ライブラ秘書嬢の異世界渡航   作:一星

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※主人公が原作キャラクターと恋人関係、結婚する描写がありますのでご注意ください。苦手な方は黙ってブラウザバックだぜ!




番外編|窒息しても生きたい(未来IF)
15cmの未来の余白


 ────最高の復讐とは、幸せに生きることだ(Vivir bien es la mejor venganza. )

 

 

 **

 

 

『ヒーロービルボードチャートJP、3位は氷と炎の貴公子ショート!』

 

 

 白く煙ぶり、凍りついた空気が、常に鉄の鳥と人々、多くの荷物を受け入れ飛び立たせるこの建物の外を席巻している。

 とはいえ空のダイヤに遅れや離着陸の見合わせがでるほどの悪天候でもない。この時期にはよくあることだ。空路は海路や陸路と比べ、天候ひとつで大きく行動の変更を余儀なくされる。急な天候の変化で帰国が遅くなることを憂慮していた男が、朝の時点で問題なさそうだと安堵したのも当然だった。本来なら彼の相棒(バディ)が真っ先に確認するところでもあるのだが、今日ばかりは全て上の空だった。

 

 セットした紫の癖毛を崩さない程度に、男はため息交じりに指先で弄った。学生時代は逆立てていたが、今は撫でつけるような形にセットし、前髪は分けて左右に流している。切り損ねて長くなってしまったそれを弄るのが、悩んでいる時の癖になってしまった。ちらり、と横目で隣の相棒を盗み見る。

 手元のスマートフォンで日本で発表中のヒーロー番付を視聴している彼女は、ようやく読み上げられたトップ10の中に待ちかねた名が読み上げられ、嬉しそうに真っ赤なルージュで彩った唇を吊り上げている。満足そうではないのがポイントだ。欲の薄い彼女とはいえ、「あいつ」がトップを期待していた部分も多少なりはあっただろう。

 まぁ、今期のトップヒーローに選ばれたのが、かつての旧友で現在の”平和の象徴”を()()体現する男なので、折り合いをつけているのだろう。平和の象徴たれと望まれ、それまでのたった一つの強烈な光が全てを背負うものではなく、クラスメイト達と共に多数のヒーローを先導し協力しての新しい”象徴”となった、そばかすに癖毛で、平凡そうに見えて非凡な英雄。

 

 自分が登場しない番付に見知った面々が登場するのを見るためにずっとそわそわと落ち着かなかった彼女を、どうにか荷物検査やら関税チェックやらでポカをやらかさないか見張り──案外彼女がこういう時、普段なら間違ってもやらない間抜けをやらかすことを知ったのはここ数年のことだ──利用予定の航空会社が構えるラウンジのソファーより、硬い待合椅子に座らせてさっさと番組を見る体勢に入らせた方が良いと判断したのは間違っていなかった。途中で男がイギリスの有名な紅茶老舗メーカーを銘打ったシャンパンバーでテイクアウトしてきた紅茶のカップは手を付けられないまま冷めきっている。紅茶と珈琲にはうるさい彼女なら一口は飲みそうなものなのに。勿体ないので男がそれも呑み切ってダストボックスに捨てる頃には、時計の針はもう少しで搭乗開始になることを告げていた。

 

 

 

「星合、そろそろ搭乗時間だぞ」

 

 

 いよいよ半目になって肩を叩いた男に、弾かれるようにして顔を上げた彼女は瞬きで問う前に時計を確認し、苦笑交じりに立ち上がった。それまでの腑抜けたポンコツぶりは見る影もない。

 

 

「ああ、ゴメン。随分夢中になってたみたい」

「全くだ。行くぞ」

 

 

 搭乗開始のアナウンスが繰り返され、先ほどまでそれなりに航空機を待つ人々で埋まっていたはずの待合椅子は、随分がらんとしている。忘れ物が無いか振り返って一度確認した二人は、搭乗ゲートへ足を向けた。

 

 

『ブリティッシュ・エアウェイズ、成田行き、14時30分発、123便は只今より搭乗のご案内を開始します、○番搭乗口よりご搭乗ください────―』

 

 

 ざわめきに包まれる中でも聞き取りやすくするために機械的なまでに抑揚のついたクイーンズイングリッシュが、クリスマスソングをバックにアナウンスを投げかけている。搭乗ゲート前の待機列に加わりながら、顔を隠すためのサングラス越しに、彼女は壁一面を覆う大きな窓ガラスへと顔を向けた。

 

 淡いヴェールを青白く沈んだ空と街に掛けるような、ささやかな粉雪が降りしきっている。その合間を縫うように、無数の飛行機が離陸と着陸を繰り返していた。灰色の雲に覆いつくされ、冷気で白く曇った窓にうっすらと映る女の姿は、十数年前のあの日とほとんど変わり映えしなかった。

 

 

 

 星合千晶(ほしあい ちあき)、28歳。

 クリスティアナ・I・スターフェイズが「星合千晶」になって、十三年を迎えようとしていた。

 

 

 

 **

 

 

 思えばあっという間のようで、とても長かったような気もする十三年間だった。

 雄英を卒業し、これ以上留まっていては自分が自分で無くなってしまう気がして、オールマイトにも、イズクにも、お茶子にも、誰にも行先を告げずに、失踪するように日本から消えた。「思考の怪物」と呼ばれた元の世界の自分のように、世界を渡り歩いて、様々な人々と出会い、時折敵連合のヴィランと戦ったりして。一生帰れないのではという絶望に身も心もボロボロになって、比喩ではなく文字通り死にかけた時期もあった。そういった堂々巡りの果てに、ついに、私は本当の意味で星合千晶を受け入れた。三年の放浪の果てに、ようやく答えを得たのだった。

 

 日本に戻ってからは、学生時代に塚内さんを始め、警察関係者や何人かプロヒーローにも人脈を広げていたこと、放浪中も色んな分野の人脈が出来ていたこと、そして7ヵ国語を話せるマルチリンガルを買われ、ベテランヒーローの海外派遣時の通訳や要人警護などといったフリーランスのヒーローとして働いている。事務所も持たず、サイドキックも雇ってはいないが、心理学を大学で修め、メンタリストヒーローとして活動するシン……心操人使とバディを組んで海外を飛び回ることが一年の殆どだった。

 

 若手ヒーローがフリーランスで食っていけるなどごくわずかだが、私にはむしろ事務所所属の方が窮屈に感じるだろうことは明白だった。名声も地位も大して興味は無かった。むしろマスコミの視線などわずらわしいだけとすら思う。マネーロンダリングはライブラ時代から得意だったし、株取引は思考分析のいい訓練になる。イズクや爆豪たちのようにトップヒーローとして脚光を浴びるのは、長く裏社会でヴァンパイアハンターをしてきた身としては、あまりにむず痒くて居心地が悪い。政府や警察の依頼を受けて極秘裏に動くシークレットヒーローというのは、非常に性に合っていた。

 日本での知名度は元クラスメイト達に比べれば微々たるものだが、時には国家を跨いで暗躍するヴィランや犯罪シンジゲートを潰すための対策会議に呼ばれたりなど、世界のヒーロー界隈では名が売れていると自負している。

 

 

 仕事は至って順調で、シンとのバディも結成以来良好なままだ。日本に帰った時にはお茶子やモモたち友人とお茶をすることもあるし、マイクやミッドナイトと買い物に行ったりオールマイトと映画鑑賞をしたりとオフも充実している。海外にいる時間が長すぎて、日本のセーフハウスが自宅なのかアメリカの方が自宅なのか分からなくなりつつあるが、それはさておき。

 

 

 

「……」

 

 じっとりと隣から注がれる視線に、私は素知らぬ顔を決め込みながら内心ひくつきそうになる顔を鉄面皮にするのに非常に苦労していた。

 

 クリスマスに年越し、そして新年とイベント続きで浮つく時期こそ、悪はこぞって暗躍するものだ。比例してヒーローが出動する案件も多いこの時期。フリーランスゆえに急な呼び出しもあり、不定期だが仕事が入らない時期はまとめて休みが取れる自分と違い、毎年ビルボードチャートトップ5に入る人気ヒーローである恋人こと轟焦凍とオフが被ったのは、ここ数年の経験を考えれば奇跡的なことだった。

 

 なにしろ、恋人らしいクリスマスなど過ごせたためしがない。レストランの予約だったり、いつもより手の込んだご馳走の下ごしらえだったり。折角準備をしても、轟が急に事務所から出動要請で呼び出されたり、はたまた自分がその時期に急な海外での仕事が入ってしまったり。帰宅と出勤ですれ違うこともあった。

 今年もきっとそうだろうと、どちらも根が淡白なものだからあまり期待しないでいようと話していたものだから、クリスマス直前のこの時期にレストランの予約など取れるわけもなく。長期のロンドン出張を終えて疲労困憊、ファンからはおっぱいのついたイケメン、スパダリと囁かれる自らが、自分では当たり前のことをしているつもりなのであまり良く分からないが、ラテン系のそつのない根回しをする余裕もなく。

 ならばせめて、とパパラッチの目を気にしなくていい轟の家でのんびり過ごそう、ということになったのだ。共にキッチンに並んで料理を作り、たわいもない話をぽつぽつと交わしながら食事を楽しんだあと、大きなソファーに身を預けながら二人並んで食後のコーヒーブレイクを楽しんでいた。

 

 年末となれば人気映画の放映や特番がテレビ表を埋め尽くすが、自分も轟もさしてテレビに熱中する性質ではない。オールマイトの影響で若干新旧問わず映画に詳しくなってしまった自覚はあるが、元々仕事のためにニュースぐらいしかまともに見なかった人間だ。身に染みついた習慣は中々変えられるものではない。由緒正しい日本家屋の屋敷に住んでいたお坊ちゃまの轟は厳しくエンデヴァーに躾けられたせいで世俗に疎い。BGMにするならテレビよりもクラシック音楽、映画よりも読書。こういうところで趣味嗜好、好む雰囲気が似通っているのは気楽でいい。数年間に及ぶ交際の中で、『前』の25歳の自分なら決して許さなかっただろう距離感にもすっかりと慣れた。根気強い恋人に慣れさせられた、の方が正しいだろうか。セーター越しにも鍛えた筋肉を感じる肩に頭の側面を預けて軽く寄り掛かりながら、隣を気にしすぎることもなくタブレット操作に集中するだなんて、10年前の自分なら誰にも許さなかったに違いなかった。

 

 国家レベルの機密を扱うことも多い職務上、メディアへの露出が少ない自分と違って、轟は母親譲りの美形と父譲りの実力を兼ね備えたヒーローとしてテレビ出演も多い。世俗慣れしていない天然ボケの発言もウケたのだろう。ほっておけば美術スタッフに衣装を丸投げしがちな恋人のために、年明けに控えている人気ヒーローが一堂に集う新春ヒーロー特番や新年会で轟が身に纏う服を選ぶのは楽しい。義兄や黙っていれば素材だけは良いザップ、ファッションに疎いレオを着飾るのは、ライブラ時代からの自分の少ない楽しみでもあった。

 楽しい、のだが……先程からじっ、と自分の手許に注がれる視線に、気付かないふりを続けるのも正直限界だった。

 

 

(わ、わかりやすい……)

 

 

 あの常に肌が焦げそうなほどの緊張が張りつめるヘルサレムズ・ロットという街、吸血鬼との対決に感じる生と死の瀬戸際。命をチップに凌ぎ合う、人間の領域を凌駕した戦場の最前線から遠く離れ、ヒーローとして似たような職務に就きながらも、どこか物足りなさを感じる自分は、かつての獣のような気配探知は最早持ちえない。この世界で少しずつ融け込み生きるには、不要な鋭さだったからだ。それでも、人の視線には特に敏感なのは変わりない事実だった。轟が何を思って、どこに視線を向けているのかを、すぐに察した。

 

(指……薬指か? 中指も……しまった、クラウスからの指輪は外してくるべきだったな)

 

 

 視線に物理的な攻撃力が備わっていたなら穴が開きそうなほど、じっくりと視線を落としている恋人の虹彩の違う双眸に揺らめく感情は、人を緑眼の怪物たらしめるもの──嫉妬だ。

 自分の両の手の中指それぞれに嵌っている、女性が身に付けるにしては幅広の銀のダブルリング。小粒ながら変わらぬ輝きを放ち続けるダイヤモンド、エメラルド、アクアマリン、アメジストといった宝石類が配列されたその指輪は、もう二度と会うことはないだろう、自らを救ってくれた救世主にして最も尊敬する同胞(とも)が贈ってくれた、今や形見となったれっきとした武器だ。戦士であれど、美しく着飾るべきだと。ドイツ公爵位を持つラインヘルツ家がその長い歴史の中愛用してきた武器工房が手掛けた、二つとない自分の為に設計された出血針入りの指輪。激しい戦闘で欠けたり壊れたりすることのないよう、聖銀に聖水で清めた宝石類のあしらわれた指輪には、幾重もの魔術的な防御が働いている。

 

 仕事中だけでなく、警戒心の強い自らがほぼ四六時中、肌身離さず身に付ける護身武器。自分が誇り高い牙狩りであり、今となってはあの高潔な赤毛の紳士との繋がりを感じさせる唯一となった一品を、轟は以前からあまり良くは思っていないようだった。自分の感情を切り離して、彼の立場で考えれば、それも当然とは思う──恋人の自分ではない、他の男が贈った指輪が常に両手に輝いているなど、男として許せまい。

 轟家の遺伝子なのか、育った環境の中で育んだ本人の根本的な気質なのか、轟は表面的には淡白なように人の目に映るが、その本質はこちらを嫉妬の先の相手ごと飲み込んで、骨の一片も残さず焼き尽くしかねない灼熱の溶岩のようにどろりと重く、苛烈だ。個性とはその人間の本質がカタチになったもの──何の根拠(エビデンス)もない通説を馬鹿にはできないものだ。轟焦凍は氷点下の静謐と冷静、焦土を生む情熱と苛烈という矛盾を内包する男だ。意外にも情熱的で、タールのように重い独占欲は、時々空恐ろしくもなるが──愛を知らぬ自分には、むしろ安心できる重石だと思う自分もまた、愛が重く、狂っていると思う。

 

 

 それでも轟がクラウスの指輪を外せと言ってこないのは、この指輪が私の最高のコンディションを担う一つだからと知っているからだ。

 血法は牙狩りの技術。こちらの世界のサポート会社の技術がいかに優れていても、科学では異世界の魔術をカバーできない。指輪に仕込まれた術式は企業秘密で再現不可能なために新しい指輪に流用することもできない。プライベートならまだしも、戦場でも外せなんて言う戯言は、明日の命も分からない職業に就いている身としては言えない台詞だろうから。外せ、ではなく気に食わない、とこちらを強制せずに、自分の感情だけハッキリ言うあたり彼らしいが。そんなものを着けるくらい警戒しなくても、俺が護る──……思いだすだけで、血流操作しなければすぐに顔が熱を持ちそうになる睦言は恐らく永遠に忘れられない。

 それ以降、轟と二人きりで過ごす時は出来る限り──特にベッドの上では絶対に外すようになったが、うっかり外し忘れていた自分に舌打ちしたくなった。折角の逢瀬をぶち壊したくないという程度の乙女心は残っている。たとえ、精神年齢がもうすぐアラフォーに届こうかというおばさんであろうとも。

 

 

(……左の、薬指か)

 

 

 左の薬指が示すものが何かわからないほど鈍感ではない。けれど、自分に訪れるかもしれない「結婚」の言葉は、口の中で何度転がそうと実感は少しも湧かず、捕らえどころのない霧を頭に生んで思考をふやかすだけだった。

 ダイヤモンドの指輪を取り交わす永遠の儀式など、自らから最も遠い行いだと思っていた。……今も、その認識は変わらない。

 

 

 表向き名乗っている肉体の推定年齢は28だが、実際に精神的に生きた年数は38年間だ。ヒーローとしては脂が乗ってくる時期、ようやく軌道に乗ってきた中堅といったところだが、牙狩りであれば、20年前後も死線を潜り抜けてきたベテランの域に入る。そろそろ戦場で部隊長クラスになって指揮や後進指導、流派の後継者なら師匠から流派を継承するか、はたまた幕僚として前線を離れ、上層部の一員となるかといった選択肢を考えなければならない時期でもある。

 

 ……つまり、それだけ35歳のデッドラインを超えてなお生きていられる牙狩りが少ないという証でもあった。牙狩りはみな短命だ。血界の眷属との戦闘における生還率の低さもその理由だが────血法という吸血鬼への対抗法は、自らにも向く牙であり、その寿命を削るものだからだ。

 

 その原因は、ほとんどの牙狩りが修業期間を成長期においていることに由来する。

 

 属性の血液に、常人には理解しがたいほど難解な数式と科学と魔術が複雑に織り交ざり融合した術式を加えることで、血法は出来ている。血液だけで氷や炎には変わらない。さりとて術式を完璧に理解したとて、属性の血液が無ければ意味がない。千年に及ぶ牙狩りの遺産であり、過去の牙たちの血と屍で積み上げてきた研鑽だ。その血液を最も効率よく運用する器を作るには、成熟してからでは遅い。骨や筋肉、内臓が大人へと成長していく時期に術式を理解し修行を行うことで、術式は細胞のひとかけらにまで馴染み、各流派の血法に相応しい肉体を醸造する。対吸血鬼のためのサイボーグ。口さがない若い牙狩りが自らの境遇を皮肉る決まりのフレーズだ。

 血界の眷属がDNAに直接極小の術式を上位存在に好き勝手に直接書き込まれた人間の突然変異体ならば、牙狩りもまた、似たような業に足を突っ込まなければ到底同じ土俵に上がる事すら許されない。不死者を殺すため、人間の枠から外れた身体能力を形成させるための、肉体の魔改造。

 

 ブレングリード流ならその戦いに必要な大量の血液を保有し、近接戦闘を行っても耐えうる巨大で屈強な肉体を。

 エスメラルダ式なら鋭い蹴りを叩き込むための、しなやかで長い脚を。

 そして全流派に共通して、命を繋ぐための肉体再生能力と血液生産能力は、人間の平均値を遥かに凌駕している。

 

 

 それゆえに────酷使され続けた骨髄が、筋肉が、細胞が、肉体が限界を迎えるのもまた、常人より早い。血法の達人であれば細胞活動の活性を抑えるために消費血液量を絞っても技の威力を維持し、老化現象を遅らせることも可能だが──それでも、前線に居る時間が長いほど、肉体の限界は早く訪れ、魂が削られていく。ザップの師匠が「血闘神」と呼ばれ畏れ崇められるのは火と風の二重属性使いで、その長老級(エルダークラス)を単独で滅殺できる技量だけでなく、その長命さもまた、理由の一つだった。

 

 HLに渡ると決めた時、おそらく自分はデッドラインは越えられず、あの霧の街が死地になるだろうと予感していた。不明な点だらけの無属性の血液、あらゆる流派の術式を理解し駆使する自分は、多くの流派の術を受け継ぎ記憶する者であると同時に、それだけ早く命を削るだろうと水晶宮式血濤道を編む際に覚悟した。クラウスやスティーブンにそれを明かしたことはないが、様々な流派を学びたいとエスメラルダの師匠とクラウスの両親に頭を下げた時、止められこそしなかったが良い顔もされなかったのが良い証拠だ。いつまで経っても老け込む様子を見せないエスメラルダの師の魔女めいた余裕綽々の美貌が、あの時ばかりはとてつもなく酸っぱいシチリアレモンを生で齧ったかのように崩れていたさまは忘れられない。

 代を重ねて洗練されていない血法は無駄も多く消費が激しい。戦場で死ぬか、老衰で死ぬか、どちらにしろ、その場所はHLの内側だろうと思っていた。……結局のところ、堕落王のうっかり事故のせいで、霧の結界の中の前線どころか次元と世界線を跨いでしまうという奇妙な現実があるが。

 

 

 それだけが、結婚が自分に無縁だと切り捨てていた理由ではない。

 ……結婚のその先に待つだろう、子を為すという行為が、あまりに恐ろしかったのだ。

 

 おぞましい人体実験を経ても、結局無属性の血液の継承法は分からず仕舞いだった。ただ一つ、諦めの悪い上層部が狙っているとすれば──当時、まだローティーンだった年齢の関係で試されなかった方法、人間としては一番まっとうで自然な血の繋ぎ方である、子どもを産むことだった。

 けれど、牙狩り同士が結婚しても、今までの歴史上から算出されたデータから見ても、属性の血液が発現する確率は低い。ましてや無属性という突然変異的な希少血液が引き継がれる可能性なんて、天文学的な確率の宝くじを引き当てるに等しい無謀さだというのに──それを頑なに信じ込む頭の能天気(アホ)さが、私を世界中の支部を飛び回らせ、果てにHLという連中の手出しできない魔境に飛ぶ決意を固めさせた。

 無属性の血液を引き継ごうと引き継がなかろうと、自分の子に待つのは陰惨な未来だけだ。引き継げば牙狩り以外の将来の選択肢は与えられず、引き継がなくても途中で属性が発現しないかと、その遺伝子を次代に期待して人生全てに牙狩りが纏わりついてくる。悲願の為の必要な犠牲だと綺麗ごとを盾に、牙狩りの業にずたずたにされるのは自分だけでもう十分だった。それに、生まれてすぐに教会に捨てられた自分が、愛情も家族も良く分からない自分が、子どもを育て、まともな母親になれるとは、到底思えなかったのだ。

 

 もし、結婚して家族もできたとしよう。それでも、いつかまた全て失うのではという疑念は付き纏う。突然この世界に来たように、ようやくこちらに骨を埋める決意をしたというのに、また何かの運命の悪戯で、やっと得たもの全てを失い、置いていくことになれば──二度と立ち上がれない、そんな予感があった。

 

 

 

 答えは得た。美しいものを見た。

 永遠に欠損するはずだった足りないものは、温かい思い出と体温で補われ満たされた。

 これまでの不幸と絶望に値する人生の報酬のような奇跡の渦中に──未だ私は存在している。

 

 

 深く深く沈み込んでいた思考が、そろりと触れてきた体温に引き上げられる。見れば、骨ばった指先がつつ、と白い皮膚の上を滑っていた。掌と指の継ぎ目の関節から指の先まで、かさついて熱い指が丁寧に撫でてくる。触れている部分に注がれていたはずの視線は、今は自分の横顔に注がれているようだった。体重を預けていた肩が不意に引かれる。支えを失くし、傾く身体に咄嗟にバランスを取ろうとする前に、手を絡めとられて抱き留められた。つるりと温度の無い金属が指先でもたつく。うっかり取り落としかけそうになったタブレットを掴み直したが、ホッと息をつく間もない。熱い息がうなじに掛かって、ぶわりと全身の毛穴が開くような興奮をおぼえた。

 

「……ッ」

「千晶」

 

 息を詰めた私の肩を抱くように太い腕が回る。強張った肩から力を抜けと言わんばかりの、あやすような口調。けれど普段の冷静で平坦な声色ではない。自分しか知らない、耳から流し込まれる度に内側から灼かれるのではないかと思うほどの、ぞっとするくらいに艶を帯びた低い声だ。この時ばかりは全身が性感帯になったかと錯覚する。……そろそろ慣れるべきだと思うのだが、道のりは長そうだ。この声に名前を呼ばれるのが弱いと知っていて、耳朶に直接吹き込んでくるのだから、タチが悪い。こちらの方が随分年上だというのに、こういった場面では良いように振り回される。年上の威厳もクソもなかった。

 恐る恐る見上げた黒曜と翡翠には、酒精で赤らみ潤んだだけではない、あの時には無かった、雄の本能がちらちらと双眸の奥で焔のように揺らめいていた。

 

(ああ、きれいだ)

 

 歳を重ねた分だけ学生時代とは見違えるように幼さが抜けて、随分精悍さを増した整った容貌はやはり、溜息が出るほど美しい。西洋人は成長と共に厳つくなりやすいが、東洋人は人種的にベビーフェイスで、筋肉が付きづらい。恋人もその例にもれず、鍛え上げられた肢体は固く引き締まっているが、幅や大きさは変わらない。学生の頃に比べれば、少々身長差は増えたが。

 

 

「……良いか?」

 

 相変わらず言葉は足りないが、それが何への合意なのか聞くまでもない。止める気など無いくせに、一応こちらの意志を訊いてくるあたり、可愛げがある。彼の場合、男が好き勝手に女を甚振ることにトラウマめいた恐怖があるからこそなのだろうが……おのれエンデヴァー。

 最近顔を合わせていない元トップヒーローに心の中で怨嗟を零しながら、とっくのとうに画面の電源がオフになったタブレットを、指輪から出した血の腕でローテーブルに置き、ついでに指輪も脱ぎ捨てる。それが答えだ。靴も指輪も脱ぎ捨てたなら、皮膚かくちびるでも噛み切らない限り、私はただの女でしかない。

 

「馬鹿ね」

 

 いちいち聞かなくても、解るでしょう? 

 くちびるに浮かぶのは、意地の悪い笑みだ。28歳とは思えない色気だよなあとよく知り合いに言われるが、育ちの悪さゆえにどこかしらスレていて、ニヒルで婀娜っぽい38歳がたまに顔を覗かせているのだろう。言葉と顔とは裏腹に、心の中では、ああ、と何度洩らしたか分からない溜息が落ちる。

 ……私にはとうてい勿体ないひと。明かせない秘密を良しとして、話すまで辛抱強く隣にいてくれた、唯一無二。己の本質が化け物殺しで人殺しの咎を負う穢れだらけだと知っても、手を離さないでいてくれた。

 

 

 ────前の世界での自分は、誰かの為に費やすことを是とした人生だった。魂の一片が全て擦り切れるまで、尊いものの為に献身するために奔走した。

 

 

 だが、この世界には、今まで己に無意識に科していたしがらみは、最早無い。

 

 

(それなら)

 

 腕を伸ばして、太い首に絡みつかせる。猫のように首筋に額を擦り付けると、ふわりと嗅ぎ慣れたしゃぼんの匂いがした。同じ洗剤でも、汗が混じると少し違った風に感じるのだから不思議だ。心臓側の半身は少し熱っぽくて、生きているのだと安心を与えてくれる。皮膚とやわらかなニット越しに聞こえる心音は心地よくて、これからすることさえなければ、このまま眠れてしまいそうなほど。神経質すぎてクラウスやスティーブン以外の気配が近くに在ったら、とても熟眠できなかった頃とは大違いだ。それほどまで時間をかけてぐずぐずに防壁を融かしてきた彼の熱量には、恐れ入る。

 別の人間のことをちらりとでも考えたのが空気で伝わったのか、がぶりと耳朶を甘噛みされた。

 

 

 ────しがらみがないのなら、この世界では、自分の為の幸せを求めても、良いのだろうか。

 

 

 何も持たない人生に、様々な彩りを与えてくれた。

 何もないなら、今から少しずつ得れば良いのだと、ちっとも遅くは無いのだと諭してくれた。重ねてきた年月の中で、交わした言葉で、分け合った触れ合いで、何度彼に救われてきたか、わからない。

 いつも泣きたくなるほどの優しさで愛してくれる轟を、もう自分は、たとえ轟が望んだとしても、離してあげられそうになかった。彼でなくては駄目だ。もはや彼なくしては、息すら出来ないくらいの自分が嫌で、怖かった。

 全部作り変えられたのだ、身体も、心も、なにもかも。

 此処にいるのは、ヒーローで、ただの女の、星合千晶だ。

 

(幸せになってもいいのかな)

 

 ぽつり、疑問が頭の中で生まれる。肩口に額を押し付け、膝に乗り上げて凭れかかるような体勢で密着しながら、とりとめのない疑問符が浮かんだ。

 世界と仲間を免罪符に切り捨ててきた元友人(スパイ)たちや、未だ前線にいるだろうクラウスやスティーブンを差し置いて、のうのうと幸せを享受しても良いものか。救った人間より殺した人間の方が多いのでは? 守ったと思ったものは本当に守れていたのか? 

 溜め込みに溜め込んだ自己否定と罪悪感と絶望が、今になって酷く重苦しく圧し掛かってくる。

 

 うなじに差し込まれた長い指が、癖毛のブルネットの生え際を撫でる。ひどく淫靡な手つきだというのに、慈しみすら感じるから、ことあるごとに泣きたくなるのだ。反対側の自由な手が、一つ一つの指を確かめるように合間に差し込まれ、握りこまれる。血の通う温度。生きてここにいることを、確かに感じる。

 

「全部あなたのものだから」

 

 だから涙が出る前に、何も考えられなくなるぐらいぐちゃぐちゃに溶かして溺れさせてほしい。失くして窒息するくらいなら、肺を水に浸して息が出来ずに溺死するほうが、よほど良い。

 生唾を呑み込んだ喉仏が動いて、言葉の端々を食われるように唇を食まれる。

 

 

 ────私は貴方を幸せにできるだろうか。

 

 

 脳裏で浮かんだ一抹の不安を、背筋を走る電流が掻き消した。

 

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