Scene 4   作:水原渉

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Scene 4

 

 人を信じてはいけないよ。

 物心ついた時にはもう、呪詛のように繰り返し聞かされていた言葉。

 幼少教育とは恐ろしいもので、とても多くの人たちはその言葉を真っ直ぐ信じ、学校の同級生から自宅の隣人、果ては家族に至るまで、すべての人と距離を置いて生きている。

 反社会的な行動を取りたがる一部の不良だけが、敢えてその言葉に反発するように人を信じているから、まったく皮肉なものだ。果たしてそれは不良と呼べるのだろうか。

 机に肘をつき、卯月は窓から外を見た。3階の教室からの眺めは素晴らしく、うっすらと雲に霞んだ蒼が心を落ち着かせる。

 つい先日まで、学校の向かいには高いマンションがあり、あまり趣味がいいとは言えないタイルの壁が卯月の視界を遮っていた。

 今はそのマンションは根元から崩れ落ち、瓦礫の山と化している。その向こうに、緑色の大きな池がキラキラと輝いていた。すぐそこなのに、ずっと知らなかった世界。

 きっとすべてのものは、ある一面しか見えていなくて、少し見方を変えると全然違って見えるのだ。

 人を信じてはいけない。

 この言葉に疑問に持ったのは、もういつの頃か思い出せない。ただ卯月は、人は信じた方がいいと思っている。互いに顔色をうかがう世界より、みんなで笑い合う方がずっと幸せに違いない。

 その信念を、反社会的だと言う人もいる。不良だと罵られたこともある。そのたびに挫けそうになりながら、それでも卯月は笑顔のもたらす世界を信じてきた。

 卯月はアイドルだ。もっとも、まだまだ「ど」のつく新人で、ようやく小さなステージでライブができるようになったばかりである。

 それでも、長かった養成所時代を思えば、なんて幸せなのだろう。自分を見つけ出してくれたプロデューサーには、本当に感謝の言葉もない。

 ステージで笑顔で歌う。それをお客さんが楽しんでくれる。歌と笑顔の力で世界を変えていくこと。バカにされるからほとんど話したことはないけれど、卯月はそんな夢を持っていて、プロデューサーだけが真面目に聴いてくれた。

 卯月は軽く拳を握った。

 今日も授業が終わった後、ライブがある。同じクラスの仲間たちが、みんなで見に来てくれるらしい。卯月は彼らを「友達」と呼ぶが、彼らは卯月を友達だとは言わない。

 それもしょうがない。友達という言葉は、暗に「信頼」を含んでいる。信頼とはこの世界においては宗教のそれに近く、従って友達などというものはオカルト的な存在なのだ。

 まずは、それでも見に来てくれる仲間たちに、友達だと呼んでもらうこと。小さな世界の小さな目標。

 周囲を見渡して、仲の良いクラスメイトの後姿を眺める。みんな顔を上げて、授業を真面目に聴いているようだ。

 この点においては、卯月は人より不真面目だと自覚している。しかし、アイドル活動でなかなか勉強する時間が取れないので、見逃してほしい。

 二兎を追ってはいけない。自分には自分にしかできないことがあるので、学校の勉強は他の人たちに任せたい。

 卯月がそんな、先生に怒られそうなことを考えたその時だった。

 教室の前のドアがガラッと開いて、いかつい男たちが大股で入ってきた。

 先生が怯えたようにへたり込んで、教室が静まり返る。入ってきた3人が、ギロリと教室を見回した。

 全員黒いごわごわした服を着て、やはり黒の帽子をかぶっている。身長はいずれも180センチは超えており、服の上からでもわかるがっちりした体格だ。廊下にまだ数人控えており、こちらも腕一本で人を殺せそうな体をしている。

 クラスの全員が息を呑んだ。

 大人の男に睨み付けられるという、それだけでも十分怖いが、それよりも恐ろしいのは、奥の一人がライフルを持っていることだ。アサルトライフルというのだろうか。ライフルとしては小型だが、拳銃よりは遥かに大きくて、間近で見るその威圧感は山中に現れた熊のようだった。

「この中に、こういうスケッチブックを持っているヤツはいるか?」

 低い声でそう言いながら、先頭の男が一冊のオレンジ色のスケッチブックを掲げた。市販されている、B5サイズの一般的なものだ。

 生徒たちは顔を見合わせ、否定も肯定もせずに俯いた。卯月も同じように顔を伏せる。心臓が破裂しそうなほど速く打っていた。

「もう一度聞く。こういうスケッチブックを持っているヤツはいるか? 持っていないなら持っていないと言え」

 先程よりも大きな声。口調はゆっくりだが、怒鳴り声と言っていいだろう。

 一部の生徒が首を振ったり、小声で「持っていません」と答えた。卯月は黙って震えている。

 ライフルを持っていない残りの一人が、先頭の席の生徒のカバンを乱暴に蹴り上げた。中に入っていた教科書やノートが、音を立てて床に散らばる。

 卯月は静かに机にかけたカバンの取っ手を掴んだ。呼吸を落ち着けようとするが、上手くできない。

 その間にも、男がカバンや机を蹴りつけて、生徒たちの押し殺した悲鳴が教室の空気を重く震わせる。

 卯月は一度固く目を閉じた。

 男の持っているオレンジ色のスケッチブックと同じものが、卯月のカバンの中に入っている。昨日、「明日のライブに持って来るように」と言われて、プロデューサーから渡されたものだ。

 卯月とユニットを組んでいる凛もその場にいたが、スケッチブックを渡されたのは卯月だけだった。

 中を開こうとした卯月を、プロデューサーが優しく制止した。

「それを開けてはいけません。約束してください。明日まで絶対に中を見てはいけないし、誰にも渡してはいけません」

 見るなと言われると気になるものだが、卯月はそれを忠実に守っている。人は信じられるものだと、まずは自分が行動で示さないといけない。それに、ライブになれば見せてもらえるだろう。そう思っていた。

 いよいよ自分の前の席の生徒のカバンの中身が、卯月のすぐ隣に乱暴にぶちまけられた。反射的に、卯月は自分のカバンを持って立ち上がった。同時に全力で教室の後ろのドアに走り出す。

 窓際の席は大好きだったが、この時ばかりはそれを恨んだ。廊下が海の向こうみたいに遠く感じる。

 突然、耳をつんざくような炸裂音がした。生徒の悲鳴が轟く。男がライフルを撃ったのだ。

 卯月は全身がバラバラになったような衝撃を受けたが、それは音による錯覚で、実際には当たっていなかった。視界の端で誰かが崩れ落ちるのが見えた。考えないように大きく頭を振る。

 勢いよくドアを開けて、転がるように教室から飛び出した。廊下にいた男たちがすぐそこまで迫ってきていて、卯月は反対側に駆け出す。しかし、上履きの女子高生が、鍛え上げられた男に敵うはずがない。

 あっと言う間に追いつかれて、肩を掴まれた。

 卯月は小さな悲鳴を上げ、振り向きざまに右手を振った。咄嗟のことで威力を誤り、男が他の何人かを巻き込んで十メートル以上吹っ飛んだ。

 反動で眩暈がして、膝をつきそうになる。壁に手をついてどうにか堪え、男たちが怯んでいる隙に駆け出した。

 他の教室から生徒たちが出てくる。そして、背後からした男の「捕まえろ!」という声と同時に、卯月に掴みかかってきた。

 卯月はそれをかいくぐり、階段を駆け上がった。自分の足を掴んだ一年生を蹴りつけると、何人かが雪崩のように落下していった。

 卯月は適当な教室に飛び込み、膝を抱えて息を潜めた。すぐ後ろの廊下で、無数の足音が通り過ぎていく。

 どうしてこうなったのか、まるでわからない。ただ一つ言えるのは、自分は何者かに狙われていて、学校中が自分の敵で、ここから逃げなくてはいけないということだ。

 呼吸を整える。力が戻るまでもう少し。

 刹那、教室のドアが開いた。見知った男子が顔を出す。いつも学生服を着崩して、耳にピアスをつけた明るい髪の不良の生徒だ。

 視線がぶつかる。卯月は怯えながら首を振った。男子生徒が廊下の方を振り返って言った。

「ここにもいねーぞ」

 男子がもう一度卯月を見て、にやっと笑う。

 それは卯月のためにした行動ではない。人を信じる反社会的なことをしたがる、ただの不良なのだ。

 行こう──!

 卯月は教室の窓を開けて身を乗り出した。そして、4階の窓から躊躇なく飛び降りる。

 能力を解き放つ。

 ふわりと体を浮かぶと同時に、力の余波で学校中の窓ガラスが砕け散った。

 足もとの砂が舞い上がる。地面に着地するや否や、卯月は駆け出した。すさまじい脱力感。気を抜くと意識が飛びそうになるが、今ここで倒れるわけにはいかない。

 とにかくライブ会場まで行こう。そうすればそこにプロデューサーがいて、きっと助けてくれる。

 いつの間にかあんなにも晴れていた空は雲に覆われ、今にも泣き出しそうな空模様だった。明かりのない民家、脆く崩れ落ちた家々、落書きだらけのシャッター、木々に覆われて土に還ろうとしている建物、窓のないビル、階段の抜けたアパート、錆びて朽ちたフェンス。

 ボロボロになったブロック塀の上から、痩せこけた猫が卯月を見る。すえた臭いを放つゴミ袋に集まったカラスが、一斉に羽ばたいた。

 ひび割れたアスファルトを、卯月は一心に駆けた。ぽつぽつと、雨が落ちてくる。

 突然、バンッと大きな銃声がした。

 振り向くと、遠くからライフルを抱えた男が走ってくるのが見えた。

 卯月は細い路地に飛び込んだ。どこで切ったのか、スカートの裾が破れ、太ももが赤く染まっていた。

 自分の血の色に気持ちが悪くなる。麻痺して痛みは感じないが、浅くはないようだ。大丈夫だろうか。

 家と家の隙間を通り抜け、繁みのような空地を草をかき分けて走る。不意に足を引っ掛けて、ぬかるみに倒れ込んだ。

 制服の襟元から、泥が中に入ってくる。カバンが空いていたのか、中身が散乱した。

 卯月はスケッチブックだけを持って立ち上がった。太ももがちくちくと痛み出し、それに呼応するように全身が軋み出した。

 再び銃声がした。今度は音と同時に衝撃を受けて、背中から地面に叩き付けられた。

 顔を上げると、先回りしていたのか、ライフルを持った男が立っていた。肩に触れると、ぬめっとした粘性のある液体の感触がして、冷たい汗が噴き出した。

 男が何か言いかけた瞬間、卯月は容赦なく能力を解放した。男の体が吹っ飛び、折れて斜めに突き出した細い木製の柱に突き刺さる。

 ライフルが鈍い音を立てて地面に落ちた。男は一度血を吐いて、白目をむいたまま動かなくなった。

 雨が強くなってきた。肩から溢れる血が止まらないので、卯月は最後の力でそれを治した。途端に、頭の中が真っ白になって崩れ落ちた。

 わずかな時間、意識を失っていたようだ。

 目を開けると、相変わらず柱に男が刺さっていて、その足もとにライフルが落ちていた。

 卯月は這うようにライフルに近付き、それを手に取った。もう力は残されていない。武器が必要だ。

 不意に名前を呼ばれたのはその時だった。

「卯月」

 もしそれが女性の声でなければ、卯月は振り向きざまにライフルを撃っていただろう。地面に座り込んだまま顔を上げると、凛が傘もささずに立っていた。綺麗な黒髪が、雨に濡れて頬に張り付いている。

 卯月は肺に溜まっていた空気を吐き出して、力なく笑った。

「凛ちゃん……」

 体中から力が抜けていく。しかしそれは、能力の反動のような不快なものではなく、安堵に満ちた温かな脱力だった。

 助かった。

「良かった……。凛ちゃん……」

 卯月はもう一度名前を呼んで、震える手でスケッチブックを差し出した。

 ライブ会場まで後少し。開演時間まではまだ時間があるから、自分はもう少しここで休んでいればステージに立てるだろう。

 凛にはスケッチブックを持って、先にプロデューサーのところに行ってもらおう。それで今起きている一連の出来事も、すべて解決するはずだ。

 卯月はそう思った。

 凛は無言でスケッチブックを受け取ると、もう片方の手をバッグに突っ込み、黒い金属製の物体を取り出した。切れかけて明滅する街灯の下で、回転式の拳銃が冷たく光った。

 真っ直ぐ肘を伸ばして、凛が銃口を卯月の額に当てる。卯月はそれをぼんやりと眺めていた。

「このスケッチブック、誰にも渡しちゃいけないって、プロデューサー、言ってたよね?」

 起伏のない凛の声を聴きながら、卯月は目を閉じた。

 先程少し倒れていたおかげで、ほんの一瞬、例えばこの銃口を逸らせるくらいの力は回復している。そして、その隙に腹の上に置いてあるライフルを構えて撃つことはできる。

 しかし、それに何の意味があるのか。

 まぶたの向こうで、凛が撃鉄を引き起こす音がした。

 卯月は目を閉じたまま、穏やかに微笑んだ。

「凛ちゃん、それを、プロデューサーに、届けてね」

 

 ──ある春の日のことだった。

 どんよりとした曇り空の下を、卯月は俯きながら歩いていた。

 養成所の仲間は次々と辞め、自分と一緒に入った子はもう誰もいない。

 いつの間にか一番の古株になっていた。

 やっぱりもう、ダメなのだろうか。この荒廃した世界のように、朽ちてボロボロになって消えていくしかないのだろうか。

 巨大な瓦礫が積み重なる傍らに、黄色のスイセンが咲いていた。卯月が花の前にしゃがむと、まったく同じタイミングで誰かが卯月の前に座った。

 顔を上げると、長い黒髪の、少しきつそうな目の女の子がいた。

「花を売ってるんだ」

 女の子が言った。

「こんな世界でも、花は咲くんだって。それに気付かない人たちに、私は花を贈りたい」

 卯月は笑った。梅雨が明けるように、久しぶりに心に光が差した。

「私、島村卯月」

「私は渋谷凛」

 ぎゅっと握った手が温かかった。

 

 群青の世界を、白い月明かりがスポットライトのように照らし出す。

 元気な歌声と観客の声援が、重く沈澱していた空気を震わせる。

 こんな世界でも夢や希望を持てるのだと、アイドルたちは歌い続ける。

 

 ─ 完 ─

 

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