
見覚えのある女の顔が浮かび、思わず目を瞠った。
「クリスティアナ・I・スターフェイズ……!」
「やあ、相変わらずの悪人面だね。潜入中に人のフルネームを呼ぶのは感心しないけど、昔のよしみで見逃そう」
背中を壁に預けて優雅に佇んでいたのは、ブルーグレイのファッションスーツを着こなしたラテン系の美女。数年前、まだ俺が正式なFBI捜査官としてアメリカにいた頃出会った、優秀なヴァンパイアハンターが其処に居た。彼女もまた吸血鬼を追って世界中を飛び回る人間だが、何故日本に居る?
「ライ……知り合いか?」
「ああ。組織の人間じゃなく、俺の所属先で出会った人間だが……何故君が」
「私が何者か、それを論じる時間は無いと思うけれどね。
スコッチ、貴方の命を狙う組織の追っ手が5キロ圏内まで迫っている。説明する時間が惜しいので悪いけれど、私が貴方に差し出せるカードを提示しよう。死ぬか、私の手を取って亡命するか。選ぶといい」
前振りゼロで提示された選択肢は両極端で、俺もスコッチも思わず息をのんだ。
「「!!」」
「亡命する場合は、時折私の手伝いをしてもらうことになるけれど、その代わり衣食住は保証するとも。なんなら私が持っている人脈、情報屋との伝手、全て自由に使って良い」
「なに……?」
それは、破格の条件と言っていい。手伝いの内容が気になるが、それを差し引いてもお釣りがくるほどに、世界に名だたる欧州の“思考の怪物”の情報網は値千金の価値がある。裏社会は縁故……コネを重視する。あらゆる闇の職業は繋がっていて、人間関係と伝手がモノを言う。牙狩りはその職務の性質上、世界の正義の為に動いてはいるが、裏社会で暗躍する組織だ。我々からすれば組織に直接潜入しなければ得られない裏の職業同士で交わされる情報を、自分の足で出向いて、相手との関係性を一から構築する手間をすっ飛ばして得られるとなれば、誰もが喉から手が出るほど欲しがるに決まっている。望んで許されるなら、その許可を俺にも貰いたいものだ。……彼女に対する前科があるから、到底無理だろうが。
「何者かは分からないが……俺にかなり有利なのは、分かる。……NOCとバレて後が無い俺に、何を望む?」
「対価は日本警察との
ルビーのようにとろりと赤い瞳が細められる。神造の美貌に春風のような無邪気な微笑みを携えても、目の笑わないチェシャ猫のような印象を二人に与えた。
しかし、その対価は情報網の価値と、組織に追われる身であるNOCを匿うという、身中にいつ爆発するか分からない火種を抱え込むのには到底釣り合うとは思えない。殺害までは強要しない、という蒙昧なオーダーも気にかかる。
「君が交渉に出向くとは……それに、組織を潰す、と聞こえたが。いつから牙狩りは犯罪組織も粛清対象に入れた?」
そしてなにより、世界中のあらゆる情報を集めはしても、直接吸血鬼に関わっていなければ、どんなに悪名高い犯罪組織であろうとその超人的な力を行使することの無かった牙狩りが、本格的に組織壊滅に動いているという事実に、嫌な予感がした。まさか、組織幹部か……あるいはボスに、吸血鬼がいるのか?
震えそうになる声を押し殺しての俺の問いに、クリスティアナはきょとんと眼を瞬かせた。凄みを添えていた花貌が一気に、年相応の若い女性のそれになる。
「あれ、聞いてない? 私、ヘルサレムズ・ロットに本拠を移したんだけれど」
「……聞いていない」
「そう……じゃあこれも知らないか。秘密結社ライブラ」
「! ライブラだと!?」
スコッチが泡を吹く勢いで、それでも声量は押さえて叫ぶ。ライブラ。その名前は知っている。黒の組織でも最近聞くようになった噂だ……つい半年前の紐育大崩落で、突如世界トップクラスの大都市を失い、一転してあらゆる闇がうごめく
黒の組織もHLの異界武器や魔術、魔導科学を取り入れようと下っ端を何人か送り込んでいるらしいが、何度送り込んでも数日のうちに音信不通、行方は霧の中に埋もれてしまっているという。構成員の死体で情報が洩れていないか確かめようにも、厳しすぎる二重門のセキュリティチェックのせいで、やっとHL入りしても時間が立ちすぎているのとありとあらゆる狂騒にまぎれて、手掛かりひとつ掴めない……そんな有様だと。
そんな中、ヘルサレムズ・ロットであらゆる謀略をくじき、外へ異界の余波が及ばないようにしている秘密組織があるのだと、ジンがふとした時に苛立たしげに零していた。それがライブラ。世界の均衡を護るという使命に相応しい、天秤の名を冠した秘密結社。すでに世界中のあらゆる犯罪集団の耳にも届いている、厄介な目の上のタンコブについての情報はその結社名のみで、ひとたび構成員の情報が出回れば、億の値が付いても可笑しくないとまで言われている。
だが、そうか。もし彼女がその結社の構成員ならば、チリひとつ情報が漏れださないのも頷ける。
「あのライブラに、君が?」
「Yes.まだまだ発足したてで、信用のおける腕利きが少なくてね。基礎は出来たけれど地固めが甘い。HLには日本のヤクザや極道も紛れ込み始めている。私個人での日本警察のコネは弱いから、今から関係強化の為に挨拶に向かう予定なんだよ。誰か有能な人材はいないかと探したら、組織内のもめ事で余波を食らった潜入捜査官が居ると聞いて、こうしてやってきたわけ。
優秀な捜査官を借り受けるのは気が引けるけれど、再び公安に戻るにしても、ほとぼりを冷まさなきゃ動きづらいだろう。黒の組織についてはぶっちゃけついでだ。今はライブラが動くほどの価値はない。奴らも手探りなのか小手調べのような動きだけど、大本が大きな黒い染みなら、近々HLに大きな花火を携えてくる。闇夜のカラスを潰せば、牙狩りとしても世界中の治安維持組織に多大な恩を売れるしね」
「……なるほど」
彼女らしくない、相手に利の有りすぎる取引だと思ったが……今回は時間制限もあって、彼女の牙狩りという職務をあまり知らない初対面の人間に取引を持ち掛ける関係上、珍しく手の内を見せてくれた。
そういうことならば、納得がいく。彼女が日本に来ていたのはライブラの足固めのため。情報網と天才的な頭脳を以て、将来的に潰す予定の組織について調べている過程で、スコッチという日本警察所属の捜査官がNOCとバレたことを突き止めたのだろう。
この場所に来れたのは……それこそ思考の怪物に、俺の選びそうな建物を特定されたとしか思えない。彼女なら、スコッチとよく一緒に行動していたライが、FBIの赤井秀一だと特定するのは朝飯前だろう。そして俺を知っているのだから、そこから行動予測は十分に可能なことを、数年前の共闘で思い知っている。
とはいえ、彼女の交渉手腕をもってすれば、スコッチを助けなければならないというわけでも無い。それでも彼を助けようとするあたり、冷酷さの中に非情になりきれない人間臭さが垣間見える。
「……さて、そろそろ霧で誤魔化すのも限界だ。貴方の選択はどちらだ?」
ゆえに、スコッチがどちらを選ぶかだなんて、分かりきったことだった。