石炭を原動力とし、盛大に煙を巻き上げて汽車が走っている。晴れやかな初夏の青空の下を緩やかな丘陵を縫って走る汽車のコンパートメント席は閑散としていた。赤を基調として荘重に設えられた四人掛けの対面席をそれぞれ扉で仕切った席に一人、陰鬱な顔をして窓枠に肘をつく一人の美少女の姿があった。
栗色の作り物めいた艶々とした髪をボブカットにして、垂れ下がった目尻が愛おしい瞳は紅い。十二歳ほどだろうか、まだ子供らしい顔つきは美しくそしてあどけない。たおやかで柔らかな雰囲気を醸し出す美少女は、簡素でありながら仕立てのよいワンピースに身を包み一人ちんまりと席の隅で座り込んでいる。
彼女はじっと自らの手の平を見つめ続けていた。小さく愛らしく、そして美しい白い手だった。彼女はその手を見て、ぽつりと呟く。
「随分と変わってしまったものだ」
一か月前、トロワ王国を災厄が襲った。大学の発掘チームが調査にあたっていた古代遺跡から魔王と名乗る強大な存在が復活し王都を蹂躙したのだった。
人口三百万人を誇り、列強有数の優美な都市として知られていた王都シャルトー・エ・ヴィリアは都市面積にして半分近くを瓦礫に変え、またその人口のうち実に百万人近くが死傷する未曾有の大打撃を受けた。
しかし、トロワ王国には未だ知られぬ英雄がいた。王立魔術研究所の研究員であるレイド・アラルガド。稀代の天才として知られたレイドは、魔王の第一撃を逃れ反抗部隊を集めていた王族唯一の生き残りクーリュリア王女に協力し魔王討伐に参加し、その要となる作戦を決行した。
精神と肉体の交換術。本来は年単位の準備期間と莫大な魔力を必要とする大魔術をレイドは即席で対魔王戦の切り札として活用する。魔王と自らの肉体を交換し、魔王の魂を自らの肉体に宿らせ、そしてその肉体を塵一つ残さず消滅させるよう言い残しレイドは散った。
公的には、レイドはその肉体を犠牲にし死んだとされている。レイドの魂が入り込んだ魔王の肉体の方も残っていない。怒り狂った魔王のヘイトを稼いで爆散したとされている。その隙をついてクーリュリア王女は王家の秘宝による必殺の一撃を魔王に叩き込むことに成功したのだ、と。
だが、幸か不幸かレイドは未だ死してはいなかった。魔王というにはほど遠い可憐な美少女として生き永らえていた。
レイドは自らの肉体を犠牲にし、死を覚悟した作戦が成功したのを見届けながら魔王の怪物のような二十メートル近い体躯が爆轟に包まれていくのに恐怖を覚えながら意識を失ったはずだった。
だが、彼が目を覚ましたのは、見覚えのない部屋だった。豪華絢爛とはこういうことだと言わんばかりに荘重に設えられた庶民階級のレイドには寝室と思えないほど広々とした部屋だ。
朝の訪れとともに差し込んだ陽光がちょうどレイドの顔に差し掛かり、彼――今や肉体的には女性だが――を目覚めさせたようだった。夏が迫っているというのにひんやりとした室内は、アーチ状の大きな窓から差し込んで来た眩い朝日に照らされる。
「目覚めたようだな」
「王女殿下……」
発せられた声に応じてレイドが目だけを動かすと、三人の見目麗しい女性が枕元でこちらを見つめていた。そして、彼女たち全員をレイドは知っていた。一人は、クーリュリア王女。トロワ王国の王族の一人であり、紅に輝く髪に凛とした美しい顔つき、そして武芸に秀で実直な性格から僅か十八歳にして臣民の間でも人望の厚い王族だった。何故そのような高貴な方が自らの寝ている部屋にと思う間もなく、レイドは自身の声音に違和感を覚える。
幼く、儚げに響く美しい声だった。それはレイドが知る自身の声とは似ても似つかない代物だった。レイドは今年で二十五になる。彼自身は自分をただの冴えない一介の男性研究員に過ぎないと思っていた。このような深窓のお姫様が発するような声など、出そうと思っても出しようがないはずだったのだ。
だが、レイドの理由を探る思索は一瞬で答えを導き出す。
「勝ちましたか?」
「君のおかげだ。感謝してもしきれない大恩が出来たな」
クーリュリア王女の顔には隠し切れない疲弊と憔悴が見えた。それでも、彼女の碧い瞳には希望の光が残っている。最大の障害は滅することに成功したのだとレイドは察する。朗報を前にレイドは緊張に硬くなっていた顔つきを安堵で緩める。
そして、すぐさま困惑に染めた。
「しかし……どうして私はこのような姿になっているのでしょう?」
レイドの知る魔王とは見上げるように巨大な漆黒の怪物だった。このような、可愛らしい手をした少女ではなかったはずだと自らの手に目線をやりながらレイドは問いかける。
「どうもその姿があの魔王と自称した怪物の本体だったようだ」
「何と……」
俄かに信じがたいが、目の前に立つクーリュリア王女が嘘を吐くとも思えない。心の整理の付かないレイドはただぽつりと驚嘆の定型句を吐く事しかできなかった。数瞬ほど自らの変貌に気を取られていたレイドだったが、我に帰り焦燥した顔つきでクーリュリア王女を見上げ、口早に再び問いかける。
「私の、私の家族は無事でしょうかっ……!」
「安心したまえ、幸運なことに全員無事だった」
「そう、ですか」
全員が無事など、どれほどの幸運があればそのような奇跡がありうるのだろうか。レイドは脳裏に死体の積み重なった繁華街を思い起こし、体を震わせる。あの中にレイドの家族はいないことが知れて、何よりも嬉しかった。だが、友人や知人まで含めれば……やめよう、今は考えたくないとレイドは思考を途絶させる。
「それで、私はどうなりますか」
レイドのさらなる問いかけは、彼自身の覚悟と諦観が垣間見えた。優れた魔術師であるレイドはすぐに理解していた。現在の魔術における常識では魔力の根源は魂にあるはずというのに、自らが奪い取ったこの肉体がおびただしい魔力を帯びていることに気付いていた。ありえないといいたいが、魔王などと呼ばれる存在だ。このようなこともあるのだと納得させるしかなかった。
いや、それだけなら珍しいこともあるものだとそれで終わってもいいのだが、問題はその量だった。魔王本人には遠く及ばぬとはいえ、その量は人智を越える。第二の惨劇を生み出すには十分な量であり、もし今自らが翻意すればトロワ王国の未来が消滅しかねないほどの魔力だ。
もっとも封印の腕輪やら首輪やら足輪諸々が幾重にも嵌められている現状、人類最高峰の数倍程度の力しか発揮は出来ないだろう。ならば、目の前にいる三人なら何とか殺しきれるレベルとはいえた。
だとすれば……今、ここで自分は殺された方がいいのではないか。レイドはそう考えた。
死を受容する覚悟と、元の肉体と失い最早生きる希望のない諦観。王国を救った英雄がこのような待遇でいいのだろうか。目の前のレイドを見て、クーリュリア王女は心を痛める。
「王立研究員としての立場で君は言ったね。精神と肉体の交換術は完全な入れ替わりを意味するものではない、と」
「ええ。別物の入れ物が完全な適合は果たすことはほぼありえません。徐々に肉体と精神は乖離し、数日内に死亡するはずです」
精神と肉体の交換術は限られた魔導師にのみ術式が公開される極めて危険性の高い魔術だ。だがそれでも人類は完全な入れ替わりを達成してはいなかった。適合者間でのみ入れ替わりは実行可能であり、非適合者は精神と肉体の乖離という死が約束されている。
「……ところがだね、もう数日が経過しているといったら君は驚くかな」
「馬鹿な……いや、魔王なんて代物は我々人類の研究の埒外にある。想定外が起きるのも想定内といえるでしょう」
どういった原理でそのようなことがありうるのか、レイドの頭脳が高速で回転しいくつかの仮説を生み出す。元より人類とは隔絶した魔力量がこの身にはある。乖離の遅延くらいなら、可能だと判断した。
そこでふと、かの魔王もまたレイドと同じなのではないかと気が付く。あり得ないとは分かっていたが、何処か胸の奥から湧き上がる衝動に任せてレイドは口を開いていた。
「当然、私の肉体は消滅させたのでしょうね」
「……ああ、最早君の肉体は残されていないよ」
「そう、ですか……」
一度膨らんだ期待が萎んでいくのをレイドは確かに感じた。馬鹿らしい、最初からこれが作戦の内だったというのにとレイドは自嘲する。レイドと魔王の肉体を入れ替え、その隙を突いて魔王の精神が宿った自身の肉体を滅ぼす。交換術の発動直後は精神と肉体が不安定な状態となり、如何な魔王とて魔術はもちろん肉体的にすら指一本動かせるかも危うい状態に陥るとしてこの作戦は決行された。そして、ようやく王国の蹂躙に終止符を打てたのだ。
「すまないな。民間人にすぎない君にだけ負担をかけてしまった」
「いえ、私も王国の民の一人です。アレは生かしてはおけず、対抗手段として私の専攻研究分野が役立ったのは僥倖でしょう」
あまりに身分の違う二人。だが、クーリュリア王女はそのようなことを些事と見なしレイドに頭を下げる。忸怩たる表情はレイドに、犠牲ありきの勝利に痛痒を覚えているのを教えてくれた。
まだ若いが、この方なら壊滅した王族の生き残りとして上手く王国のかじ取りをしてくれるだろう。死したかつての賢王の後継者に相応しき高貴なあり方に、王国の一臣民としてレイドは目を潤ませる。
「ともあれ、死ぬはずだった君は生きている。喜ばしいことだ」
本当に嬉しそうに顔を綻ばせ微笑むクーリュリア王女の背後、レイドは後ろに控える二人が苦虫をかみつぶしたような表情でこちらを見つめているのに私は気付いていた。侍従かつ護衛騎士のメルエイアと王属騎士団の一人であるフリスシュア。主の意見を蔑ろには出来ないのだろうが、レイドの生存を快く思っていないのが見え見えだった。
数日前に僅かな期間ではあるが戦友だった背後の二人を安心させるべく、そして無様に生き残ってしまった自分が生存への希望を抱く前に挫くべくレイドは言葉を紡ぐ。
「ありがとうございます。ですが、原理上からいっていずれにしてもそう永い命とは思えません」
「……そう、なのか?」
「ええ、確かなことは研究施設をお借りしないと言えませんが……感じるんです。肉体が違うと悲鳴を上げている。私の精神を追い出そうとしているのを」
今までの人生で感じたことのない感覚で、口で説明するのは難しかった。だが確かに精神と肉体の乖離が始まっているのだと魔導師としてレイドは直感していた。
「重ね重ね、謝罪させてもらう。申し訳ない事をした」
悲し気に顔を歪めて再び頭を下げてくるクーリュリア王女。本当に良き心根をされたお方だとレイドは心がじんわりと温かくなっていくのを感じた。
「王女殿下。あなたはこれから王国の顔になられる方でしょう。そう軽々と頭を下げないで頂きたい。どうか、お願いします」
だが、それではいけないとレイドは自論を滔々と脳内で紡いでいく。王族は壊滅し、国王の座に立てるのは最早クーリュリア王女しかいなかった。高貴なる王が易々と頭を下げてはいけないだろう。何よりクーリュリア王女殿下に頭を下げられこちらが逆に申し訳なくなって心が持ちそうにない。頼むから頭を上げて欲しい。
この方なら大丈夫と思えると同時に、あまりに実直で大丈夫かと不安にもなる。頼り甲斐を感じるのに頼りない面もあるのだ。厄介な性格のお方だ。
今や幼げな美少女の顔となったレイドが困り果てたように懇願してくるものだから、クーリュリア王女も意地を張り続けられずに顔を上げる。王女は可愛いものに弱かった。
「周りにも言われるよ。だがこれが私の性根なのでな……」
頭をかいてみせるクーリュリア王女殿下は、十八という年相応の美しき少女にしか見えなかった。
「コホン。話を変えようか」
クーリュリア王女殿下はレイドのこれからの処遇について語ってくれた。公式の発表としてはレイドは既に死亡し、双方が消滅する形で事件は解決されたことになっているらしい。
「すまないが、君がこのような形で生きていると公表は出来なかった」
「いえ、当然のことでしょう」
この肉体は王都を蹂躙した魔王そのものなのだ。恨まれても当然ではあるが、レイドはそんな恨みを受け止められるほど心が頑丈ではない。そう永くない余生、せめて静かに暮らせればそれでいいのだがと心中で独り言ちる。
「家族だけには君の正体を明かしてもいい。どうする?」
「……いえ、死んだことにしておいていただきたい」
「いいのか?」
いいのだと即答するつもりだった。しかし、レイドは一瞬言葉に詰まってしまった。元より死ぬつもりだったのだ。今ここで生きているだけでも幸運なのかもしれない。だが、だとしても最早家族とも会えないと実感するのは辛かった。
「構いません。この身がどの程度持つのかも分からないのです。せめて男の私として家族には記憶に残しておいてもらいます」
「そう、か……」
一通りの説明を終えたクーリュリア王女が去ると、再び室内に静けさが戻って来る。話をしているうちにも太陽は平素と何も変わらずゆっくりと空へと上がっていて、窓からは燦々と太陽光が差し込むようになり、すっかり室内は陽気で暖かくなっていた。
「リイナ、ねえ」
レイドはクーリュリア王女殿下から渡された偽造の身分証に目を通す。リイナ・ラトラン。第一種魔術師資格保有の二十五歳、か。年齢は同じだが、かつてのキャリアから考えると大きく落ちたものだとため息を吐く。六留で王立第一高等魔術学校を卒業……ま、良くも悪くも普通だ。他国と違いトロワ王国では留年するのが前提で教育システムを構築している。特に高等魔術学校ともなれば、他国の大学相当の学習が当たり前の世界だ。それにしたって四留あたりがそれなりに優秀なレベルなのだが、ね。
ベッド脇のサイドテーブルに身分証を置き、レイドはベッドから降りようとしてべちゃりと床に倒れ込んだ。かつての肉体と勝手が違い過ぎて、目測を誤ってしまったのだった。
「なんと、小さな体なのだ」
床についた手は華奢で、子供らしい小さな手をしていた。レイドは中等学校時代までは周りと比べ成長が遅く、まるで女の子のようだと揶揄されることも少なくなかった。だが、高等学校時代にぐんぐんと痛みを感じる程に成長を遂げ、卒業間際には学年でも一二を争うほどの高身長を手にしていた。
それなのに、まるでかつての自分に逆戻りしたようで気分が萎える……。
しばらくは世話になる体だ、一度しっかり自らの変化を目に焼き付けておくか。レイドはゆっくりと身を起こし、寝室に置かれた姿見で全身を確認する。
目の前で緊張に顔をこわばらせている姿が愛らしい美少女が魔王とは、あの大災厄の元凶とは、レイドにはとても思えなかった。年頃は、精々が十二といった見た目か。真っ白の長髪は腰にまでかかり、毛羽立ちの一切ない美しい髪をしていた。顔立ちも随分と可愛らしい。悪魔の所業を成し遂げたとは想像も付かない、天使のようなたおやかかつ柔らかな雰囲気の美少女だった。
中身が違うからか、あるいは姿かたちがあまりにも変貌してしまったからか今の魔王の姿を見ても恐怖感を覚えることはなかった。当時相対した時には身の震えが止まらなかったものだが、今の姿に恐怖を覚えていたら一笑に付されかねないほどにただの美少女となってしまっていた。
レイドはじっと鏡に映った全身像を見つめ続ける。庶民が寝間着として使うには畏れ多い、フリルの多用されたネグリジェは今のこの身には少し大きいようで袖から手が半ば隠れてしまっている。邪魔だと思い軽く手を振って袖から手を出すと、小さく華奢な手が姿を現す。
この体は棺のようなものだ。そう思うと、涙腺が緩んでくる。片手を目に持っていき両目を覆って涙を拭う。一瞬で死ぬのなら恐怖を感じる暇もなかったのだろうがこれからレイドはゆっくりと忍び寄る死の瞬間を待たなければならない。
やはり、死ぬのは怖かった。