俺は、絶望の淵に立たされていた。全身からは汗が止まらず、乾いた口から漏れるのは乾いた息だけ。どんなに頭を巡らせても、このままでは俺に待つ未来は「死」だけだという結論しか出ない。
何故なら……エアコンが壊れたからだ。
「嘘だろ……」
なんでこうなるの……。深夜の一人ゲーム大会が終わり、これから寝ようと思った時に、どこと無く蒸し暑さを感じ、クーラーを見上げると止まってた。それを視認した直後、暑さを一気に体感し、慌てて窓を開けて現在に至るわけだ。
どうする、修理を呼ぶか? いや、終わるまで待っている間、生きていられる保証はない。買いに行くか……いや、金がない。楓への一万円、楓と三船さんとの飲み代と、先月の後半は給料日の直後に予定外の出費が多かった。これから楓と関わるとして、もっと金もかかるだろう。
しかし、これから先、エアコン無しの生活は無理だ。それはそれで死ぬ。
「……勝負に出るか」
やりたくないが仕方ない。熱中症で死ぬのは嫌だ。
待機時間は死ぬほど暑いが、扇風機もあるし2〜3時間程度なら平気だろう。そう思い、修理を頼むことにした。
×××
まさかの明日じゃないと向こうの都合がつかないというね。やはりこの季節、修理の依頼は多数あるようで、むしろ明日取れたのは奇跡感があった。
そんなわけで、出掛けることにした。扇風機じゃ乗り切れない自信があったので、最悪、ネカフェで一泊することも頭に入れて。
とりあえずコンビニに行って涼んでいると、スマホが震え出した。
高垣楓『遊びに行って良いですか?』
……そういやそんな今週、喧嘩して三船さんに迷惑かけた時、話してたな。まさか本当に休日にわざわざ喧嘩売りに来るとは。まぁ、そっちがその気なら乗ってやろうぞ。
加賀山樹『かかって来いやコラ』
高垣楓『では、今から伺いますね』
え、うちに来る気? それはオススメできない。
加賀山樹『うちは無理だよ。クーラー壊れたから』
加賀山樹『俺も今外にいるし』
高垣楓『では、久しぶりにデートしますか?』
……こいつ、ホントどういう神経して……いや、言葉の裏を読め。男と女でデート、一見は何の矛盾もないが、海外の映画では決闘を意味する事だってあるだろ。今回の場合はそっちだろ。楓は俺のこと嫌いだし。
加賀山樹『何処で? 土手?』
高垣楓『決闘じゃないんですから』
高垣楓『とりあえず合流しましょう。この前のスタバで』
あれ? 決闘じゃないって事は……これ、普通にデートなのか? ……あれ?
×××
とりあえずスタバに顔を出すと、楓は既に待機していた。周りに三船さんの姿はない。マジで一対一だ。
「よう」
「こんにちは」
アイスコーヒーだけ買って合流した。ちなみに砂糖が入ってないと飲めない。
「で、何すんの?」
「そういうのは男の子が決めることでは?」
「呼び出しといてお前……‥つーか何。マジでデートなのこれ?」
「ふふ、やっぱりデートだと思ってくれてるんですか?」
「お前が言い出したんだけどな」
何その駆け引きみたいな言い方。お互い、何を考えてるのか分からないから、その手の駆け引きをした所でどうにもならないと思うよ。てか、何を探り合うための駆け引きなわけ?
‥……いや。まぁ俺としては楓がどういうつもりなのか知れるだけでも少し嬉しかったりするけど……。あ、いや嬉しいというか別にそれは好意的な意味を持たれていると確信しているわけではなく仮に嫌われていて現状はただからかわれていただけだとしても変な希望を持たずに済むという意味で深い意味はないが。
頭の中で自分を正当化させる理由を並べていると、楓は何もかも見透かしたような笑顔を浮かべて本題に入った。
「実は、樹くんと行きたい場所があるんです」
「は? お……俺と?」
「そうですよ?」
わざわざ名指して……いや、落ち着け。いつものパターンだ。ていうか、久しぶりのデートに舞い上がってんな俺。落ち着けよ。大体、向こうはデートのつもりがあるかも分からんのだし。
「……何処?」
一応、聞いてみると、楓は微笑みながら答えた。
「はい。居酒屋です。昼から飲み比べしましょう♪」
……俺の理性センサーは正しかった。それどころか、まさか本当に喧嘩を売られるとはな……。や、でもさぁ。やっぱ期待しちゃうじゃん。元カノに俺を名指しで「行きたい場所がある」なんて言われりゃ……これはもう、勘違いしかしない。
なんか、関係なく無性に飲みたい気分になって来たな。
「良いだろう。‥‥その代わり、後悔するなよ」
「ふふ、お手柔らかに」
ぜってー潰す。
×××
潰してどうする……‥と、俺は全力で後悔していた。目の前では、楓が酔っ払って気持ち良くなってしまっているのか、ニコニコと微笑んでいる。
「ふふふ、
「おい、やめろ。液体を振り回すんじゃない。勿体無い」
グラスを持ち上げた楓を慌てて止める。こいつ、ホント酔っ払うと始末に負えない。
と思ったら、楓は俺の頬に手を当て、顔を近づけてくる。一瞬、キスされるのかと思ったが、楓はすぐにニヤリと微笑んだ。
「今、ドキッとしたでしょう?」
「……してねーよ」
「バレバレですよ? 樹くん、酔った私も好きでしたもんね?」
「うるせーからほんと」
‥‥違うんだよ。だってホラ……楓って顔だけはクールで大人びててとても美人じゃん。そんな子が不可抗力で頬を赤らめてると、例え笑顔でも照れているように見えるでしょう? まぁ、その後はすぐにアホアホしい笑顔になられて落胆するんだが。
「学生時代は、わざと酔わせてくれた事もありましたね?」
「やめろって本当……あれは若さ故の過ちというか……」
「付き合ってからは、お尻も触られたことありますね」
「さ、触ってねーし! 当たっちゃっただけだし!」
こいつ、なんで前は言わなかった事を今言うんだよ⁉︎ クソ……やっぱこいつと飲むのは骨が折れる。主な精神が。
「……とにかく楓、もう帰るぞ」
「嫌でーす。まだ飲みまーす」
「ダメだ。お前、それ以上飲んだらヤバいだろ」
「だって……樹くん、まだ酔ってないでしょう?」
俺を酔わせるのは無理だぞ。いや、正確に言えば千鳥足になるくらい酔わせるのは無理、と言う方が良いか。だって実際、酔っぱらったことなんかないし。
「それは諦めろ。家まで送ってやるから」
「むー……」
はぁ……26にもなって飲み比べなんてするもんじゃないな……。
とりあえず、会計を済まそうと思って席を立ち、楓に肩を貸そうと手を差し出した。しかし、楓は頬を膨らませてそっぽを向いてしまう。
「いやでーす」
「や、だから……」
「おんぶじゃなきゃヤでーす」
‥……ええ。いや、まぁ良いか。
小さくため息をついて、楓を背中に乗せた。……やはり、身長の割に胸は成長していないな。柔らかいけど物足りない感じ……。
「ぐえええっ! ぃっ……ぃまってるいまってる! 喉がぃっ……じまっでる……!」
「いま『しんちょーの割に胸はない』っておもったでしょう?」
「思ったよ!」
「そんなにおっきいのが良いんでしゅか?」
「当たり前だろ!」
クソッ……否定しなきゃいけないはずなのに、口が勝手に答えちまう……!
おかげで、首を締める力はどんどんと強くなっていった。
「……わるかったでふね、ちいさくて……」
「ぎ、ギヴギヴギヴ……! 俺が悪かったから勘弁してくれ……!」
なんとか謝り倒すと、ようやく手を離してくれた。ェホッエホッ……と、咳き込みながら、楓の荷物を持つ。背中には楓を背負い、片手には楓の荷物を持つとか……ホント、俺どういう状況?
自分の荷物は必要以上に持ってこなかった事にホッとしつつ、楓を背負ったまま会計を済ませて帰宅し始めた。
外はまだ夜の8時過ぎ。こんな時間にこんな風にベロンベロンになる奴はそういないだろう。背中にいる楓を背負いながら、若干、柔らかい感触を楽しみつつ街を歩く。
「ふふふ、機動戦士イツキ、しゅっつどーう!」
「カガヤマ、いっきまーす! ……じゃねぇ。走らせんな、ただでさえ重いのに」
「締め殺せば良いんですか?」
「うおっととても楓から出たとは思えない台詞。しかし勘弁して下さい下さい本当に苦しいの苦手なんだから」
‥……特にこのクソ暑い中じゃ尚更な……。俺の体力じゃ長時間は無理だが……こういう時に限ってタクシーは見つからない。でも、楓を落とすわけにもいかないしな……。
「……ふふ、いつきくん……」
「何?」
「なつかしいですね……むかひは2人でのみにいってゃら、毎回こうしておんぶしてすれましたね……」
「潰れるまで飲むなよ毎回……」
「あいかわらず、にぶいですね……」
何がよ。
「……わたひは、わざとつぶれてたんですよ……? おんぶ、してほしくて……」
「……はぁ?」
俺の背中に頬ずりをしながらそんなカミングアウトをされた。え……だから何よ急に……。かわい過ぎて思わず捻くれたような返事をしてしまった。
「……いつきくんは……どんなによってても、つかれてても……ぜったいに、わたしを落としたりしませんでひたね……」
「……そりゃな」
「……もやしの、くせに……」
「それは余計だろ」
そんな話をしつつ、俺も懐かしさを感じていた。この疲労感や肉体労働感は、かなり懐かしい。はっきり言って俺には合っていないが、それでも楓のためなら悪くないと思えてしまう。
この感覚は、まさしく久しぶりだ。この肉体労働は久しぶりな上に、学生時代より衰えた身体では厳しいけど、それでもこの両腕の力を抜くつもりはない。
「……ふふ、細いのに大きいせなか……なにも、かわってませんね……」
「脂肪は少し増えたけどな」
「……良いんです……。わたしは、この背中が……大……」
そこで、楓の台詞は途切れた。かわりに聞こえてくるのは「くかー」という品のないいびきだけだ。相変わらず、寝顔の割に可愛くない寝息だ。や、寝息ではないか。
楓の部屋に到着し、玄関を開ける。電気をつける前に、まずは楓をベッドに寝かせてやった。
さて、また前と同じ方法で帰るか。そう思った時だ。ぐいっと袖を引っ張られた。
「……」
「起きてんの?」
「……今起きました」
しまった、もっとゆっくり寝かせてやるべきだったか。
少し反省していると、楓が眠そうな表情のままとんでもない事を告げた。
「今日は、泊まって行っても良いですよ?」
「は?」
「だって、クーラー壊れているんでしょう? 大丈夫です、私は明日もお休みですから」
「そりゃ俺もだが……や、でもまずいでしょ」
俺だって少しは酔ってるし、何しでかすか分からんぞ。
しかし、楓はそんな俺の事情など知った事ないと言わんばかりに強く袖を握る。その瞳は、心なしか潤んでいるように見えた。
「でも……樹くんに帰られたら‥‥私、私……」
え……ちょっ、何その顔。え? 待って……何その潤んだ瞳とほんのり赤らめた頬。両方とも酔っ払いの特徴ではあるが、それ以外の何か……別の意味も含まれているような……。
そんな俺の思考は、うぶっという情けない吐息と共に、唐突に両頬を膨らませた楓の顔によって遮られた。
「……さみしぼろろろろろ……」
咄嗟の判断、まさに身勝手の極意と呼べる反射神経によって、楓の胃の中をぶちまける洪水を両手でキャッチした。言っておくが、俺にこの手のご褒美属性はない。美少女のものであっても、吐瀉は吐瀉だ。
そのまま楓は枕に頭を埋めてぶっ倒れる。肩からは少しヨダレが垂れていた。
……こりゃ確かに帰れんわ。まずは両手のものの処理、そして楓の口元を掃除。今後、嘔吐の可能性を考慮してエチケット袋の作成……考えるだけで頭が痛い。同じく学生時代の時の懐かしみを感じたが、こっちは別に悪くないって事はないわ。
「……はぁ」
とりあえず、両手のほかほかな物を片付けるため、トイレに向かった。今日はここで泊まりの上に一睡も出来なさそうだな。
×××
夜中、ようやく色々と片付けを終えた俺は、居間のソファーに腰を下ろした。改めて、楓の部屋でこうしてゆっくりするのは久しぶりだが……‥正直、疲れの方が大きい。
一息ついていると、スマホが震えた。母親からだ。
「……え、マジ?」
その内容を見て、俺の口から思わずそんな声が漏れた。