夢を見る。生来のレイドはあまり夢を見る性質ではなかったが、最近はよく夢を見ていた。現在の心の軋みがそうさせるのか、決まってみるのはかつての楽しかった思い出だった。しかしその思い出はゆっくりと変転してゆく。
ルチアとともに歩いた春の眩しい町景色が、共に駆けた夏の草原が、紅葉の中で手を取り合って歩いた通学路の何気ない会話が、寒波著しい冬の室内で暖房の前を取り合って体を寄せ合った他愛のない思い出が全てあの日に収斂するのだ。
燃え盛り、瓦礫と化してゆく輝かしき王都。その中で倒れ行く多くの人たち。巨体を空に浮かせながらゆっくりと飛翔する黒い甲冑のような異形の化け物。嫌だ、もうこんな景色は見たくないと心が悲鳴を上げてもただその光景は脳内で繰り返される。
目の前で泣きすさぶ子を守ろうと魔王を前に体を盾とする親子が光線を浴び、あっけなく塵へと化し消失する。王都防衛の要である近衛師団が擁する鋼鉄で出来た戦車が溶けてどろどろになり、路上で無惨な姿を晒している。そうだ、レイド以外にも命を懸けて戦った者は大勢いた。そしてその悉くが死んでいったのだ。
レイドが凄惨な光景に耐えきれず上半身をバネのように跳ね起こし目を覚ますと、静まり返った室内で自らの心臓が激しく鼓動し浅い呼吸が繰り返される。未だ太陽の沈んだ深夜の夜闇の中で、元凶たる魔王の肉体が冷や汗を流している。不快感に苛まれ、催吐感から思わず何度か嘔吐くが口元に寄せた手にはただ唾液が垂れて来るばかりだった。レイドにとってこれは初めてではなかったからこそ、ベッドの上でも躊躇いなくこみ上げてきた吐き気に我慢することなく口を開いたのだった。
あの日以来、レイドにとって眠りは必ずしも安らぎをもたらす存在となってはくれなかった。眠り、思考から解放された頭脳はレイド本人がどれだけ疎ましいと思っていようが関係なく災厄の日を再現する。レイドにとって数少ない休息の時は眠りに入る前、睡魔に負ける寸前の僅かな時間だけだった。
結局今日も駄目だったか。レイドは不快感に痛む全身からゆっくりと痛みが引くのを待つ。痛みが引いていくと、涙に濡れた顔面と唾液に濡れた手の平に纏わりつく不快感に苛立ちを覚える。何故こうも自分が苦しまねばならないのか。憤りを覚えるも、その対象は自分自身なのだ。濡れた顔と手を拭う事もせずレイドはおもむろにベッド横のテーブルから酒瓶を手繰り寄せる。夜闇の中、慣れた手つきで酒瓶はレイドの手の内に収まり、そのままレイドは酒瓶を口元へと傾けた。
ただでさえ酒に弱くなったレイドの体へ、とにかく酔えれば何でもいいと購入した高度数のブランデーが染み渡っていく。一口のブランデーで焼けるように全身が熱くなると同時にレイドはぐらりとベッドへと崩れ落ちた。
ローリーから仕事を請け負った翌日、二日酔いに頭を痛めながらレイドは目を覚ました。広々とした寝室は物音ひとつしないが、窓の向こうからは朝の到来を告げるように鳥のさえずりが聞こえていた。窓を開くと、初夏でもまだ涼やかな風が顔を撫でて来る。
風が気持ちよくてしばらくこのまま窓辺でのんびりしていたいが、そうはいかなかった。今日は朝にローリーが尋ねて来るのだ。役所に、レイドがローリーから結界の管理を引き継ぐ旨届け出をしなくてはならなかった。
いつ来るのか分からないので手早く身支度を整えたレイドは、パンとハム、それに果物を齧って朝食を済ませてじっと待つ。だが、ここでレイドは役所がそう朝早く開くものでないことに気が付いた。キッチンに掛けられた時計はまだ六時にすら達してないことを教えてくれる。
これはしばらく暇が出来たようだと、レイドは家に置かれた蔵書から適当に本を取り出して読むことにした。余計な思考を巡らせるくらいならばと、とにかく手近にある本から目を通していった。
痛む頭に眉を顰めつつのんびりと読書に耽る事三時間、玄関のチャイムが鳴り出す。ようやくかと息を吐いて出迎えると、寝むたげに顔を揺らしたローリーが立っていた。昨日はしっかり整えられていた亜麻色の髪は所々にはねてしまっている。どうも朝は弱いようだ。
「ふわ……おはよ、リイナ。ちょっと座らせてもらっていい?」
「もちろん構わないよ、さあ入ってくれたまえ」
片手で欠伸で開いた口を隠しながら涙目になったローリーはふらふらと室内に入って来る。リビングのソファに案内すると、ぽすんと腰を埋めてうつらうつらと首から上を上下させる。
「寝不足かい?」
「んん、そういう訳じゃないんだけど……朝は力でないの」
「何か温かい飲み物でも用意しようか? 紅茶にコーヒー、ココアなんかもあったかな」
「ココア、飲みたいかも」
「そうか、ちょっと待っててくれ」
寝ぼけているローリーを置いて、レイドはキッチンへ向かった。悲しき哉、もはやキッチンへ来るたびに常用している踏み台に乗りガスコンロで湯を沸かす。仮にも魔術師であるレイドならば火など容易に自力で起こせもするのだが、科学の発達していない昔はともかく今や子供の頃より文明の利器を使い慣れ親しんでいる。火力も摘まみを捻れば簡単に調節できて、無理な使い方さえしなければ事故の危険もない。使わない手はなかった。
自分の分も含めてカップ二杯分、そう時間はかからず湯を沸かし終えてからパッパと瓶からココア粉末を適量入れてリビングまで待っていくと薄々予想はしていたがソファでローリーは眠りこけていた。
「おーい。午後には仕事があるから午前中に役所の用事は済ませたいんじゃなかったのかい?」
「むにゃ……いい匂い」
眠りは浅かったようで、声を掛けて目を開いたローリーにカップを渡す。ココアを口にすると、少し目が覚めたようでちびりちびりと忙しなくカップに口を付けてココアを飲んでいった。
「んー、目覚めたかも」
「それはよかった。その分だと朝食も食べてないんじゃないかね」
「あー……まあね。でも、甘い物飲んだから大丈夫」
「本当に? パンや果物くらい食べて行ってもいいんじゃないか。ハムもあるよ」
「ううん、ホントに大丈夫だから! あんまり遅く行くと混んじゃうかもだから、そろそろ出発しましょう」
そう主張するローリーに押され、レイドは共に役所へと出かけることにした。あまり気は進まないが、二十五の女性として身分が登録されているのだ。周囲に不信感を抱かれてはあらゆる手配をしていただいたクーリュリア女王陛下に迷惑がかかってしまう。それにふさわしい身なりを小さい体躯とはいえ整えて、レイドはローリーの先導の下で歩いていく。
煉瓦造りの小さな役所での手続きはそう時間が掛からなかった。結界塔を担当する部署が住民の住所移動やら戸籍管理やらといった多数の住民を相手取る仕事とは無縁のようで、割と暇をしていたのだった。急かしたローリーにその旨を伝えると、うっかりしていたとばかりに舌をチロリと出してあらぬ方向へ目線を逸らした。
手続きを終えたレイドたちは正午前には市役所を後にする。せっかくだから一緒に昼食を取ることにしたレイドたちは市役所そばのカフェに入る。噴水のある広場沿いに立地するカフェでは、レイドたち同様に昼食を取ろうと集まった人々でにぎわっていたがどうにか軒先にある席を確保することに成功する。
朝を食べていなかったからだろう、注文したバゲットサンドが届くと美味しそうに齧り付いたローリーがある程度腹を満たしてからレイドは質問をする。
「しかし、治安を維持する結界を担当するにしてはあっさり手続きがすんだね」
「まあ、魔術学校出には信用があるからね。それに週に一回のペースで警察から監査人が来てしっかりチェックしてるし」
「へえ、どんな人なんだい?」
「知らないわ。面識は持っちゃ駄目なの。でも、定期的に転勤し続けなきゃだから監査人になると大変みたいよ」
研究畑に入り浸っていたレイドは市井の魔術事情にそう詳しい訳ではない。在野で働くローリーの話には初めて聞く事柄も多かった。バゲットサンドとついでに頼んだケーキもぺろりと食べ終えたローリーはこれから仕事だからと、にこやかに手を振りながら去っていった。
ローリーと別れたレイドは早速その足で結界塔に向かい、魔力の補填と整備を済ませる。昨日ローリーが業務を行う様を見せてもらっていたおかげで全くと言っていいほど問題なく仕事は完遂出来た。
しかしあまりにスムーズに済んでしまい、逆に時間が余ってしまった。どうしたものかと結界塔から出たレイドは、折角なのでいくつかの店を見て回る。八百屋に精肉店、雑貨店などを見て回っているといつの間にか果物やハム、菓子などを頂いてしまっていた。二十五と言ってもあまり信じてもらえず、身分証を見せてもなお子供のような扱いをされるのはどうしてなのだろうとレイドは首をかしげる。二十五だぞ、もう大人なのだと主張すると逆に微笑ましい笑みで周囲の人間に見られるのはどうしてなのだろうか。身分証が意味を成さない度に冷や冷やさせられ、レイドは何だか途方もない疲労感を覚えてしまった。
嫌気の差したレイドは頂き物を家に置いてから再び昨日に続きバーへと足を運んでいた。マスターに子ども扱いされる理不尽を愚痴ると、何も言わずにおつまみを一品増やしてくれた。
「あら、また会ったわね」
レイドが酒とつまみをちまちま消費していると、隣の席に見知った顔が腰を掛ける。
「ローリー、仕事は終わったのかい」
「まーね、あー疲れたっ! マスター、一杯頂戴っ!」
昼間に見せてくれた元気の良さは仕事で使い果たしてしまったらしい。ぐでりとカウンターに肘を付くとマスターから受け取ったワインを一気に半分ほど飲み干してしまう。
「おいおい、いきなり飲み過ぎじゃないか?」
「いーのよ。こんくらいなんでもないわ」
昨日もワイン一、二杯程度では酔っている様子はなかった。それなりにローリーは酒に強いのだろう。対照的にコップ半分で酔いが回ってしまうレイドは自分自身に悲しみが生まれる。これではいくら味が良くても大して味わえない。
「それより、どうだった結界維持の仕事? そう難しくはなかったでしょ?」
「まあね、私でもこなせそうでよかったよ」
「謙遜しちゃってー! あれくらい高等魔術学校出なら余裕でしょ」
魔術師は人口四千万人を誇るトロワ王国において労働人口のうち二割近い人口を有するポピュラーな職業だ。だが、その中で高等魔術学校は全国でも二十校もない高度な教育機関であり、卒業者は低く見積もっても準エリートに位置する優秀な人間として扱われている。
「そういう君はお疲れだね」
「聞いてくれる? 今日は魔術薬の生成を頼まれたんだけど薬剤師の子が調合ミスしてさー、高級素材がみんなパーよ! あれじゃ利益と損失でトントンね。それでオーナーさんがすっごい怒鳴ってね、ユリシャちゃん泣き出しちゃったんだけどそれがオーナーさんの怒りにさらに火をつけたみたいでもう滅茶苦茶だったんだから! 私魔術師なのにいつのまにか交渉人みたいなことしているし……」
昨日と違い、ローリーもこの後に仕事はないようでマスターへ次々に酒を頼んでいく。今日は特に心労が酷いようで、マスターも同情してローリーに一品サービスをしてくれた。
それにしても、結界魔術に魔術薬生成を同時にこなせるとは。魔術分野の垣根を越えてマルチに才能を発揮している様は、素直に称賛に価した。レイドがそれを口に出すと、ローリーは愚痴を垂れながし不満げだった顔つきが照れ顔に変わる。
「そ、そうかな? 何か褒められたの久しぶりかも」
「私は凄いと思うよ」
「そっかー、へへー」
ローリーとの会話は尽きることがなく、たまに会話が途絶えたとしてその無言の時間も心地よかった。二人とも何も口は開かないが、顔だけは見合わせて表情だけで会話しながらのんびりと時間が過ぎていく。
「うえへへへー……もー飲めにゃー……」
ぽつりぽつりと会話を挟みながらローリーと共に過ごす時間は、二年後の最期を忘れさせてくれた。思えば、心を許せる相手と何の気負いもなく言葉を交わしたのは随分久しぶりだった。
クーリュリア女王陛下は優しいお方だが、高貴な血筋に見合うだけの高貴なるオーラが対等に話をする障害になっていたように思えた。そもそもクーリュリア陛下はとてもお忙しいお方で、親睦を深めるような時間などなかった。
それ以外のレイドの正体を知る者は同時にレイドの肉体の正体も知っていて、警戒を解いてはくれなかった。レイドの存在を知る者を極力減らすために接触可能な人間は少なく、そして会話を交わすほどの時間もほとんどなかった。
本当は親しい人間を作るべきではないのかもしれない。だが、孤独に死を待てるほどレイドの心は強くはなかった。二年後の別れを敢えて考えず、レイドはローリーと友人関係を築きたいと思ってしまっていた。
「ローリー、君と知り合えてよかった」
「ふぇっ!? いきなり何よぅ?」
流石に数時間も酒を飲み続けては酔いも回ってしまったようで、ローリーは呂律の回らない舌でこちらに話しかけて来る。
「いや、見知らぬ土地だったが君のような友人が出来て嬉しいと思ったんだ」
「そ、そっか……」
酔っ払い顔を赤らめていたローリーはカウンターで腕を組んでその中に顔を埋めてしまう。酔いが回ってきたせいだろうか、ローリーの態度を前にしてレイドはどうしてだか心拍数が気付かぬうちに上がっていた。
「もう九時か……結構長居していたようだね。もう帰るかい?」
「んー……もうちょっと一緒にいよ……」
「そうかい? 私は構わないが」
「んー……んふー……ふふぅー。んっ!?」
機嫌が良さそうに舟をこいでいたローリーの顔が一瞬にして青ざめる。
「きもぢわるい……」
「おいおい、流石に呑み過ぎたみたいだね」
レイドの家系は酒に強い方でワインボトル一本程度では飲んだうちに入らない方で、幼馴染であるルチアもまた同じかそれ以上に酒が強かったためにうっかりしていた。水を飲ませたり、背中をさすってやったりして時間を置いて気分がある程度回復したところでお開きにすることにした。
「マスター、今日は帰るよ。お会計を頼む」
「あいよ」
バーを出ると、ようやく空が薄暗くなり始めたところだった。トロワ王国の夏の日は長い。まだあと一時間近くは日が落ちることはないだろう。煌々と等間隔に輝く外灯の下、レイドはふらつくローリーに時折自分の肩を支えとして使わせてやりながら帰路に付く。
「家はどっちだい?」
「んえ……あっち」
「方向は同じか。途中まで一緒に帰ろう」
体を動かしたのが幾分早すぎたのかもしれない。ローリーは歩くにつれて顔色を悪くしていく。
「ローリー、ここから私の家まで五分とかからない。もしよければ休憩していくかい?」
「……いーの?」
「もちろん、君さえよければ」
「うええ……行く」
あんなに上機嫌だったローリーは、酒酔いで声音も随分と弱まってしまっている。
「君は呑み過ぎだね。気を付けなくちゃ」
「……うん」
どうにか家までたどり着いたレイドは、ローリーをリビングのソファで休ませてやった。ようやく横になれたのが楽になったのか、しわの寄っていた眉間から力が抜け顔つきが安らかになる。
「うー……頭がぐらぐらするー……」
「君、自分がどれだけ飲める口かちゃんと把握しておかないと駄目だよ。私が男なら危なかったね」
何という自虐かと、レイドは言葉にしてから思わずニヒルな笑みが浮かんできてしまう。
「馬鹿にしないでよねー……男相手にこんな姿見せないわよぅ。リイナ相手でちょっと油断しちゃった。いつもよりお酒が美味しくて……」
「私も今日は君と話せて楽しかったな」
「本当?」
「うん、私なんかが相手で悪かったかな?」
「そんなことないっ! ぅえええっへうっへっげふぇええげぇえええっ!」
いきなり大声を出したものだから、ローリーは唾が喉に入ってしまったのだろう。むせて苦しそうにあえぎだすローリーは涙目になりながら近寄ってきたレイドの差し出した手を取り、乱れた呼吸を抑えようと胸元にぎゅうと抱え込む。ルチアばかり見ていたレイドが、初めて女性の胸に触れた瞬間だった。きっとルチアが知ったら怒るだろうなと現実逃避するも、触れてはいけない部分に触れた焦りは完全に消えてはくれなかった。
「おいおい、大丈夫かい」
何処か上ずった声が口から出る。けれど、喉に違和感を抱えて苦しそうにしているローリーが気付いた様子はなかった。
「うぐえええ……でも、私リイナといっぱい話せて楽しくて、それではしゃいじゃって……だから、悪くなんて全然なくて……またお酒飲みに行きましょ? 今度はちゃんとセーブするから、ね?」
涙交じりに笑みを浮かべて見せるローリーは健気で美しく見えて、その表情に魅せられたレイドは先ほどまで感じていた焦りを忘れてしまった。
「そうだね。うん、また行こう」
「やた……リイナの手温かい。おでこにあてていい?」
「いいけど、冷たい方がいいんじゃないかい?」
「ううん。これでいいの……えへへー」
ローリーが浮かべたふにゃりとした笑みはレイドの心に再び高鳴りを覚えさせる。その後、目を瞑ったローリーはそのまますやすやと寝息を立てて眠りに落ちてしまう。温かなローリーのおでこから手を離すのに若干の未練を覚えつつも、レイドは毛布を取り出すべくリビングから出て行った。
ローリーを泊めてから数日後、あれからも懲りずにレイドはバーに通い、そしてローリーも懲りずにワインの入ったコップを景気よく仰いでいた。初日以来ローリーは反省して酒量を減らしているようだったが、隣で美味しそうに酒を飲む彼女を見ているとレイドまで楽しくなってきてしまい、レイドは自分があまりストッパーとして機能していないなと自省する。
目を覚まし物静かな寝室で、私はローリーのことを寝起きの頭で考えていた。本当ならば魔王の肉体が滅ぶのを自らで確認し、王都の惨劇の終止符を打つ予定だった。その時間に誰も介在させるつもりはなかった。それなのに、心の隙間にローリーが入り込んで来てどんどんと深く潜り込んで来る。十回に一回しか安眠出来なかったレイドだが、ローリーと本格的に交流を深めて以来睡眠は久方ぶりに休息として機能するようになっていた。
親から頂き、なんだかんだで苦楽を共にした自らの肉体を失った喪失感は途方もないもので、見てくれがどうであろうと価値など見出せなかった。
だから、この体で笑いたくなかった。楽しみたくなかった。隔離され、人との交流を奪われても覚悟の上だった。それなのに、ローリーと出会って生きることに喜びを見出してしまった。
どうにかして、丸く収まる方法がないものか。上手く自らの危険性を排除しつつ、生きる道はないのだろうか。ローリーとの出会いからこっち、そんな考えが泡沫の夢のように浮かんでは消えていく。そんなこと、考えてはいけない。第一、既存の魔術にそんな方法などない。
だというのに、もしレイドがいなくなった時に悲しむローリーの顔が脳裏に浮かぶとそれを見たくないと思ってしまう。いや、もしローリーがただの気立ての良い女性というだけなら、あるいはレイドは生存の方法を考えなどせず、緩やかに近付いて来る死の恐怖を紛らわしてくれる最期の安らぎとしてしか見なかったかもしれない。
だが、ローリーが自分を見る目から時折唯一無二の何かを期待する輝きが見て取れるのだ。それが何かは分からないが、ローリーはレイドに何かを見て取りそれに縋りたがっているような気がした。
レイドがローリーに救いを見出しているのと同様に、ローリーもレイドに何かを求めている。ぼんやりとした寝起きの頭に何の根拠もなく浮かぶふんわりとした考えだが、ただレイドは求められているのなら応じてやりたいと何となくそう思った。
「りーいーなー! 起きてるー!?」
何だか無軌道な思考を繰り返したせいで訳が分からなくなってきた。そういえば、昨日は何を話したろうか。気を紛らわそうと、ベッドの上で昨日のローリーとの掛け合いを思い起こし、あの可愛げのあるはきはきとした声を脳裏に再生しようとしていると何だか聞き覚えのある声が家の外から聞こえて来る。
「確か、寝室はこっちだったわよね……あ」
カーテンの隙間越しに、ローリーの猫のような目と目が合った。その目は驚愕に見開かれこちらを凝視していた。さて、寝ている間にとんでもない寝癖でも付いただろうか。それとも、涎の後でも付いているのかな。柔らかなベッドの温もりに多少の未練を覚えつつレイドは立ち上がり、カーテンと窓を開いてローリーと窓越しに相対する。
「おはようローリー、私に何か変なところでもあるかい?」
「あ、あの……リイナ?」
「ん?」
「何か、髪が……違くない?」
「え?」
レイドが目の前を揺ら揺らしている髪を引っ掴むとそれは外出時に身に付けている偽の栗毛ではなく、地色の白い髪だった。寝る前にはウィッグを外しているのだから当たり前か。
「あー……訳アリでね。変な色だから隠してたんだが」
ローリーなら、自分が頼めば秘密を漏らしたりはしないだろう。それでも少女の見た目で白い髪をしているのは普通あり得ない組み合わせだ。見られてしまい、レイドは妙に不安になってしまった。気味悪がられや、しないだろうか。
恐れを見せるのが弱いような気がして、レイドは敢えて笑顔を作り大したことではないように鷹揚な態度を取って見せる。
「あー……なんか、ごめんなさい」
幸い、レイドを見るローリーの目から嫌悪の念は見て取れなくてレイドは内心ホッと安堵のため息を吐く。
「いや。口外してくれないと約束してくれればいいんだ」
「それはもう! 絶対誰にも言わないわ!」
「助かるのだが、新聞配達の人間も来るかもしれないので声は抑えてくれ」
「あ、ごめんなさい」
家に入れたローリーに今日はどうしたのだと用件を聞くと、泊めてくれたお礼をしようと思って朝食を作ってやろうと来たのだという。手提げ鞄には卵や玉ねぎなどの食材が入っていた。
「リイナ言ってたよね。朝は温かいスープが食べたいけど自分じゃ作れないって」
「そう……だったかな? あまり覚えてない」
「えー……リイナいっつもコップ一杯飲む程度なのに酔っぱらっちゃったのー?」
その一杯程度で酔ってしまうようになったのだ、悲しいことに。
「ああいや、でも王都ではそういう食生活だったものでね。ちょっとした物足りなさがあったのは確かだよ」
「だから、私が作ってあげる。一回作ったら冷蔵庫に入れて時間遅延もかければ三日は持つから」
「ほう、君も夕飯はマスター頼りかと思ったが料理が出来るんだね」
「王都は料理屋さんがたくさんあるのかもしれないけど、ここらへんじゃ自炊出来なきゃ冷たいご飯ばっかりになるわよ?」
何でもないように会話を続けようとしたが、やはりというべきか。ローリーの目線がレイドの頭頂部にちらちらと向けられていた。嫌悪は感じられないが、変わって好奇の念はありありと見て取れた。すっごい興味がありますという顔をしている。
「やっぱり、気にかかるかい?」
「でも、綺麗じゃない。隠さなくてもいいと思うけどな。触ってもいい?」
「いいよ。ただの髪だけれどね」
「おおー、サラサラの綺麗な髪じゃない」
髪の間を指で梳いたり、束で掴みあげてはジッと見つめたりするローリーの顔をやや下から見上げる。どうにも嬉しそうに見えるのは気のせいだろうか。誉めそやされるのがどうにも恥ずかしくなったレイドは否定的な言葉で冷や水を浴びせかけてしまう。
「しかし、奇異の目は避けられない」
「そう……かもね。でも、私の前ではそっちでいいわ。偽栗毛の時より今の方がリイナ可愛いもの」
そう言ってローリーはレイドの頭を抱きしめる。可愛い……可愛いか。この身となってから、王都からここに来るまで、そして来てからも何度となく言われ続けているが何度言われてもむずがゆい。私は男なのに……。これでは成長して見返した過去が水の泡だ。
「可愛いって言われるの、慣れてない? リイナみたいな子なら言われ慣れてそうだけど」
図星を付かれ、レイドは少し体をびくりと動かしてしまう。中等学校時代までは言われ慣れて無反応を貫けていたのだが、身長がぐいぐいと伸びて以来は聞かなくなっていたせいで耐性が失われてしまっていた。かつてのレイドは意地を張るだけの若さがあったが、今のレイドは客観的に見ればこの肉体が非常に見目麗しいこと自体は肯定していた。それに価値を見出せないだけで。
「んふふー。でも、その反応してくれた方がいいから慣れなくていいわ」
「そうかね」
あえてそっけない反応を見せるレイドだが、赤く染まった頬が内心の照れを隠しきれてはいなかった。出先でもこのような態度を町の人々に見せていたので、ロ・ムーでのレイドへの評価は定まりつつあった。
「あははー赤くなってるー」
「そんなことはない」
「そう? そういうことにしといてあげる」
ニコリと微笑むローリーの笑顔が眩しく、レイドは思わず反論の口を止めてしまった。