六月ももう半ば。湿気を蓄えた空気と共にせみの鳴き声が肌に張り付く。その熱気を真正面から押し返すように賑わう商店街で、今日は衆目を引く者があった。
重々しくレンガを踏み鳴らすその脚に黒の制服ズボンを纏い、その上で着崩されたワイシャツが僅かな風にそよいでいる。商店街の近くには花咲川女子学園や羽丘女子学園があるが、そのいずれとも違う。何より彼は男だった。この辺りでは見ない格好に、道ゆく人々は興味とまではいかずとも一度は横目にその姿を映したであろう。
平均にやや届かない上背は杖をつくような姿勢のせいで更に小さく見え、それでいて筋肉質な両腕が乱暴に捲られた袖から剥き出されていた。背負ったた大きなリュックに負けまいと、時折首を持たげて隈に縁取られた三白眼で太陽を睨む。男は熱を増してくる日差しに目を眩ませながら、沈み込む様に歩いていった。
時刻は8時を少し過ぎ、賑やかなはずの通学路に他の学生の姿はない。ようやくたどり着いた無人の校門から、彼は今日から青春を過ごす学び舎を仰ぎ見るのだった。
ホームルームが始まる前の教室は、いつもより少しざわついていた。転校生がやってくると誰かが溢したのを皮切りに話題は膨れ、期待の声まで上がっている。速やかな着席を促す風紀委員長の氷川沙夜も、いつもより少し疲れた顔をしていた。
「あはは...さよちゃんお疲れ様」
「松原さん、おはようございます......全く、今年はもう三年だというのに、転校生くらいで浮かれ過ぎです」
いつものように小言を口にする沙夜に、バンド友達の松原花音は「でも私もちょっと気になるなぁ」と淡い青髪を柔らかく揺らした。
「で、でも、なんでこの時期に......?」
髪を気にしながらコテンと首を傾げる白金燐子に釣られそうになった紗夜は、慌てた内心を取り繕うように咳払いをして二の句を継ぐ。
「そ、そうですね...... 一学期も折り返しましたが、新年度は始まったばかりです。こんな時期に転校だなんて......前の学校で何かあったのでしょうか」
「おうちの都合じゃないかな」
沙夜の生真面目さに内心苦笑しながら、心配した面持ちの彼女に花音はふわっと笑いかけた。それに続いて燐子が何か言いかけたところで、女教師が教室の扉を開けた。
「今日は転校生を紹介します!......と、いきたかったんだけど、まだ来てないみたいなので先に出欠取っちゃいま〜す!」
期待の眼差しの中、茶目っ気溢れる担任の元気な声でホームルームは始まった。幾分残念そうな生徒の名前を一通り呼び終わり、余った時間は生徒から先生への質問が飛ぶ。勿論、転校生のことでだ。その様子を沙夜は険しい表情で眺めていた。
(事情は知りませんが初日から遅刻だなんて。風紀委員長としてしっかり指導しますからね。花咲川に入った以上、こちらのルールに従ってもらわないと)
人知れず決意を胸に、沙夜は転校生を思い浮かべる。彼女の中でその転校生の印象は既に下がっており、いいイメージは浮かんでこない。ともすれば、本当に不良なんてことも......。
先生の話に耳を傾けるが、見てからのお楽しみの一点張りで一向に情報が入ってこない。諦めて視線を教室の外へ外すとーー
「なっ!!」
ガタッと音を立てて椅子が倒れる。突如立ち上がった沙夜は、教室中の視線を独り占めしていることにも構わずパクパクと口を動かすばかり。その視線の先で、コンコンと小気味良い音が二度鳴った。
「失礼しまー......す」
転校生の記念すべき第一歩は、踏み出されなかった。空気が凍るとはこういう事だと言わんばかりに、誰も彼もが押し黙る。ドサっとずり落ちたリュックサックだけが、静寂に重い波紋を残していた。そんな中、一足先に沈黙を破ったのは、やはり担任教師だった。
「遅いよー、もうホームルーム終わってますよー」
冗談めかした棒読みも彼の耳には届いて居らず、まだ酔いから醒め切らない頭で拙い言葉を絞り出した。
「あ、あの......この学......ここって、女装っ! 流行ってるん......ですか?」
そうであって欲しかった。それ以外の可能性は、光の速さで切り捨てた。声が裏返ったとか、出だしで噛んだとか、そんな恥すら蚊帳の外。尻すぼみになった言葉をそれでも何とか出し切った。
だが、担任教師は笑顔のまま。ゆっくりと首を横に振った。
「ここ、女子校だから」
「はぁ!!?」
その時何かが決壊した。前列の女子の肩がビクッと跳ね上がる。それを気にも留めず男は教室に雪崩れ込み、その脚で教師に詰め寄った。
「いやいやいやいや聞いてないんだけど!? 理事長教頭なんも言ってなかったし!」
「そう言われても、もう決まった事だから、ね? あと、先生には敬語っ」
「あっ、サーセン......っじゃなくてッ! そもそも大体何で入れてんだよ止めろや!......っです!」
大きな声に驚いたのか、その剣幕に慄いたのか。祈るような必死さで説明を求める彼の耳に、ひっ、と息を呑むような悲鳴が飛んできた。突如背筋が凍る気配がして徐に教室に視界をずらす。場違いな侵入者を容赦なく刺す視線は、彼の頭を醒ますにはには十分だった。彼はいたたまれなくなり背を向ける。それを黒板に向き直ったと勘違いしたのか、担任は相変わらず笑顔のまま仕切り直すように手を叩いた。
「はい、それじゃあ自己紹介してね」
(えっ嘘でしょ、この空気で!? 正気かこの女!)
しかし、後ろを振り返る勇気もなく、逃げ出すわけにもいかない。変に頭が冴えてるせいか妙に冷静で、黒板と睨み合うこと数秒、諦めのため息が溢れるのは早かった。次に目を開く頃には余分な力は抜け、やや気怠げな仕草で慶次はチョークを走らせた。
「あ、あー......っと、読んで字の如く『新藤 慶次』といいます。えー、おそらくなんかの手違いで皆さんと一緒に過ごす事になりましたが、まぁ、何だ、よろしく頼んます」
ヘラっと間の抜けた笑みを浮かべるが、相変わらず反応は無い。冷や汗が慶次の頬を滑りかけたところで、自己紹介は打ち切られた。
「はい、みんな仲良くしましょうね! それじゃあ、新藤くんは〜氷川さんの隣に行ってもらっていいですか? ほら、そこの立ってる子」
慶次が振り向くと、エメラルドグリーンの視線とぶつかった。ようやく自身が立ちっぱなしだったと気づいた様だ。沙夜は耳まで赤く染まった顔を下に向け、踏みつける様に勢いよく椅子に座った。
慶次はこれ以上あまり刺激しないように彼女の隣の席に腰を下ろした。机の上にリュックサックをのせ、未だ纏わりついてくる視線を遮断する。
その後担任は何人かに慶次の案内を放り投げてそそくさと出て行った。休み時間の始まりだ。と言っても既に五分もないが、何人かの生徒が動き出したのを皮切りに教室に喧騒が戻る。しかし、慶次に寄って来るものは誰一人としていなかった。
チラチラと未だに視線を受けながら、既に慣れたのか気にも留めずリュックの盾を床に下ろして中からルーズリーフとペンを発掘する。はち切れそうなリュックからは色々な物が顔を覗かせ、外に出ようともがいている。無理矢理それらを閉じ込めたところで、慶次は遠慮がちに肩を叩く者に気がついた。
「ちょっとあなた! 聞いているの?」
「ん? あぁ、どしたの.....?」
沙夜に向き直った慶次は悟られないほど僅かに頬を痙攣らせる。彼女の目がつり上がっていたからだ。未だに赤みの抜けない頬は、怒りからか、はたまた恥じらいからか。いずれにせよ、慶次はその場から逃げ出したい衝動に駆られた。
「私は氷川沙夜です。......新藤さん、でしたね? あなたが何故ここにいるかは......まぁ今はいいでしょう」
(今は?)
「ですがどうしても一つ言っておくことがあります」
彼女は一呼吸置くと、キッと音がしそうなほど眉間に力を入れて慶次を見据え、
「今後あなたが風紀を乱すような事があれば、風紀委員長として私が許しません......!」
静かにそう言い放った。
「それだけです」と続けた彼女に、慶次は片眉を少し下げ目を細める。その気怠げな雰囲気に小さなトゲが混ざった。だが、すぐにヘラついた笑みを浮かべる。
「あぁ、そんなこと?......わざわざご忠告どーも」
「そんなこととはなんですか! 私には風紀委員長としての責務がーー」
「もしかして、怒ってる?」
「怒ってません! なんなんですか急に!」
「や、だって顔、真っ赤だよ? あぁ、もしかして、恥ずかしいのかな?」
「なっ! 違います! からかわないでください!」
見透かしたような薄ら笑いを浮かべた彼の物言いは、確実に彼女の図星をついていく。気怠げな笑みに煽られ、沙夜の言葉が熱を帯びる。
「だっ、大体どういうつもりですか! 初日から遅刻だなんて! それに、勉強に関係ない物の持ち込みは禁止です! あとで没収しますからね! それからーー」
「いいのか? 授業、始まるみたいよ」
慶次が指差した先には、既に教壇に立った教師がいた。沙夜は話を遮られたことに一瞬悔しげな表情を浮かべたものの、すぐにそっぽを向くように着席する。
慶次は何人かの視線を感じ、肘をついたまま目の隈を覆い隠すように額に手を当て、張り詰めた気を晴らすように大きく息を吐いた。寝不足の頭は既にキャパシティオーバーだ。半ば逃避するように、無気力な視線を黒板に固定した。
波乱の1日目はまだ開けたばかりだ。