その日、
「よろしくお願いします」
そう言った彼は確かクラスメイトであり、雫の記憶では名は保科萌樹だったはずだ。
「こちらこそよろしくお願いいたします」
そう告げ雫が竹刀を構えると萌樹も竹刀を構えた。そしてその瞬間、
「っ……」
萌樹の纏っていたどこか春を思わせるような優しく、穏やかな雰囲気はがらりと変わり、暴力的で威圧感のあふれた恐ろしいナニカが肌を突き刺した。その変貌に、発する圧力に雫は一瞬気圧され、たじろいでしまった。また、その得体の知れなさからか、いつの間にかに手汗が湧き竹刀を握る手にはより力が入っていた。
「始め」
雫の父である
貰った!萌樹が急な打ち込みに反応出来ていなかったので、雫はそう確信した。いや確信してしまった。しかし、萌樹はその面を雫の振るった竹刀の動きに目もくれず、まるでそこに打ち込まれることが最初から分かっていたかのように防がれてしまった。そして雫が呆然としている間に喉に突きを放ってきた。
「止め。…一本」
その突きを呆けていた雫が防げるはずもなく呆気なく一本目を取られてしまった。雫は気を引き締め直し位置についた。
「始め」
萌樹の出方を窺いながら慎重に雫は攻撃を仕掛けていった。しかし剣道が初めてであると言っていたはずの彼はその悉くを軽くいなし、鋭い振りを流れるように放つ。
「本当になんなのよ…」と雫は小さく呟いた。
本来剣道では有効打突はなかなか決まらない。それはまっすぐに放ったか、きちんと振り切ったか、打ち込んだ後も気を緩めていないかなど細かく判定されるからである。そのため、初心者が適当に放ち当たったとしても一本には数えられない。それを目の前の萌樹は一発でやってのけ、その後の攻撃を防ぎカウンターすら行っている。しかも齢四歳で才能の片鱗を見せ、他を犠牲にしてまで鍛錬を行ってきた雫に対してである。それがどれほど異常なことであるか、それを正しく理解しているがゆえに雫の焦りはより大きいものとなっていく。焦りからか雫の動きからは精彩さが失われていく。その一方で、雫の攻撃を止め、虎視眈々と隙を狙ってくる萌樹の動きはまさしく熟練者のそれだ。その気にさえなれば激しい攻撃で容易く勝つことが出来るであるだろうに最小限の行動にとどめつつ、勝ちを狙っているのは余裕の表れなのだろうか。
「っつ…」
今も雫が苦し紛れに打ち込まなければ萌樹は確実に有効打突を決めていただろう。その天賦の才と評するに値する萌樹の腕を雫は認めたくなかった。仮にそれを認めてしまえば自身が剣道の為に他を捨ててきたことが無意味であったと認めることになるからだ。激しく攻めたて大きく疲労している雫と反対に息ひとつ乱していない萌樹ではどちらが優勢であるか誰の目にも明らかであった。しかしそれでも雫は認める訳にはいかなかった。
「破ぁっっっ!」
大きな声とともに雫は萌樹に挑みかかるが剣先で逸らされ、隙だらけの胴にお返しとでもいわんばかりの大振りの一撃がささる。
「止め。勝者、保科萌樹」
虎一が静かに勝敗を告げる声も雫には届いていなかった。
―*―*―*―*―*―*―*―
虎一と萌樹による静かでいて、しかし苛烈でもある水面下で行われる読み合いの間も雫は呆然としたままであった。それもそのはず、自身の今まで積み上げてきたものを相手は才能と感性の暴力で蟻でも潰すかのように容易く踏みにじってきたのである。しかもその相手は現在も自身の父と互角の戦いを繰り広げている。そして間合いの取り方、攻撃の受け方、切り返し方、攻め方、そのどれをとっても一流で、とてもではないが一朝一夕に出来ることではないものをついさっき剣道というものに初めて触れたはずの萌樹が見せつけてきているのである。
そんなの、認められない。雫は強くそう思った。そして審判をしていた門下生が試合の終了を告げる。結果は時間制限による引き分け。虎一の興奮気味の声が道場に響き渡る。
「萌樹!凄いな!お前には相当な才能があるぞ!だからぜひ、うちにたまに寄ってくれよ。」
それは昔、雫が才能を祖父に見せたときに掛けられた、雫が竹刀を握る
「そこまでのものじゃあないですよ。でも楽しかったのでまた顔を出してもいいですか?」
認められない。認められない。
「もちろんその時には歓迎――」
「保科君!」
気が付くと雫は萌樹に対し呼びかけていた。
「ねえ、あなたは剣道が初めてだと言ったそうよね。それは嘘でしょ?いったいいつからやっていたの?なんでそんな嘘をついたの?ねえ?どうして?」
「いや、僕は本当に今日初めて剣道をしたよ」
そう言い明るく笑う萌樹に雫は我慢ならなかった。雫は萌樹に詰め寄り胸倉をつかみさらに問い詰める。
「なんでそんなに簡単にばれる嘘をつくの?あんな動きはそんなに簡単には出来ないわよ、そこまで言いたくない何かがあるの?ねえ?答えてよ」
雫は萌樹をつかんだ右手でその体を揺らすが華奢な見た目通りまるで女の子のようであるかのように軽い。そのことが雫の怒りを加速させ握る右手により力が加わる。
「雫。もうやめなさい」
虎一から制止の声がかかる。雫はキッと萌樹をきつく睨むとその場から立ち去った。
「萌樹君。先程は娘が失礼したね。後できつく言っておくからどうか勘弁してほしい」
「いえいえ。気にしていないので大丈夫ですよ虎一さん。それでまた来た時にはぜひ一戦お願いします」
「それはこちらこそよろしく頼む」
そういい二人は握手を交わし、萌樹は帰路についたのだった。
書き溜めはないので牛歩更新になるかもしれませんがご容赦ください。