あの時失敗しなければ。そう思ってももう遅い。
過ちと向き合うことこそが肝要で、その道以外に先はない。
もし逃避を願ってしまったのならば――――その逃避が、やがてゴールに繋がっていると。
そう信じながら走り続ける。それ以外の道は閉ざされる。
その道を選んだならば最後、その逃避から逃げることは叶わないのだ。
世はアイドル戦国時代。アイドル人口が急激に増加した現代で、各プロダクションが日夜競争を繰り広げている。
日高舞という伝説から始まり、765プロや346プロなどといった芸能事務所がこれまた伝説級のアイドルを輩出した今。その争いが更に熾烈さを増すのは容易に想像できた。
そんな時代で、斯く言う自分も芸能事務所に在籍している。事務所の名前は『283プロダクション』。
発足してそれほど時間も経っていないここは、従業員も社長と自分、そしてアルバイトの『七草はづき』さんの3人だけ。事務所自体も三階建て家屋に入っている、非常に小規模なものだった。
そんな事務所だが、最近ようやくアイドルのプロデュースをすることが決定した。というより、現在進行形でやっている。
『ワンダー・アイドル・ノヴァ・グランプリ』。通称『W.I.N.G.』への参加及び優勝を目標として、アイドルと共に日々レッスンに仕事に取り組んでいる。
参加資格を得るためには、運営が定めたシーズン毎にこれまた運営の設ける規定のランクに到達しなければならない。
一次審査で千人、二次審査で一万人、三次審査で五万人、最終審査で十万人。これらは、それぞれで到達しなければならないランクで必要なファンの数だ。新人アイドルの祭典と呼ばれるだけあって、条件はかなり厳しい。
それでも、俺は彼女とそこを目指そうと思えた。
全てが初めてのことで。これが「アイドルと二人三脚で〜」ということなのかななんて思いながら、書類の処理に追われる日々。
辛いことだってある。寧ろ営業先の対応や諸々で、全体の九割は辛いことばかりだ。
だけど残ったその一割が……アイドルである彼女の、日々成長していく姿を見るのが、その九割に価値はあったと思わせるもので。
書類整理にレッスンに、いつもサポートしてくれるはづきさん。信じてくれているアイドル。『成果を期待している』と背中を押してくれた社長。
周りの人達の為にも、安易な失敗は許されなかった。
時を経て、『W.I.N.G.』の一次審査の通知が来る日を明日に迎えた夜。
やれるだけのことはやった。まだ
だからどうか――――
####
涙する彼女の姿を見た。
####
地面を打付ける、酷い雨音を聞いていた。
ニュースのアナウンサーは曇りだといったのに、予報外れの水滴が頬を濡らす。
傘は持っていなかった。事務所の傘はアイドルに渡して、徒歩で事務所を出たのは何分前だったか。
スーツに水分が染み込む。重量の増したそれは、まるで枷のようで。足取りが重い。前へ進むのも億劫になる。
ダメだった。心のどこかでは、わかっていたのかもしれない。だけど信じずにはいられなかった。
彼女は十分に、一次審査を通過できるポテンシャルを持っていた。だからこそ、ダメだったのは自分だったのだ。
日々のコミュニケーションは、一概にいいとは言えないものだったかもしれない。彼女の持ち味を、もっと活かせばよかったのかもしれない。
後悔が、崩れるほどに積み重なる。
『雨は心の洗濯』だと、昔の人は言ったそうだ。
ならばどうか、この心を。……いや、自分のはいい。
そう考えることすら滑稽に思えて、取り繕ってるだけのように見えた。
自分が空っぽのように思えた。
家に着いて、服を脱いだ。食事をしよう、浴室へ向かおうとしても力が入らない。
……倒れ込む。意識が朦朧だ。
申し訳なく思ったんだ。すまないと思ったんだ。
そう思うだけ無駄だと分かっていても、そう思ってしまうんだ。
……体が動かない。瞼が落ちる。
SFみたいなやり直しはない。彼女にこの先があったとしても、この瞬間はもうないんだ。
……夢を見よう、今だけは。この欲求に身を任せよう。
視界が、黒に染まる。
その闇が渦を巻いていたのは、己の心境の表れだったのだろうか。
時計の針がさかしまに。
全ての道が、零になる。
……目が覚めた。
昨日は雨天の中傘もささずに帰ってきたから、おそらく風邪を引いてしまうだろうと思っていたのだが……存外、自分の体は丈夫らしい。
体調を崩していないのであれば、支度をすませなければならない。目覚まし時計はいつもの起床時間を指していて、のんびりしている時間など存在しないことは明確だった。自分は余裕を持って朝自宅をするタイプではない。
顔を洗って、髭剃りをもって鏡を見る。予想していた程には、髭が生えていなかった。
(まぁ、それでも剃るんだけど)
にわかに覚えた違和感は、すぐにその姿を消した。
####
「おはようございます」
「はい、おはようございます」
デスクで作業をしていたはづきさんが、聞き慣れた穏やかな声音で挨拶を返した。
彼女は283プロの正社員ではなく、アルバイトとして勤務している。曰く、大家族のために生活費を稼がなければならないらしい。他にもアルバイトを掛け持ちしているのだとか。
また、彼女は非常に多才でもあった。そういうこともあって、アイドルのレッスンを担当することも数度。
「書類溜まってますよ〜。逃げずに処理してくださいね」
「それはキツそうだ」
軽口を交わしつつ、書類を受け取る。
アイドルである彼女はまだ来ていなかった。いや、自分が休むよう言ったのだったか。昨日の記憶がどこか曖昧だ。
自分の手帳を開く。基本的に予定はここにメモしているはずだと、確認のために。
『○月☆日』
何も、書いていなかった。
……朝感じた違和感が、僅かに輪郭を帯びた気がした。
『気のせいだ』と、頭を振る。
妙に白く、心做しか状態が良くなっているような。
自分の手帳がなにか得体の知れないものに思えて、思わずカバンに投げ込んだ。
逃げるように、書類の内容に目を通す。違和感は消えない。
何故かその文字列を見たことがあるような気がして。
こういう書類は、基本的に文体が同じだ。だからこその既視感だと思った。
なんてことはない。ただの錯覚。一応確認を取っておこうと、はづきさんに声をかけようとする。
「……はづきさん。これって前に」
「おはよう」
……言い切る前に、『天井努』社長の声がそれを遮った。
あまり社内で顔を見ることは無いこの人は、毎日経営に渉外に営業と様々な業務をこなしている。仕事に厳しいが、熱く優しい性格やダンディな雰囲気を兼ね備えたその姿は尊敬に値するものだった。
「全員揃っているな」
「全員といっても、社長含めて三人ですけどね〜」
「んんっ、それは言わないお約束だ」
「これからは今まで以上に忙しくなるんですから、もう少し人材を増やした方がいいんじゃないですか〜?」
疑問は一旦忘れることにした。ただの、自分の勘違いであるだけに過ぎないのだろう。
そうだ。もう一度確認して、それでも気になったなら再びはづきさんに聞けばいい。メモ帳だって、勘違いだ。
違和感は消えない。
――自分でも分からない、焦燥感のようなものが体を支配している。
はづきさんが発した次の一言が、その焦燥感の理由を示すなんて考えもしなかった。
「
「……えっ?」
聞き間違え、だろうか。
「そうだな。プロデューサーとして彼に頑張ってもらうためにも――」
「ち、ちょっと待ってください!」
「む」
「どうしたんですか?」
待て。待ってくれよ。おかしいだろ。
「
「……何を言っているんだ、
「
「ッ……」
増し続ける焦燥感は、心臓の鼓動を早くする。頭を鈍痛が襲う。
何が起こっている。アイドルプロデュースをしていなかった? 冗談じゃない。たしかに『W.I.N.G.』はダメだったが、彼女のアイドルとしての人生はまだ先がある。そんなことをこの二人が分からないはずがない。
――空白の増えたメモ帳。見覚えのある書類。明らかに少なくなっている、事務所の私物。
――何が起こっているのか。実をいえば、一つの可能性が頭に浮かんでいた。
だがそれはあまりに荒唐無稽な世迷言で、ありえるわけが無いもので。
ここは現実で、物語の世界なんかじゃなくて、そんなことがあるはずがない。
(あって、たまるか)
先程既視感を覚えた書類に、もう一度目を通す。
あれはただの勘違いだと、自分にそう納得させるために。
……ダメだった。
確かにこれは見たことがある。見たことがない、そんなはずがない。
だってこれは、
……見て見ぬ、フリをしていた。分かっていた。
内容だけではなかった。ミスだと思い込もうとしていた。だけどそれは無理があった。無駄だった。
押印のされていないその書類には、作成した日付けがきちんと記載されているのだ。
「……はづきさん。この印刷って、ミスじゃないんですよね」
「えっ、えっと……見せてください」
これが最後の頼み。『ミスですね』の一言で、まだ希望を見い出せるはずだったのに。
……視界が、歪んだ。
「……どこもおかしいところは、ありませんね」
――世界から色が、消えた気がした。
終わりの始まりとは、よく言ったものだった。
どこまで行っても俺は傍観者で、本当の意味で誰かと関わることなんて無いのかもしれない。
見送ることすらできない、そんなところから始まった。
たとえそこから、どれほど進んだとしても。行き着く先はきっと、見送るだけの存在になる瞬間なのだろう。
ここで諦めていたらどうなっていたのか、それはもうわからない。今はただ進むしかない。
その道以外はもう、許されはしないのだから。
前を向いた。目を開けた。
――自分の目に見える世界は、モノクロなものへと変わっていた
……というのを誰か書いてください。