・7月10日 20:02 富山県高岡市伏木錦町 第九管区海上保安本部 伏木海上保安部
『こちら巡視艇たちかぜ、救難信号を発した魚津漁港所属漁船「第六八幡丸」発見。魚津市より北西17キロ海上。これより着船し、船内臨検に当たる』
「本部了解」
伏木海上保安部・通信担当の幕田は短く応答すると、気を揉んで通信室に集まってきた保安部の首脳と顔を見合わせた。
熱い海風混じりの空気が淀む19時少し前、富山湾で漁を行っていた第六八幡丸より、救難信号が発せられた。ただちに伏木海上保安部より巡視艇を派遣、現場海域を捜索していたところだったのだ。
「ひとまず、船体は発見できて良かったな」
保安部長の仲谷二等海上保安監は一息つくと、安堵したように言った。
「おおかた、通信機器の故障、あるいは蜃気楼による電波障害でしょう」
保安部次長の倉田三等海上保安監も同調した。陸地と海上の気温差が激しい富山湾では、海水の急激な蒸発による蜃気楼が発生することがある。夏場のうち10日あるかないかの頻度だったが、今日は日中富山市で最高気温34℃を観測、富山湾には綺麗な蜃気楼が浮かび上がった。空気中の湿気が多いためか、こういうときは海上との通信に難儀することがある。
「とはいえ・・・救難信号を通報したのはたしかです。何かあったことに違いはないのでは・・・」
通信手の幕田はあくまで冷静だった。仲谷と倉田は口を結んだ。
だが責任ある立場として、2人の懸念も幕田は理解できた。昨夜沈没した豪華客船あかつき号、そして今日の午後、九州南西海域に領海侵犯した中国海軍所属の原潜騒動で、海上保安庁は創設以来もっとも緊張感溢れる1日を送ったといえる。
そんな中、救難信号を発した漁船の捜索、救助任務に当たり、部長と次長が何事もなく、あるいは問題が深刻でないことを祈る気持ちもわかる。
もしこの1日を後日映画化するとなれば、「海上保安庁のいちばん長い日」だろうなと、映画好きの幕田は1人妄想した。
『こちら巡視艇たちかぜ、第六八幡丸に移乗。巡視艇の救難隊員3名で船内を探索中』
「了解。探索終了次第、報告せよ」
一旦通信を切った幕田は、ふと胸騒ぎがした。たとえ通信が途絶していたとしても、海上保安庁の巡視艇が接近すれば船から顔を出すなり、あるいは手を振るなり何がしか行動を取るはずだ。ましてや、船内に保安官が乗り込んできたのだ。何のアプローチもないのは不自然だ。
幕田の懸念は、仲谷と倉田にも伝播したようだった。最初の楽観に満ちた顔から一転して、冬の立山連峰にかかる雲のように表情を曇らせた。
『至急至急、こちら巡視艇たちかぜ』
沈黙を破ったたちかぜの通信手は、明らかに気色ばんでいた。
「至急至急、どうぞ」
『船内で乗組員と思われる複数の遺体発見!その、様子がおかしい!」
不安は的中した。だが、尋常ではない様子も伝わってきた。
「たちかぜ、どうした?具体的な報告をせよ」
緊張は幕田にも伝わったが、なんとか冷静を保った。
『えー、船内からの報告では、遺体に不審箇所多数。・・・・なに?腐敗?・・・・えー、腐敗です、遺体が腐敗激しいもよう』
「そんなバカな・・・」
倉田がつぶやいた。
「幕田、たちかぜに確認しろ。救難信号を受信してから1時間で遺体が腐敗などするものか。映像回せるなら寄越せと言うんだ」
仲谷に促され、幕田は頷いた。
「至急至急、たちかぜ、より詳細な報告を・・・・」
『至急至急!』
幕田を遮り、たちかぜの通信手は金切り声を上げた。
『はっ・・・・発砲許可を、発砲の許可を求む!』
「たちかぜ、なにがあった!』
『ほ、本艇は、攻撃を受け・・・攻撃を!漁船から飛び移ってきたぞ!』
背後で怒声が飛び交う。だが怒声に混じり、おぞましい悲鳴も聴こえてきた。
『救援を!本艇は攻撃を受け・・・・・!』
その直後、金属をこするような音がして、通信手の絶叫が無線機をつんざいた。
幕田は呆然と、マイクを握ったまま動けなくなった。
「何をしてる、至急、調査に向かわせろ」
仲谷が慌て気味に指示をしたとき、外からサイレンの音が聞こえてきた。港の方向へ、パトカーが列をなして走っているのが見えた。
・同時刻 富山県魚津市本新町 魚津新川温泉『胡蝶の館』
大広間の座敷で夕食をとる参加者の中、2席だけポッカリ空いていた。旅行会社JOTツアーズの添乗員三芳綾はため息をつくと、もう一度旅館の内線電話を回した。324号室のご夫婦で参加しているお客様2名が、まだ夕食に現れないのだ。
夕食そのものは19時からだったのだが、その際にも会場へ来なかったため、内線で電話をしたところ、『必ず向かうのでお膳はそのままにしろ』とぶっきらぼうに言われた。仕方なくお待ちすることにしたのだが、もう1時間も経過している。
早いお客様はもう食事を終え、お部屋や大浴場へと向かう方もいらっしゃる。「いい加減片付かないので・・・」と焦れる旅館の仲居に急かされ、三芳は嫌々ながら電話をしているのだ。
だが今度は電話に出ない。
「でしたら、添乗員さんお部屋へうかがっていただけると・・・」
年配の仲居に言われ、三芳は大きくため息をついた。
本来、3日後に名古屋港へ寄港する豪華客船あかつき号の北回り航路ツアーへ添乗するため、一昨日イタリアツアーの添乗から帰国後、休暇となるはずだった。
ところがあかつき号が沈没してしまったため、社内は大混乱に陥った。社員、嘱託の大半は沈没事故の対応に回ったため、休暇を取るはずだった三芳も召集され、新人が添乗するはずだった今回のツアーを担当することになったのだ。
東京から一泊二日で富山県へ向かい、日本一の落差を誇る称名滝やトロッコ電車に乗車する、比較的難易度の低いツアー内容だ。従来なら、ベテランである三芳には回らない仕事だったが、会社の危機であるため、そこに異論は挟まないつもりだった。
だが、ただでさえ海外ツアーや豪華客船の旅とは客層が違う上、あかつき号沈没事故が起きた当日の出発だったため、お客様からJOTツアーズへの不信感が最高潮の中出発することとなってしまった。バス車内はお通夜のような雰囲気、あるいは「もし事故起きたら、どこまで補償してくれるんだ?」と訊かれるばかり。車内を盛り上げる役割のバスガイドも、早々にマイクを置いて補助席に座ってしまった。
とりわけ、324号室の新島様ご夫妻はやかましかった。「事故を起こすような会社のバスなんか乗りたくない」「こんな中出発する私たちへの慰謝料はどうなの?」と出発時から口うるさく、余計にバスの中の空気が悪くなった。
そのようなこともあり、お部屋へ直接うかがって夕食を勧めることは憚られた。だがお客様が「夕食は不要」と進言しない限り、無断で片付けてしまうわけにもいかない。
これから絞首台へ上がる囚人のような気分で、三芳は大広間から3階のお部屋へ足を運んだ。いまごろ、ストレスフルだったイタリアツアーを癒すため、オイルマッサージとヘッドスパサービスの後、去年ゴジラに倒壊されられるも先月再建されたコンラッド東京でワインでも飲んでいるはずだったのに・・・・・あたしだって被害者だよ、と毒づきたくなった。
部屋の前につき、ドアをノックする。
「新島様、添乗員の三芳でございます」
心とは裏腹に、猫なで声で呼びかける。
ドタドタと音がして、ドアが空いた。
「何?」
無愛想なご主人は、顔中汗だらけだった。思わず三芳は視線を外した。
「あの、お夕食の用意が整ってます。どうかお早く・・・・」
「言われなくても、いま行くよ。ったく」
乱暴にドアを閉めると、部屋の中から音がした。続きだろうか。
恥ずかしいやら腹ただしいやら、三芳はドアを蹴り上げたくなった。
(こっちは待ってるんだよ!)
心の中で絶叫し、ドアに背を向けた。部屋の中で物音がして、奥様の大声がした。聴きたくない、聴きたくない・・・。
怒り心頭で大広間へ戻る途中、旅館の外から何やらサイレンの音がした。救急車とパトカーが、海沿いの大通りを疾走している。暴走する地元の若者が車を横転でもさせたのだろうか。
非常階段越しに、階下から騒ぎ声がした。宴会が盛り上がっているには、ずいぶんと騒ぎが甲高い。
エレベーターで下へ下ろうとしたとき、上がってきたエレベーターのドアから年配の男性客数名が飛び出してきた。皆、血相を変えている。
「どうしたんですか?」
そう訊く三芳の声も耳に入らないのだろう、一目散に廊下を駆けていく。ムッとして廊下の先を凝視すると、曲がり角の先で悲鳴が上がった。今度は駆けた廊下を走り戻ってきたが、1名少ない。
下の騒ぎがより大きくなった。何かが割れる音が断続的に耳に入った。どうやら何かあったらしい。
(まさか、火災?)
グループ企業保有の豪華客船が沈んだばかりだ、三芳は慌てて非常階段を駆け下り、未だ夕食を取っているツアー客の元へ急いだ。だが非常階段を必死に昇ってくる宿泊客とぶつかり、転がるように踊り場へなだれ込んだ。
左の腰を打ち据え、さすりながら立ち上がると、宴会場は非常口やエレベーターへ殺到する宿泊客や仲居、板前でごった返していた。
「助けて、助けて」
三芳に飛び込んできたご婦人が、顔中血まみれになっていた。三芳は短く悲鳴を上げた。
混乱の中、ツアー客のいる大広間へ向かうと、お膳をひっくり返しながらツアー客が飛び出してきたところだった。
「み、みなさん、どうされました!?」
三芳が声をかけると、「助けてくれー!」と、皆裸足で駆け出してきた。大広間で甲高い悲鳴があがった。
状況が把握しきれない、旅館の関係者を捕まえようとしたところ、階段から大勢の宿泊客と旅館の従業員が上がってきて、階段へ殺到するツアー客ともみ合いになった。中には、さきほどの女性と同じく血が付着した人もいる。
とにかく大広間でツアー客の安全を確保しようと倒れたふすまをまたいだとき、金属をこするような音があちこちで聞こえた。
大広間では、数名のツアー客が畳の上に倒れていた。ビールやら刺身やらあちこち撒き散らされ、相当に混乱したことが窺えた。
「大丈夫ですか、どうし・・・・・・!ああああああー!!」
倒れているツアー客を抱き起こした三芳は、思わず悲鳴を上げた。もはや人ではなかった。まるでミイラ、あるいはゾンビのように顔が灰色になり、眼球が窪んでいた。
また、金属をこする音がした。それも複数だ。
三芳は血の気が引いた。大広間の窓ガラスが割られ、そこからスイカほどの大きさの虫が入り込んできた。
エビ、いや、前に泊まった新潟の旅館で見たことがある。フナムシに思えた。だが大きさが段違いの上、窓に近い席で倒れているツアー客の後頭部に食いついていた。
誰かにズボンの裾を引っ張られた。ツアー客の老人が血まみれになりながら、「助けてくれ・・・」と弱々しくつぶやいている。
三芳は必死に老人を抱き起こし、老人は這々の体で立ち上がった。
一緒に逃げようと背を向けたとき、後ろの首筋に何かが突き刺さった。