このおかしな世界にあって、結果に対する原因を考えすぎるのは良くない。
テーブルに置いた1枚の紙を睨んでいた卯月にそう言ったのは、未央だった。
顔を上げた卯月を見て、未央が驚いた表情を見せる。よほど怖い顔をしていたのだろう。卯月は反省して、一度頬を両手で挟んだ。
「理由とか、原因とか、因果とか、きっとあるんだろうけど、それが納得できるものとは限らないよ」
テーブルを挟んで向かいに座り、未央がそっと紙を手にする。そして書かれた文字を一瞥して、もう一度テーブルに置いた。
卯月は大きくため息をついた。
理不尽と不条理が横行するこの世界にあって、結果を前に「どうしてこうなったのか」と考えることに意味はない。自責の念に駆られて終わるだけだ。
それでも、卯月は考えずにはいられない。それが優しさなのか正義感なのかはわからない。そんな格好のよいものではなく、単に後ろめたさかもしれない。
思い出すのは一週間前のこと。一人で街をぶらぶらしていると、不意に男性の声で呼び止められた。
振り向くとそこに、黄昏の引導師が立っていて、卯月を呼び止めた自分の行動に驚いたように、慌てて手を振った。
「あっ、いえ、その、思わず声をかけてしまって!」
あたふたする大学生の青年が可愛くて、卯月は思わずくすっと笑った。
黄昏の引導師とは、彼のハンドルネームである。卯月がデビューし、まだ凛が加入するよりも前から応援してくれている青年で、卯月の最古参のファンの一人だった。
「いいえ。私服でも私だって気付いてくれて嬉しいです。黄昏の引導師さんは、今日は?」
「それ、街で呼ばれると恥ずかしいから、ゴトウにしてください。あっ、自分、ゴトウです」
ゴトウはそう言ってから、生意気なことを言ってしまったと慌てたように手を振って頭を下げた。
黄昏の引導師がゴトウになってしまったことを、卯月は少し残念に思った。とても特別な存在が、実に平凡な人になってしまった気がしたが、反面、距離は縮まったように感じた。
「じゃあ、ゴトウさん」
「あっ、自分、君付けがいいです。卯月ちゃんに君付けで呼ばれたら、もう死んでもいいです」
卯月は一瞬固まった。ゴトウは自分がいかに変なことを口走ったかに気付いたらしく、顔を真っ赤にして不思議な動きをした。
考えるより先に言葉が出るタイプらしい。悪い人ではなさそうだ。
「じゃあ、ゴトウ君」
「あっ、死んでもいいです! 自分もう死にます!」
「死なないでください」
「それより、卯月ちゃんが自分を覚えていてくれたのが嬉しいです。死にます。自分、あんまり特徴がないから……」
自信なさそうにしょんぼりしたゴトウを見て、卯月は十分個性的だと思ったが、黙っていた。何よりハンドルネームのインパクトが半端ではない。
ゴトウのしどろもどろの説明によると、大学の特別講演の帰りで、特に用事もなくて暇しているので、もし卯月も暇しているのであれば、お茶でもどうかということだ。
まさかゴトウがナンパしてくるとは思わなかったので、驚いて目を丸くすると、ゴトウはようやく自分がナンパしたことに思い至ったのか、頭を抱えて天を仰いだ。しかし、発言は取り消さなかったので、そういう手口なのかもしれない。
特定のファンと仲良くするのはいけないと思いつつも、卯月は歩き疲れていたし、喉も渇いていたので、一緒に喫茶店に入ることにした。
ゴトウの喜びようと言ったらなかった。卯月は自分にそこまで価値を感じないが、確かに自分の大好きなアイドルが、一緒にお茶してくれたら飛び上がるほどほど嬉しいだろう。
「ゴトウ君は、大学で何を学んでるんですか?」
「あっ、自分、心理学です! 卯月ちゃん、自分に何か嘘か本当かわからないことを言ってください。自分、それを当てて見せます」
「じゃあ、昨日の夜は、凛ちゃんと二人でビーフシチューを食べました」
「それいいですね! 自分も卯月ちゃんと凛ちゃんと三人でビーフシチューが食べたいです! むしろ食べられるビーフになりたいです! でも嘘ですね」
「あっ、うん。嘘。本当はスープカレー。よくわかりましたね。すごいです」
「専門ですから。はい。でも、もっと褒めてください!」
やっぱりゴトウは変なヤツだった。
そのゴトウが刺されたと聞いたのは、昨日のことだった。幸いにも命に別状はなかったのだが、明確にゴトウを狙って刺した人間が、殺し損ねたとは思えない。命まで取る気はなかったと考えるのが妥当だろう。
翌日の今日、卯月のもとに届いた一通の手紙。手紙と呼ぶには粗雑で、紙切れが1枚入っているだけだが、そこには卯月のアイドル活動に対する脅迫めいたことが書かれていた。
なぜゴトウが狙われたのか。もちろん卯月のファンだからだが、ゴトウである必要はなかった。元々古いファンだと知られていたのか、誰でも良かったのか、あるいは一週間前の喫茶店が引き金になったのか。
犯人はわかっている。個人までは特定できないが、アイドル活動を一つの勢力を見なし、それを排除しようとしている組織。卯月たちはその組織をIDと呼んでいる。元々は未央が名付けたもので、未央が加入してからもそれを踏襲している。ちなみに、Idol Destroyersの略らしい。
「それで、どうするの?」
未央がテーブルに肘をついて、無表情で卯月の顔を覗き込んだ。その瞳には、どこか卯月を試すところがある。
未央は元々、卯月や凛より前からアイドルをやっていた。しかし、IDに目をつけられ、ファンに危害を加えられて、アイドルを辞めることにした。
一度は表舞台から姿を消した未央だったが、卯月に誘われて再びステージに立つことにした。その卯月が、自分と同じようにファンを傷付けられた今、どういう選択をするのか。未央の最大の関心と言っても過言ではない。
卯月は一度目を閉じてから、再び手紙に視線を落とした。
「一日、考えさせてください。ただ、アイドルは辞めません。それだけは先に言っておきます」
「わかった」
未央が満足したように頷いて部屋を出て行く。
その後もしばらく、卯月は一人でじっと犯行声明を睨み続けていた。
卯月は、凛と未央と3人でアイドル活動をしている。未央の加入を機に、ニュージェネレーションズというグループ名をつけ、活動を新たにした。
リーダーは一番アイドル歴の長い未央が努めることになったが、基本的には三人とも並列で、ファンに対しても未央がリーダーだとは伝えていない。内々でグループの方向性を決める時、その決定権を未央に委ねているというだけだ。
ここでいう方向性とは、ライブや選曲、会場や衣装、コンセプトやMCといった、アイドル活動の直接的な表現のことである。
卯月たちは単に、歌やダンスが好きだからという理由だけでアイドルをやっているわけではない。アイドル活動を通じて、このおかしな世界を正したいと思っている。
卯月は人が信じ合える世界を、凛は争いのない世界を、未央は秩序ある世界を目指して活動している。卯月は全部同じようなものだと思っているが、凛や未央に言わせると、微妙に違うらしい。
そんな世界に言及していく活動に対する決定は、卯月に委ねられている。もし決定的に方向性を違えばグループ解散も有り得るが、卯月はその辺りのことはあまり心配していない。目的の違いはほんのわずかなので、よく話し合って手段を選べば、そこまでこじれることはないだろう。
今回の件も、恐らく卯月の頭の中にある「最終的な対策方法」について、二人も異存はないはずだ。以前、ライブでの爆撃を防いだ時から考えていた。IDに目をつけられた以上、受け身で守り続けるのは無理であると。
もっと早く動くべきだった。意外と大丈夫かもしれないと考えていた甘さのせいで、大切なファンに怪我を負わせてしまった。
対策方法はたった一つ。こちらからIDの拠点を見つけ出し、乗り込んで、殲滅する。今後も安全にアイドル活動を続けるには、それしか方法はない。
卯月はアイドルが好きである。未央のことも応援していたし、他にも好きなアイドルがたくさんいた。
しかし、今でもアイドルを続けている子は少ない。この物騒な世相と、IDのせいだ。
普通の女の子は恐怖にアイドル活動を辞め、未央のような力のあるアイドルは叩き潰された。結果として、卯月のような無名の新人でもある程度注目されているわけだが、それは喜ばしい状況ではない。
IDを排除し、アイドルたちがまた元気に歌を届けられるようにする。それは、卯月たちの今後の活動にも良い影響を与えるだろう。
問題は手段だ。
以前未央に、IDに喧嘩を売るつもりはなかったのか尋ねたことがある。未央は、考えたことはあるが、一人では無理という結論に至ったと答えた。
仲間が欲しい。卯月は自分たちの他に、恐らく力を持っていると思われるアイドルを何人か知っている。例えば、安部菜々、岡崎泰葉、堀裕子。面識はないが、このご時世、知り合いになるのは難しくない。
ただ、彼女たちは力はあるが世界に対して訴えたいことがあるわけではないようだし、いきなり戦いに巻き込むわけにはいかない。凛に言わせれば、背中を預けられるほど信頼はできないだろうし、それは向こうも同じだろう。
三人でなんとかする。それには情報が必要だ。
卯月は二人に決定を伝える前に、プロデューサーに相談することにした。いずれにせよ、実現させるにはプロデューサーの協力が不可欠である。卯月は力はあっても、個人で情報網を持っているわけではない。
プロデューサーは、いつまでも芽が出ずにくすぶっていた卯月を見つけ出してくれた人である。どこかのプロダクションに所属しているわけではなく、卯月が一人目の所属アイドルであり、まったく一から活動を始めた。
この話を凛にすると、なぜ信じたのかと怒られるが、インスピレーションとしか言いようがない。もちろん、提示されたプランに具体性があったのもあるが、ついて行こうと決めたのは人間性だった。
プロデューサーは卯月が期待したほどの手腕ではなかったが、不満を抱くほど無能でもなかった。彼の本当の能力はそこではなかったのだ。
彼は豊かな人脈と情報網を持っていた。それは反社会的な組織にまで及び、未央が卯月のライブに侵入した時の情報も、すべて彼がもたらしたものだった。
後から聞くと、彼が卯月に声をかけたのも、卯月が強い能力の持ち主だと知っていたからだった。この点について卯月は、自分の魅力はアイドル性ではなく能力なのかと、袂を分かつ覚悟で聞いたことがある。
プロデューサーはこう答えた。
「どっちもです。卯月より強い能力の持ち主は他にも何人も知っているし、卯月よりスター性のあるアイドル志望の子もたくさん知っています。けれど、両方を持っているのは卯月だけでした」
「プロデューサーさんの求めるアイドルには、能力が必要ということですか?」
「そういうことです」
彼が凛や未央の加入を認めたのも、特別な力があったからこそだった。
なぜ能力が必要なのかはわからない。これは凛と二人で聞いたこともあるが、「君たちの夢は、力が無くては実現できません」とはぐらかされた。凛はもう少し食ってかかったが、結局満足は答えは引き出せなかった。
プロデューサーには、プロデューサーの目的がある。それはニュージェネレーションズ3人の一致した見解であるが、今のところその目的は、卯月たちの方向性と同じであると考え、うやむやにしている。
そのせいで、凛と未央はまだ少しプロデューサーを疑っているが、卯月は信じている。凛に言わせると「甘い」のだが、身近な人すら信じられなければ、卯月の求める世界は訪れない。
「プロデューサーさん。私たちは、IDと戦いたいと思っています。賛成ですか? 反対ですか? 可能ですか? 不可能ですか?」
決して他の誰にも聞かれない場所で、卯月は率直に質問した。
プロデューサーは卯月の鬼気迫る表情を見て、ゆっくり頷いた。
「黄昏の引導師のことは私も聞いています。彼らのようなファンがいなくては、今の卯月もいませんでした。彼らには感謝しています。後手に回ってしまったと、私も反省しています」
「私もです。ゴトウ君には本当に申し訳ないことをしてしまいました。二人目、三人目の犠牲者を出すわけには、絶対にいきません! だから、協力してください!」
思わず声に熱がこもる。プロデューサはもう一度大きく頷いた。
「わかりました。勘付かれないように調べる大変ですが、卯月たちにもしものことがあっては困ります。全力を尽くしましょう」
「はい! よろしくお願いします!」
卯月は元気に答えて頭を下げた。
バリケードの内側に、荒廃した街が広がっている。かつては都心の一つだった渋谷という地区だが、数年前に戦争級の抗争があり、壊滅してしまった。
今でも普通に通行に利用している人はいるが、治安が悪く、安全上の理由からも行政は立ち入りを禁止している。そのためのバリケード自体が、今となっては崩壊し、廃墟感を色濃くしている。この中のとあるビルを、IDが集会場の一つとして使っているとのことだった。
IDの人数は20人前後。思ったよりも少ないが、そもそもアイドルを脅威と見なし、排除しようなどという思想が共感を得られるはずがないのだ。
一部の狂人の集まりだが、そのせいで未央をはじめ、何人ものアイドルが引退に追い込まれ、たくさんのファンや、時にはアイドル自身が殺された。
IDにはIDなりの正義があるのだろうが、それを許すことはできない。これまでと、そしてこれから出るすべての犠牲者のためなら、彼らを殺すことに躊躇はない。それが卯月のアイドルとしての覚悟であり、凛と未央も同じ思いだった。
プロデューサーが得た情報によると、今日の昼過ぎにIDの集会があるという。できれば夜陰に乗じて近付きたかったが、そこまでの情報が得られただけでも感謝しなくてはいけない。
本当は遠方から爆撃をして、手を汚さずに済ませたいところだが、情報の確実性も含め、潜入して殲滅することにした。
卯月は一度仲間たちを振り返った。
三人とも、未央が以前着用していた黒装束を身につけている。
未央は武器として殺傷力の高いナイフを何本か所持している。身体能力を極限まで高める力があるため、銃を使うよりも肉弾戦の方が能力を活かせるのだ。
凛はいささか緊張した面持ちで銃を握っている。凛は相手の攻撃を無力化したり、跳ね返したりする能力がある。しかし、それ以外はまったく普通の女の子と変わらないため、攻撃手段として射程のある銃を愛用している。
そして卯月は、空気に干渉できる。元々は空気を圧縮して衝撃を与えるくらいしかできなかったが、今では色々な応用が利くようになった。もっとも、能力を使うたびに強い疲労感が伴うので、できるイメージはあっても使えないものも多い。
それからもう一つ。卯月は怪我を治すことができる。ただしこのことは、凛と未央とプロデューサーしか知らない。ひょっとしたら家族は勘付いているかもしれないが、話したことはない。
医療や軍事方面で大きな影響を及ぼす能力であり、悪用や自らへの干渉を避けるため、秘密にしている。今回、ゴトウの怪我を放置しているのもそのためだ。申し訳なく思うが、それは信頼とは別の理由で話すわけにはいかない。
三者三様、弱点も多い能力だが、力を合わせれば必ず勝てると信じている。
「行こう」
凛が小さな声でそう言って、三人で頷き合った。
周囲を警戒しながら件のビルに近付いていく。未央の人間離れした視覚と聴覚により、どうにか無事に入口まで接近した。
三階建ての雑居ビル。窓や壁の汚れはひどく、周囲は草に覆われているが、ビル自体はしっかりしていた。
奥に車が4台ほど駐まっている。人数の割には少ないと感じるが、何も裏の組織の人間が全員車で移動しているわけではない。
ビルの中の構造はわからないが、元々ダンススクールが入っていたという情報があるので、恐らく部屋や壁の少ない、大広間のような造りになっているのだろう。未央の得意とするフィールドではないが、そこは戦い方一つである。
ぐるっとビルを一周する。入口は表の大きなガラスの自動ドア。裏手に通用門。窓がいくつかあるが、カーテンやブラインドが閉まっていて中の様子は窺えない。
外の螺旋階段から2階と3階にも上がれるが、一般的には上に行けばいくほど退路を断たれるだけなので、使うメリットは少ない。
忍び足で通用門に張り付くと、未央が中の様子を聞き耳した。しばらくして、首を左右に振る。そっとドアノブを掴むと、鍵は開いていた。
ほんのわずかに開いて、中を覗き込む。明かりはなく、外からの光で見える範囲では、入館のチェックをしていたと思われる警備員室があり、通路が奥に延びていた。
音はやはり聴こえない。
「静かすぎる……」
未央が眉間に皺を寄せる。確かに、情報と外の車からして、中にIDのメンバーが集まっているのは間違いない。にも関わらず、あまりにも人の気配がない。
未央が先行して通路を進む。奥のドアに辿り着くと、ようやく中から人の声がした。それも卯月や凛では聞こえない程度のものである。
未央はナイフを構え、卯月と凛は銃を握った。戦術は事前に打ち合わせてある。相手も手練れの集まりだろうが、不意をつけば勝てない相手ではない。
微かにドアを開く。明かりはない。部屋の中が真っ暗だと認知したのとほとんど同時に、今来た通路の入口側から銃声がした。
それを避けるように部屋の中に転がり込む。銃を撃った持ち主だと思われる足音が近付いてきて、三人は奥に駆けた。
刹那、パッと明かりがつき、見ると三人はがらんとした部屋の中央に立っていた。それを高い位置から取り囲むように、銃を持った男たちが立っている。来たドアは閉められ、三人は完全に取り囲まれていた。
小太りの男が三人を見下ろしながら一歩前に出て、勝ち誇るように哄笑した。
「飛んで火に入る何とやらってな」
言葉にするまでもなく、謀られたと三人は思った。プロデューサーが苦心して集めた情報は、三人を引き込むための罠だったのだ。
凛が素早く銃を構え、小太りに向けて発砲した。同時に、男たちの持つ小型の機銃が一斉に火を噴く。凄まじい音が部屋に轟き、煙幕が覆った。
三人はIDに嵌められた。しかし、それでも計算の範疇だった。
卯月は素早く未央を抱きかかえるようにして床に伏すと、能力を解放して障壁を作った。未央には弾丸を防ぐ力はないが、卯月はある程度防ぐことができる。凛に撃たれた弾丸は、すべてそのまま弾き返すことができる。
つまり、20人を殺すには、20人が一斉に凛を攻撃すれば済む。それは元々考えていた三人の計画の一つだった。
煙が晴れる。卯月は眩暈にふらつきながら、体を起こして顔を上げた。
そこには20体の死体が並んでいるはずだった。しかし、卯月が見たのは、ほとんど無傷で、先ほどまでと同じように三人を見下ろしている男たちの姿だった。
「残念だったな。渋谷凛の能力は把握済みだ」
小太りの嘲笑に、卯月は険しい顔をした。一人立っている凛も青ざめて、唇を震わせている。
「この攻撃では渋谷凛は殺せない。だが、島村卯月のその力はどれだけもつ? 本田未央はこの数の機銃に対して何ができる? まずはお前たちからだ!」
小太りが手を上げるのとほとんど同時に、卯月は叫んだ。
「オン・ツーへ!」
立ち上がり様、入ってきたドアに駆けた。銃声が鳴り響く。
未央がいち早くドアに駆け寄ると、最初に通路で撃ってきた男たちを蹴散らした。
卯月が障壁を作りながら走るが、防ぎきれない。何発もの銃弾が卯月と未央の肉を削ぎ、血が飛び散った。
「逃がすな!」
小太りの怒鳴り声。ドアを開けると、外から鼓膜が破れるような炸裂音がして、ビルがぐらりと揺れた。
地面が大きく震動する。男たちの慌てる声が響く中、卯月たちは外に目がけて走った。
2回、3回と炸裂音がして、ビルの壁や柱が亀裂が走る。やがて、大きな音を立ててビルが1階から崩れ落ちた。
砂埃が舞い上がる。世界の終わりのように瓦礫を積み上げながら、ビルは瞬く間に倒壊した。
その様子を、卯月は仲間と一緒に見つめていた。力を使い切り、立つ気力もない。凛は無傷だが、卯月や未央は腕や足に多くの傷を負っていた。防弾チョッキのおかげで致命傷はないが、出血が多くて気持ちが悪い。
やがて音が収まると、ようやく凛が大きく息を吐いた。
「もう、大丈夫かな」
「たぶん……」
オン・ツーへ。卯月が叫んだのは、『IDたちは情報通り中にいた。作戦1は失敗したので、作戦2を発動せよ』という合図だった。
元々、ビルごと爆撃するという選択肢はあったのだ。ただ、確実性を期すために、潜入するという作戦を取った。
全員中にいるとわかったのであれば、もはや個別に殺す必要はない。卯月たちの手に負えないと判断したら、通信機を使って外にいるプロデューサーに連絡し、作戦2を発動してもらう。これも事前の計画通りだった。
「これでもう、ファンや他のアイドルたちが、脅かされることはなくなったのかな?」
未央が泣きそうな顔で言う。未央はIDに多くのファンを傷付けられ、引退を余儀なくされた経歴がある。卯月よりも遥かに思うところが多いはずだ。
「私たちもね。これで安心して眠れるよ」
凛が笑って、三人でぎゅっと抱き合った。
──甲高い銃声が2発、空気を痺れさせたのはその時だった。
小さな叫び声を上げて、未央の体が崩れ落ちる。
「えっ……?」
呆然と見下ろすと、未央が両脚から大量の血を流して倒れていた。真っ赤な血がどんどん広がり、卯月と凛の靴を浸す。すでに意識を失っており、小さな肩が痙攣していた。
卯月は頭の中が真っ白になり、何が起きたのか理解するのに時間がかかった。
「白兵戦で一番脅威なのは本田未央だ。だからこの順番で殺すことにした」
反射的に振り向くと、小太りが拳銃を握って立っていた。薄ら笑いを浮かべ、余裕の表情で近付いてくる。
「お前たちは強い。だけど、情報戦では俺の勝ちだ。仲間の仇を討たせてもらうよ」
小太りが見た目とはかけ離れたスピードで走ってきた。疲れて動けない卯月を置いて、凛が応じる。
1発、2発。凛の銃弾をかわして、小太りが一気に凛との距離を詰める。そして銃を持つ腕を掴むと、そのまま捻り上げた。
「い、痛い!」
凛が悲鳴を上げて銃を落とす。小太りはそのまま掴んだ腕を肩に乗せ、凛を背負って地面に叩き付けた。
ボキッと凛の細い右腕が痛ましい音を立て、凛は左手で肘を押さえてのた打ち回った。
そんな凛の髪の毛を掴み、無理やり立たせると、関節の砕けた右肘を強く掴んで自分の前に立たせた。
凛が獣のような叫び声を上げる。小太りはにやっといやらしい笑いを浮かべて卯月を見た。
「渋谷凛はあらゆる攻撃を弾く。ただ、ゼロ距離からの攻撃には対応できない。この順番でいい」
凛の脇から銃口を伸ばし、卯月に向けて発砲する。
卯月はそれを障壁を張って防ぎ、よろめいて立ち上がった。銃を構えると、小太りが虫の息の凛の体をしっかりと自分に密着させた。
「渋谷凛には銃は効かない。最強の盾だ。そしてお前は力を使うごとに消耗していく。俺の勝ちだな」
卯月は脇を締めてしっかりと銃を握った。凛が額に汗を浮かべて、辛そうな表情で卯月を見下ろす。呼吸が荒く、足ががくがくと震えている。
そんな凛の目を真っ直ぐ見つめて、卯月は言った。
「凛ちゃん。私を信じて」
小太りが笑った。
「信じろ? 今さらお前に何ができる? 安心しろ、三人まとめてあの世に送ってやる!」
小太りの銃が乾いた音を立てる。卯月の足もとで石が弾けた。
卯月がじっと見つめると、凛は苦しそうに喘ぎながら、それでもはっきりと頷いた。
渋谷凛には銃は効かない。それは正確ではない。凛は能力を解除できるし、寝ている時に撃たれれば死ぬ。
きっとそんなことは小太りもわかっていて、わかっていながらそういう言葉を使っただけだ。真意は別のところにある。
凛が前にいる以上、卯月は銃を撃てない。撃てば凛が死ぬ。凛を殺せば、卯月だけでも生き残ることができるかもしれないが、島村卯月はそんな選択はしない。
それは小太りが卯月を信じているからではなく、冷静な人間分析だった。実際、卯月は凛を殺してまで生き残りたいとは思わない。
情報戦は自分の勝ちだと小太りは言った。しかし、彼は一番重要な情報に辿り着けなかった。
島村卯月のもう一つの能力。生きてさえいれば、死なせはしない。
パンッと卯月の銃が空気を震わせた。
弾丸が凛の体に穴をあけ、そのまま小太りの命を貫いて地面に落ちた。
雲一つない青空を見上げ、卯月は大きく一つため息をついてから病院の門をくぐった。
こういう時代なので病院の数は増えている。この病院も、入院病棟を持つ大病院の一つである。
今ここに、凛と未央が入院している。時間をかければ完全に治すことはできたのだが、二人にはある程度医学的な治療も受けてもらうことにしたのだ。もちろん、卯月本人も同じで、ビルから逃げ出す時に負った傷の大半を、能力では治していない。
結局今回は、IDのボスと思われる小太りが、卯月の治癒能力を知らなかったおかげで勝つことができた。あの戦いのことは、知られるところには知られることだろう。その時、三人とも無傷なのは疑われる元である。この能力のことは、やはり伏せておいた方がいい。
最終的には能力で完治させるという前提で、二人にはしばらく入院してもらうことにした。痛い思いを我慢してもらうのは心苦しいが、怪我をしたら痛いのが普通なのだ。
もっとも、今日は二人に会いに来たわけではなかった。同じ病棟に、ゴトウが入院している。今日は彼の見舞いで来たのだ。
ゴトウが刺されたと知った日から今日まで、卯月は一度も彼とは会っていなかった。その時にはすでにIDを潰すつもりでいたので、巻き込まないようにするためだったが、それは言い訳だったのかもしれない。
IDがゴトウを殺さなかったのは、恨みを残すためだ。殺してしまえば、卯月が心に折り合いをつけてしまえば終わってしまう。しかし、生き残ってゴトウが卯月を恨み続ければ、それは卯月にとって一つの枷になる。
未央がIDに襲撃された時、やはり生き延びたファンはたくさんいた。未央はアイドルに復帰する時、どれほどの勇気を出したのだろう。本当に強い子だと思う。
病室のドアをノックすると、中からゴトウの声で「はい」という返事がした。暗い気持ちでドアを開けると、ゴトウは間抜け面で卯月を見て、しばらく固まった。そして慌てふためいて裏返った声を上げる。
「う、卯月ちゃん!」
「はい。お見舞いに来ました」
卯月はベッドの脇にあった椅子に腰かけ、改めてゴトウを見た。顔色は悪くないし、元気そうに見える。しかし、ぶら下がった点滴のパックを見ると、気持ちが消沈した。
「私のせいで、ごめんなさい。本当にごめんなさい」
深く頭を下げて謝ると、目頭が熱くなった。堪え切れずに涙が頬を伝って床に落ちる。ゴトウが慌てて手を振った。
「あっ、いや、別に卯月ちゃんのせいでは」
「私のせいです!」
泣きながらぴしゃりと言い放つと、ゴトウは一瞬ビクッと身をすくめてから、背筋を伸ばした。
開け放たれた窓から風が入り込み、白いレースのカーテンがふわりとなびく。
ゴトウがすっと手を伸ばし、恐る恐る卯月の頭を撫でた。
「アイドルを狙っている連中がいるのは知っていたし、前のライブの事件で、卯月ちゃんたちもそうなんだって、自分たちは知りました。それでも応援しようって決めたのは自分たちだから、卯月ちゃんは一人で抱え込まなくてもいいんだよ」
一度涙を拭うと、ゴトウは実に似合わない優しい眼差しで卯月を見つめていた。
しばらく見つめ合っていると、やがてゴトウは自分のしていることの大胆さに気が付いたのか、慌てて手を離して大袈裟に仰け反った。その反動で傷が疼いたのか、腹を押さえて背中を丸める。
相変わらず慌ただしい男だ。てっきり冷たくあしらわれると思っていた卯月は、すっかり気持ちが落ち着いて小さく笑った。ゴトウも笑顔を見せた。
「やっぱり卯月ちゃんは笑っている方が可愛いよ」
傷の具合を尋ねると、ゴトウは苦笑いを浮かべた。内臓をやられてしまい、あれからずっと食事ができない状態らしい。
一命は取り留めたが、予断を許す状況ではないようだ。
卯月は無言で布団を剥ぎ取った。病衣をまくり上げると、ゴトウが「あん」と変な声を出し、卯月は批難げに睨み付けた。
「変な声、出さないでください!」
「卯月ちゃんがいきなり脱がせるから!」
腹部に10センチ以上の長さの傷跡があり、赤黒く変色していた。ゴトウは傷を見られたせいか何なのか、真っ赤になって「あー」とか「うー」とか呻いている。
卯月は静かに一度天井を仰ぐと、意を決してそっと傷に手を当てた。
「ひゃっ! う、卯月ちゃん!?」
「お詫びに撫でてあげますね。おまじないです」
手から漏れる力が見られないように、そっとゴトウの胸元に頭を埋めて、傷口の周囲を撫でた。
もちろん、おまじないではない。卯月は力を流し込み、物が食べられる程度──しかし不自然ではないくらい、ほんのわずかに傷を治した。
「はい、おしまい」
体を放すと、ゴトウは陶然として、「もう死んでもいいです」とうわ言のように繰り返していた。せっかく治したのだから、できれば死なないでほしい。
「どうですか?」
「あー、卯月ちゃんの髪、いい匂いがしました。自分もう、死んでもいいです」
「そ、そうじゃなくて!」
「あー、ちょっと楽になった気がします。卯月ちゃんが触ってくれたから、自分もう、死んでもいいです」
「病は気からって言いますから、私のことを思い出して元気になってくださいね。きっと怪我も治りますよ!」
「はい。もう、色んなところが元気になりました。ありがとう。自分もう、死んでもいいです」
何やらよくわからないことを繰り返し呟いているゴトウを見て、卯月はくすっと笑った。
病室を出ると、すっかり心が晴れていることに気が付いた。
ファンが皆、ゴトウのように考えてくれるとは限らない。それでも、卯月の覚悟と信念についてきてくれる人もいる。未央のファンの中にも、今でも未央を応援してくれる人がいるかもしれない。
これからまた、IDのような連中が現れないとも限らない。
それでも、凛と未央、他のアイドルやファンのみんな、いつも支えてくれるプロデューサーや仲間たち。全員で力を合わせて戦えば、どんな困難だって乗り越えられる。
そしてきっとその先に、自分たちの求める世界が広がっている。
誰もが信じ合える世界を目指して──。
ニュージェネレーションズ・島村卯月の活動は、まだまだ始まったばかりである。
─ 完 ─