夜も深まる午前3時、自分以外誰も居ないライブラの痛いほど沈黙が支配する夜のオフィスに、バイブ音が鳴り響いた。緊急事態かと慌てて居残り仕事をしていたクリスティアナ・I・スターフェイズはさっとスマホの画面を見て、あからさまに嫌な顔をした。
たっぷり数回分コールするのを眺めてから、切れる気配のない着信に渋々通話ボタンをタップする。スピーカーから漏れ聞こえたのは、滅多に掛けてこない特徴的な男の声だ。
『久しぶりだな』
「………………今何時だと思ってるんですかねぇ……」
『そっちは深夜3時か、その割には声がしっかりしているが……徹夜かな』
「寝てるところ叩き起こされてたら、出ずに電源落としてるわ」
「それは良かった」
今の会話のどこら辺に安心する要素があったのか。言葉に混ぜた棘を感じ取れないほど鈍感でもあるまいに。苦言を呈する元気もなくなり、椅子に座ったまま大きく身体をのけぞらせた。その間も空いた左手から出した血の手でカリカリと始末書の処理を進めていく。雨に濡れそぼる霧の街を逆さに眺めながら、「……で?」と続きを促した。
「こんな夜更けに掛けてくるんだから、何か用件でも?」
『声が聴きたくなった、と言ったら、ど』
ピッ。
最後まで言い切らないうちに、通話終了のボタンをプッシュする。慈悲は無い。今自分の顔を鏡で見たのなら、くっきりと青筋が浮かんでいそうだ。減らない書類と連日の徹夜による睡眠不足でイラつきやすくなっているのも手伝っているのだろう。いつになく短気な自分を、残っている自分の中でも冷静な部分が考察する。
頭の隅に浮上してきた、とある島国で準備させていた「万が一」の事態も本人があの能天気な状態なら起こるまい、と折りたたんだ携帯を書類の山にぽいと放り投げようとしたが、その直前に再び携帯が震えた。「Bereau’s Shepherd Dog」……
たっぷり5秒待って、緩慢に通話ボタンを押した。
『ひどいな、切らなくてもいいだろう』
「そんな馬鹿なジョーク飛ばす余裕があるなら大丈夫そうね」
今度は向こうが一瞬沈黙した。
『……流石だな、もう掴んでいたのか?』
「まぁ。FBIが動いたってくらいだよ、耳に挟んだのは。あとは勘。滅多に掛けてこないのに時間も憚らずこんなタイミングで掛けてきたのが良い証拠。その様子だとライとは名乗れない状況まで来たようだね、シュウ?」
『ああ……ジンを捕らえようと罠を張ったが、事前に察知されてしまった』
「そう。貴方は狙撃の腕と頭脳は優秀だけど、どこかしら詰めが甘いもの。そもそも潜入なんて向いてないんだから、かえって好都合じゃないの」
折角のチャンスがフイになって残念ねとか、潜入失敗して残念ねなんて慰めは言ってやらない。そんなことは思いすらしないし、この男もそんな言葉を求めて私に掛けてきたんじゃないだろう。そんな甘い慰めは、元ガールフレンドのジョディか組織に入るために利用した
そもそも、赤井秀一という男はとことん潜入捜査に向いていないと思うのだ。確かにアメリカの正義と秩序の担い手であるFBIとは思えないほどの悪人面とロン毛に黒ずくめという格好は組織のカラー的に随分馴染んだだろうが、情報を探り出すには社交性皆無だし、肝心なところで詰めが甘い。単独行動が多いから、周囲が連携取れずに思いがけないヘマに繋がるのだ。今回もそのパターンに違いない。ある程度有能じゃないと何年経とうがコードネームを貰えないからとはいえ、あの男を潜入捜査官に選んだ人選が本気で謎だと思う。
『フ……君にはそう見えるのか。興味深い』
「貴方は組織の内側に潜り込むより、組織の目を欺き通して、奴らにとって予想外の一発逆転を撃ち込む
私の酷評にも、シュウはくつくつと笑うだけだった。
人間の根本的な性格は中々変えられない。口の堅さも、ある程度意識してコントロールできる面もあるが、長年の癖というのは抜けにくい。ちょっとした気の緩みで口を滑らすなんてことも大いにありうるだろう。人間とはそういう生き物だ。一番良いのは、大事な情報はたとえ味方でも、本当に必要で無ければ無闇に教えないことだ。HLでは本人が知らないうちに情報を抜き取る手法なんて山とあるのだし、余計に。隠し事をしているのでは、と相手に不信感や疑心暗鬼を与えないよう、与える情報の取捨選択が腕の見せ所だが。なにしろ、疑心暗鬼に陥った人間がどんな狂気を生むか、それは人類史でも魔女裁判などの忌まわしい事件が証明している。
あまり回っていない頭で、つらつらと思いつくままに言葉を並べ立てていると、成る程な、と少し面白そうに電話の向こう側で笑う気配がした。
『ジョーカーか……ふむ、参考にさせてもらおう』
「ハイハイ」
『ほとぼりが冷めたらいい酒を持ってそっちに行く。3人で呑もう、君のつまみが久々に食べたい』
「じゃあ異界産のドギツいのをワイナリーにたっっぷり準備しておくわ」
言外に潰す、と圧を込めて放った言葉に、FBIきっての切れ者と名高い男も動揺したようだった。
『それは君以外がちょっと飲んだら即座に気絶するレベルじゃないのか……?』
「飲んべえの狼も酔う度数だから否定はしない」
色も青かったり紫だったり、アメリカのキャンディーよろしくいろいろ色が混ざってるものまで。HLに出回る酒というのは人界以上に多種多様で、中には内臓を直に焼くような馬鹿みたいな度数の酒も色々ある。流石に喉が爛れるレベルの酒を提供するつもりはないが、HLにはたとえ酒に強いヒューマーでも潰せる酒なんてゴロゴロ転がっている。
私の場合、毒耐性が付いていて水に変換できる血液という特殊体質のせいか、アルコールを毒判定してさっさと無毒化ののちに分解してしまうため、どれだけ強い酒を呑もうがさっぱり酔えないのが残念だ。
お陰で、この男がFBIに私を引き込むために仕掛けてきたレディー・キラーを涼しい顔で躱せたのだが。……参加したことないけど、何でも飲み比べで決めるウワバミの穴倉とも呼ばれる『バッカ―ディオの秤』に参加したら、多分出禁になる自信がある。
『(狼……? 男か?)もう一人も、連れていけたらいいんだがな』
「レイ? まぁ彼は潜入中だし……さっさと組織を壊滅させたら出来るでしょう」
『……ああ、そうだな』
「……貴方らしくない発言だね、なに、まさか酔ってるの?」
『そうかもしれん……』
「おいFBIしっかりしろ、逃走中だろ飲んでんじゃねえよせめて帰国後に酒盛りしろ」
何やってんだコイツ、と叫び出しそうになった。
だが、聞こえてきた次の声は、らしくもなく弱々しさをはらんでいた。
『……ありがとう、ティア』
それは何に向けた謝意なのか。
聞くのは野暮な気がして、溜息を吐く代わりに嫌味で返す。
「その呼び名は許可してないわよ、ダメ男」
**
「クリス!!」
「どうした、ヒロ」
「どうしたの、そんな血相変えて」
数年後のある日、顔を真っ青にしてオフィスに慌ただしく飛び込んできたヒロに、次の作戦についてスティーブンと打ち合わせをしていた私はきょとんとした。普段はほんわかしているが、スナイパーとしてはすこぶる冷静な部分もあると知っていたからこそ、ここまで取り乱すような案件とは何なのか。緊急事態か、と思わず身構える。
ぜえはあ、と肩で息をしていたヒロの息が整うのを待ち、ゆるゆると顔を上げたヒロの顔には、焦燥が浮かんでいた。ライが、と途切れ途切れに呟いたヒロに、私は目を丸くする。……シュウ?
「ライ、赤井が……! 組織に殺されたって……!」
突然の訃報に一瞬息が止まりそうになるが、動揺はすぐに波のように引いていった。混乱するより先に、確かめなければならないことがあるからだ。
「アカイっていうと、クリスの知り合いのFBIで優秀なスナイパーっていう、あのミスタ・アカイか?」
「ああ……」
珈琲のカップ片手に目を丸くするスティーブンとヒロの会話に入り込むように、私は努めて冷静を保とうと意識しながら、声を絞り出した。
「…………ヒロ、その情報元は?」
「あ、警視庁にいる『燕』の
「……そう」
今、HLは朝の9時。日本とは14時間差……つまり向こうは夜10時頃だ。
ヒロの口から出た情報源は、FBIの捜査官はともかく、前者は私の知る限り不明確な事実を伝えてくる面々ではない。だから、赤井秀一が組織に殺されたというのは恐らく信憑性が高い。……だが、あの悪運の強い、殺しても死ななさそうな男が、私の耳にヤバい状況にあると知る間もなく殺されるだろうか。……ああ、クソ。あとで情報を集めないと判断がつかない。
溜息をついて、すこしだけ頤を引いて俯くと、ぎゅう、とぬいぐるみのようにヒロに抱きしめられた。それを解くことはせず、大人しくされるがままになる。ぐす、と粘膜の擦れる音と、かすかにふるえる体温の中で、溜息にもならない息を鼻から逃がして、瞼をおろした。
蘇るのは、いつかの夜のこと。シュウがライという酒の名前を捨てた日に、珍しく時差も気にせず非常識な時間に電話を掛けてきたあの夜のことだ。こちらが秘密裏に、もし彼が窮地に陥った際に手助けできるよう燕の援軍を待機させていたのを悟ったらしいシュウの素直なお礼を聞く前の話題。私の作ったつまみが食べたいと、何気ない会話に混ぜてきた可愛らしい我が侭だ。組織に潜入する前、牙狩りとFBIの合同捜査の打ち上げで一度だけ振る舞った手料理を、彼は大層お気に召したらしい。……あの後、まだ交際中だったはずのジョディがレシピを聞いてきて大変だった。
最後に電話を掛けてきたときは、確かヴェデッドとローストビーフを仕込んでいた時に掛かって来て、自信作だと言ったら、君の自信作なら、さぞ美味いんだろう。次会う時は是非食べてみたいもんだ、と笑っていたくせに。……次、は結局訪れなかった。
……駄目だ、鼻がつんとしてきた。
込み上げてきそうになる何かを喉奥で押しとどめて、額をヒロの胸に預ける。後ろから伸びてきたスティーブンの手が、不器用に頭を撫でた。
「(……あんまり長いことゴーストしていると、食べたいって言ってたローストビーフ、貴方の分だけ作らないから)」
心の中で、憎まれ口をたたく。しぶとく生き延びていると信じ込んでいなければ、あっという間に膝が砕けて立ち上がれなくなりそうだった。
本当に死んだのか、それとも密やかに生きているのか。海と濃い霧に遮られている私たちでは詳細は掴めない。けれど、周囲を長々と悲しませるのは馬鹿の所業だ。
遠いあの夜の電話で話したことをうっすらと思いだす。殺しても死ななさそうな男だ。組織に対する切り札、ジョーカーが立ち消えなど許さない。4人で祝杯を挙げるなんて温かい夢を、私なんかに想像させたのだ。叶えず一人死ぬなんて、ゆるさない。言い出した責任は取ってもらわねば。
「(だから早く帰ってきなさい、シュウ)」