午後10時。
湖で真冬との1000年の時を超えた昔話を終えた黒刀は真冬と共に旅館に戻りエントランスで別れた。自室に戻った黒刀はさすがに疲労が溜まったのかすぐに布団の中に入って寝た。
30分後。
電子ロックがかかっている黒刀の部屋のドアが開いた。
黒刀のドアには4桁のパスワードを打ち込まなければ入ることは出来ない。
黒刀の場合はドアに手をかけた時点で指紋認証により入室できるが他の人はパスワードを打ち込む必要がある。
黒刀以外でパスワードを知っているとすれば身内である映姫ぐらいなのだが今黒刀の部屋に入ってきたのは映姫ではなくなんと早苗だった。
早苗は自力でパスワードを当てて入室したのだ。
黒刀は熟睡していて早苗に気づいていない。
殺気や敵意があれば軍人である黒刀は感知することが出来るが無論、早苗にそのような意思はない。早苗がここに来た目的はただ1つ。
「センパ~イ。」
早苗は小声で囁きながら布団の中に潜り込んだ。
嬉しそうに黒刀の右腕に抱きつく。
そう。
早苗は黒刀と添い寝をする為にここに来たのだ。
黒刀の右腕に抱きつく以上のアクションを起こさなかった。
早苗にとってはこうしているだけでも幸せと思えるからである。
しばらくそうして楽しんでいた早苗だったがやがて少し寂しげな顔になる。
「センパイ…意地悪です…あのパスワード『0606』…6月6日…私とセンパイが出会った日であり私とセンパイが恋人でなくなった日ですよね…。」
少しだけ涙が出た早苗だったがすぐに手で涙を拭う。
「(ダメダメ。センパイが言ってた。私には涙より笑顔が似合う。決めたんだ。センパイの前ではいつだって笑顔でいるんだって。)」
早苗は気持ちを引き締め直して黒刀の右腕に抱きついたまま目を閉じた。
…おやすみなさい…センパイ…
8月18日 バカンス2日目 午前7時。
鳥のさえずりが鳴り、黒刀はゆっくりと目を開けて目覚めた。
そのまま上半身を起こそうとすると右腕に柔らかな感触を感じた。
視線を向けると早苗が黒刀の右腕に抱きついて気持ちよさそうに眠っている。
さらに早苗が黒刀に抱きついていると早苗の豊満な胸が黒刀の右腕の肘に押し付けられている形となってしまう。
黒刀は苦笑する。
「全く困った眠り姫だな。」
それから黒刀は早苗を起こさないように苦戦しながら早苗の抱擁から抜け出した。
布団から出てテーブルの上に置いてある携帯端末を手に取ると不在着信が入っていることに気づいた。その送り主は八雲紫だった。
窓を開けてベランダに出てから窓を閉めると携帯端末でモニター通信ではなく音声通信に切り替えて紫に折り返し電話を入れてから耳を当てた。
コール音が3回聞こえたところで紫と通信が繋がった。
《随分なモーニングコールね》
不機嫌そうな声が聞こえた。
「先にかけてきたのはそっちだろ。」
《そうだったわね》
紫は機嫌を戻した。
「何か用があるからかけてきたんだろ?」
《ええ。黒刀、あなたロサンゼルスに行ってみる気はない?》
紫が突拍子もないことを言い出してきた。
「話が見えないな。」
《ごめん。ちゃんと説明するわ。実は今年の『剣舞祭』の観戦に来ていたVIPの中にロサンゼルスでオープンクラスのデュエル大会を開催している会社のスカウトマンが来ていたのよ》
「それで?」
黒刀は続きを促した。
《『剣舞祭』でのあなたの活躍を拝見してあなたをスカウトしたいという話を持ち掛けられたんだけどまだ高校生であるあなたを勉学を疎かにしてまでプロにする気はないって答えたらならせめて一度だけ大会に特別枠で出場して欲しいって言われたのよ…ごめんね。勝手に話を進めちゃって》
紫は申し訳なさそうに謝った。
「いや、そういう交渉事は学校側が行うのは当然のことだ。」
黒刀は紫を咎めなかった。
《ありがとう。それで今ちょっと私1人では判断できない段階まで来てるから。あなたの答えを聞きたくてね》
「期間は?」
《8月25日~9月3日までの10日間》
「…少し考えさせてくれ。」
《分かったわ》
紫は通信を切った。
黒刀は携帯端末をポケットにしまうとベランダの手すりに肘を置いて考える。
アメリカのロサンゼルスで開催されるオープンクラスのデュエル大会はかなり有名でサイトにも取り上げられるほどだ。
年齢制限はないがハイレベルな試合の為、出場選手は20歳以上しかいない。
その中で黒刀が出場するとなれば最年少出場となる。
このまたとないチャンスに黒刀は迷っていた。
大会に出ている間は休学状態になりそうなってしまえばランキングは1位からランク外に転落してしまう。
それは頂点から下りることを意味する。
しかしロサンゼルスの大会に出場すれば実力を上げる機会が与えられる。
難関の2択に黒刀は迷い考え込んでいた。
なので当然の部屋の中で何か起きても気づかない。
黒刀がベランダにいた頃、早苗がようやく目を覚ました。
体を起こすと同時にドアからノックの音が聞こえる。
布団から出て立ち上がるとドアの方へ歩いた。
廊下に立ってドアをノックしたのは真冬だった。
「黒刀君、起きてる~?」
返事がない。
試しにもう一度ノックしようとしたその時。
ドアが内側から開けられた。
「あ、黒刀君!おはよ…」
笑顔で挨拶しようとした真冬だったが中から姿を現した早苗を見て絶句した。
「何だ…あなたですか…。」
早苗が呆れた声を出す。
それを聞いた真冬が我を取り戻す。
「な、何であなたがここにいるのよ!」
真冬は声を張り上げた。
まるで愛人との浮気現場を目撃してしまった妻のようにも見える光景だった。
何より真冬が驚いたのは早苗が黒刀の部屋にいたことよりその服装だった。
早苗が着ているのは浴衣やパジャマではなく大胆なネグリジェだった。
しかもスタイルがいい早苗が着ると色気倍増である。
騒ぎを聞きつけた妖夢、霊夢、魔理沙、天子、諏訪子、丸山、光の7人が黒刀の部屋の前に集まってきた。
「どうしたんですか?」
妖夢が事情を聞く。
「この女が黒刀君の部屋にいたのよ!」
真冬が早苗を指差した。
「私はセンパイと添い寝をしていただけです。」
早苗はあっさり暴露した。
「なっ!」
真冬が驚き、他の皆は今更ながら早苗の際どいネグリジェ姿に驚いた。
早苗は勝ち誇った笑みを浮かべる。
霊夢と魔理沙は関わりたくないと決めてこの場を去った。
妖夢はあたふたするばかりでどうしていいか分からないようだ。
「と、とりあえず真冬さん。お、落ち着きましょう。」
丸山が真冬をなだめようとするが丸山自身が落ち着いていない。
「これが落ち着いていられますか!」
「光さんも何か言って下さいよ~。」
困り果てた丸山が光に助けを求める。
「ん~いや無理でしょ。」
だが呆気なく断られる。
「そんな~!」
「まあ、私と光は黒刀に桃まんを朝食に作ってもらおうと来ただけだしね。」
「うん、そう。」
天子の言葉に光が相槌を打つ。
「そんな理由⁉」
千歳が驚く。
そうしている間にも早苗と真冬の争いは激化していき急展開を迎えた。
「通してもらえないかしら。私は黒刀君に用があるの。」
「ダメです。私が先約していますから。」
「そう…なら力づくで押し通るしかないわね。」
真冬から冷気が溢れ出す。
「望むところです。」
早苗も霊符を取り出す。
「さすがにこれはやばいかもしれないですね諏訪子先生。」
天子が隣を見るが諏訪子の姿がいつの間にか消えている。
「あれ?」
天子は首を傾げた。
黒刀はまだ考え込んでいた。
「何をそんなに悩んでいるのかな?」
横から諏訪子に声をかけられた。
諏訪子が『抜き足』を使えることを知っている黒刀は大して驚かなかった。
「あなたには関係ないことですよ。」
「あ、そう。」
諏訪子は軽くあしらわれたことに気にしていないように返す、
「あれ止めた方がいいんじゃない。」
諏訪子がドアの方を指差す。
その先では早苗と真冬が一触即発の状態となっていた。
「ああ…心配することないよ。」
黒刀は介入する気を出さなかった。
「いいの?」
「俺が手を出す必要はない。」
黒刀がそう口にしたその時。
早苗と真冬が突如現れた影に巻き付かれた。
「「え?」」
2人が呆気に取られていると廊下の向こう側から姿を現したのは笑顔のまま怒っている映姫だった。
2人が映姫を捉えた瞬間、絶句した。
「全く…あなたたちは旅館で何を騒いでいるのですか?」
笑顔のままそう口にした。
中学の頃から映姫の恐ろしさを知っている早苗と真冬は何も言えなかった。
「とにかく私の部屋でお説教です。」
笑顔から真顔に変わる映姫。
「はい…。」
2人はそう返すしかなかった。
映姫が立ち去った事を確認した黒刀はドアから顔を出した。
「ん?どうした妖夢?」
「…凄く…怖かったです…。」
「(こりゃ…トラウマになりそうだな。)」
諏訪子はいつの間にかどこかへ行ってしまった。
まさに神出鬼没だ。
その後、天子と光に桃まんをリクエストされたので2個ずつ作ってあげた。
黒刀も妖夢と一緒に朝食を食べ終えた後、自室に戻ろうとする。
「黒刀、ちょっといい?」
椛に呼び止められた。
「何だ?」
「あなた忘れてるでしょ?」
「何が?」
「何って…前に約束したでしょ!夏休みの課題手伝ってくれるって!」
椛は怒った。
「………そうだっけ?」
ところが黒刀は首を傾げた。
「した!『剣舞祭』の本選前の合宿の時に!」
「…ああ、あれか…すっかり忘れてた。」
「あなたね~。」
椛が肩をプルプルと震わせる。
「しょうがないだろ。ここ最近、色々なことがあり過ぎたんだから。まあ、悪かったよ。この後は特に予定はないし手伝ってやるよ。」
「すっぽかした分際で何でそんな上から目線なのよ。」
椛はジト目を向ける。
5秒程、黒刀を睨みつけていたがそんなことをしても何も意味がないことに気づく。
「じゃあ残ってる課題手伝ってね。」
「分かった。それで何が残ってるんだ?」
黒刀が訊くと椛は目を逸らして呟く。
「…理科と数学。」
「椛…お前…。」
黒刀は呆れた目を椛に向ける。
「理数系は苦手なの!しょうがないでしょ!」
椛が急にキレた。
「あ~はいはい。もう分かったからそれでどっちの部屋でやる?」
「そっちの部屋でいいわよ。」
椛は落ち着きを取り戻したのか簡潔に答えた。
午前9時 黒刀の部屋。
課題は1時間で全て終わったので椛は自分の部屋に戻ってから外に遊びに行った。
黒刀は横になって再びロサンゼルスに行くかどうか考え始めた。
「(黒刀、うぬの選択肢は山の頂上に君臨し続けるかそこから大空へ飛び立つかの2つに1つだ。大事なのはうぬがこれからどうなりたいかだ。)」
心の中でザナドゥ卿が語り掛けてきて、それだけ伝えて黙った。
それだけの言葉で黒刀の心を決めるには十分だ。
黒刀は跳ね起きて布団を押し入れにしまうと窓の外に顔を向ける。
「決めたよ王様。これから俺が進むべき道を。」
黒刀の顔から迷いは晴れていた。
この時、妖夢は黒刀の決断を知る由もなかったのであった。
ED7 DOG DAYS′ 夏の約束
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