本来であれば、早朝から空白の数十年間を埋める作業を始めるつもりでいた。早ければ早いほどよいものだが、この身が演ずる学生という身分が作業遂行を許さなかった。ベンチで過ごした虚脱の時間が思っていたよりも長く、また施設への足取りが重かったばかりに、当初の想定よりも時間を費やしてしまっていたのだ。
やっとのことで入口にたどり着き、篠ノ之と共に施設へと足を踏み入れた。すぐ図書室へと直行を試みたが、彼女の強い反対にあって、数時間延期せねばならなかった。
篠ノ之曰く、
「転入二日目からサボるのはどうかと思うぞ。専用機持ちがそれをやるのはちょっと……」
伏し目がちに顔を背けられてはどうしようもなかった。
彼女の態度、継いだ言葉『専用機搭乗者は
おおかた、出自も知れぬ学者や知識人どもが張り子の巨塔から下々に向けて、ISなる機械が「すごいものだ。最高の兵器だ」と宣言し続けてきたのであろう。
「……私が軽率だった。授業に出よう」
そう言った途端、正面を向いた篠ノ之の表情が華やいだのだ。娘みたいな年齢の少女が嬉しげに相好を崩している。彼女のほうが背が高かったために、手を繋がれて、教室のすぐ側まで共に歩いてしまった。
気恥ずかしさで胸がいっぱいになっており、『一年一組』の札を見てようやく我に返った。
「手を離してくれ。さすがに、恥ずかしい」
彼女がこちらを妹のように感じているのではあるまいか。疑念が募る。
しかし、篠ノ之自身も自覚があったらしい。こちらのふくれっ面を見るや、手を離してしどろもどろになって言い訳した。
「少し前に住んでた土地の近くに、剣道場があったんだ。児童向けのな。女子小学生の引率とか結構やってたんだ。すまん! ボーデヴィッヒが幼いなどというわけでは、決して、ないぞっ」
「ふむ。私が女子児童に等しいから手を繋いだ。同胞であるあなたはそう見ていると」
「ちょっと待て、同胞? ……そんな目で見るな……違うんだ。ボーデヴィッヒは同級生だろう。児童ではないっ」
「児童ならば手を繋ぎ、児童でなくとも手を繋ぐと? なぜ?」
「そ、それは……近所の生徒は可愛かったんだ……待てよ……そんな、私は……そんなつもりでは……」
そのまま思考の迷宮の深みにはまる篠ノ之を眺める。復活の兆しがないのでいじめすぎたと思い、教室へ入るよう口を開きかけた。
「立ち話はそろ……」
「何やってんだ。箒と……えぇと」
教卓の真正面の席に座る男子学生だ。篠ノ之と同じく黒髪である。
面立ちが織斑と似ており、絵に描いたように整った顎を持っている。……とはいえ、東洋での男子の美醜の基準がいまいちよく分かっていなかった。フォン・リッベントロップのように容貌だけの俗物がいたので、この男子学生が彼のようにならないことを願った。
「
よろしく、と握手を求める。
「あぁ、よろしく。織斑一夏だ」
お互いに手を離す。
篠ノ之に向き直り、何度も瞬きする彼女を導く。
「入口では通行の邪魔になる」
「……そ、そうか」
席に着き、朝礼の時間になる。織斑と山田参謀が一緒に教室へ入ってきた。挨拶が終わり、全員が席へ着くのを見計らって、織斑が声をあげた。
「以前から周知していたように、今月下旬に学年別トーナメントがある。
今年は、実験的に、二人一組でのタッグマッチで執り行う。
例年、期間後半になると時間が押してしまい、ナイター強行になるなど問題があって、改善を求められてきたからだ。
具体的な日程は後日発表するが、まず、お前たちにやってほしいのは、
メールするということは、つまり、
仕組みが機能し始めたことで、どうしても気持ちが軽やかになる。
「何か質問は?」
織斑が学生たちをぐるりと見回す。
「では、わたくしが」
セシリア・オルコット嬢が挙手する。
「オルコット。発言を許す」
「手を組む相手はこのクラス内の誰か限定でしょうか。他の組……たとえば、二組の誰かとタッグを組むのは許されますの?」
「今回に限り、相手が同学年であれば認められる。隣の凰と組んでも良いし、四組の更識と組んでもよい」
教室中が一時的に騒然となった。
しかし、少女たちが騒ぎ出したことに驚きこそすれ、思考を停止してしまうということにはならなかった。
周囲は大混乱の様相を呈している。織斑が手を叩いて静まるように声をあげていた。
なかなか混乱がおさまらなかった。混乱する要素を見いだせなかったために、その間、昼休みの計画を頭の中で構築することに躍起になった。
……手早く昼食を済ませ、図書室へ向かう。司書に手頃な歴史書を用意させる。司書たちが仕事に没頭する間、新・総統官邸に届いたメールを確認する……。
素晴らしい考えに思えた。実際、空白の数十年間を調べることのほうが気になって、額に手を当て、うつむきがちになっていた。授業に身が入らなかったのだが、ある言葉を耳にして、意識が急に現実へ返り咲いた。
山田参謀が四限目の終わりにこう言った。
「日曜日までにレポートを提出してください。最低でもA4用紙一枚以上。
題材は今回のタッグマッチについて。IS運用時や整備時にどんな問題が起こりうるか。何でも良いので書いて提出してください。
提出形式は手書きか印刷。時間が無ければデータでも良いです。くれぐれも他人が書いたレポートをコピペしないよう、早めに書いて出してくださいね」
「やまやせんせー。日本語じゃなきゃダメですかー?」
誰かが声をあげた。
「もちろん英語でも大丈夫ですよ。私は英語やフランス語ならわかります。織斑先生はドイツやイタリア語、スペイン語なんかも大丈夫ですから、無理して日本語にこだわる必要はありません」
「わっかりましたー。クリンゴン語で書きまーす!」
クリンゴン語? 知らない言葉だった。
予鈴が鳴り、昼休みになった。退室した山田参謀の後を追う。
彼女に質問せねばならなかったからだ。
「
階段を降る前に呼び止める。
食堂で移動する者で騒がしくなっていたが、山田参謀はこちらの声に気づいて足を止める。
眼鏡の位置を指の腹で直している彼女に向かって、たたみかけるように伝えた。
「レポートを提出するにあたって、用紙をどこで入手すればよいか」
なぜなら、『ラウラ・ボーデヴィッヒ』なる少女の持ち物のなかに、筆記具の類いが存在しなかったからだ。ベッド下のカバンのなかに、織斑の机にあったような計算機と黒い画面の四角い機械もあったが、暗証番号がわからなかったために起動すらできなかった。
加えて、現在の物価を掴めておらず、店の場所も把握していない。食堂と同様の方法で支払いができればよいのだが、そうではなく現金払いとなると支払いが困難になる。
総統官邸にいた頃はボルマンを使いとして差し向ければ事足りたが、数十年後でかつ地球の裏側では頼ることもできない。
「レポート用紙でしたら購買に売ってますよ。購買は食堂の手前の階段を降りた場所にあります」
「筆記具は……」
「書くものも購買に何種類かあります。図書室の閉館時間までは開いてますよ」
「ありがとう、
礼を言って、山田参謀と別れる。早足で食堂に向かい、考える手間を惜しみ、昨日と同じ定食を頼んだ。
ひとりで食事を摂った。だが、ひとりでかえってよかった。目的がはっきりしているからだ。目下の問題を解決するには、自分一人で行動しなけければならない。この問題は極めて個人的且つ不条理な理由によって発生していた。
運命の道の第一歩は――図書室へ行くことだった。
支払いを済ませ、持参してきた袋を片手に決然した面持ちで、昨日世話になった図書室へと足を踏み入れた。
パソコンではなくカウンターへ直行する。静謐とした佇まいの司書に声を掛けた。
「
司書の女性は何度も目を瞬かせた。左右に見やったあと、口をつぐんだまま首だけこちらへ向ける。自分を指さしたので頷いてみせると、照れ交じりにはにかんだ。
近づきながら司書の手元に目を落とす。十冊まで二週間貸出可能だ。
「一九四五年以降のヨーロッパについて八冊、ISに関する入門書を二冊ほど揃えてもらいたい」
「かしこまりました。あの、ヨーロッパの本はドイツ語版を?」
「可能なら。なければ英語版で頼む」
「ジャンルは? 著者の希望は?」
「戦争と政治、外交に関する本。著者は指定しない。おすすめのものがあれば集めてもらいたい」
「希望は戦争・政治・外交。ISはどうします? 課題用ですよね」
司書がカタカタ、と軽快に打鍵していく。
「イラストや写真が多いのが良い。一冊はできるかぎり平易な初学者向け書籍だ。もう一冊は歴史を俯瞰できるような本がいい」
「ISのほうは、日本語版か英語版になってしまいますが……」
「問題ない。今の知識では、とにかく絵があることが最も重要だ」
「なるほど。了解しました。集めるまでに少々お時間を頂きます。よろしいでしょうか?」
「いつまでに揃えられる?」
司書が真剣な面持ちで考え込む。手元の画面を一瞥し、すぐにこちらを向いて言った。
「最低でも三十分ほどいただくことになるかと」
「素晴らしい。……が、終礼のあと、用事がある。閉館時間直前に伺うことになるだろう」
「取り置きますから大丈夫ですよ。本人確認のため
懐から写真入り
「ラウラ・ボーデヴィッヒさん、ですね。かしこまりました。受け取りの際、もう一度本人確認をします。忘れずにカードを持参してください」
「ありがとう」
「それでは、お待ちしております」
二、三歩進んでから立ち止まった。
時計を見やる。メールの確認とレポート用紙の入手にかかる時間を天秤にかけた。
――購買なる場所を把握するのが先決だ。
踵を返して図書館をあとにした。山田参謀に教えてもらった場所へ早足で向かい、総ガラス張りの一室の前で立ち尽くした。
ガラスの向こうには、多色刷りの冊子の背表紙が並んでいる。
ナチスの機関紙である『民族の観察者』紙や『突撃兵』紙を探したが、国が違うためか、やはり無かった。
入口を探したが、取っ手が見当たらない。出入りする者がいれば分かるのだが、人気がないこともあり、冊子を手に取っている学生もその場から動く気配がなかった。
「すまない」
ガラス板を拳の裏で軽く小突いた。
冊子を見ていたその学生は驚いて、目を見張った。こちらに気づいて眼鏡の奥から不審げな視線を送る。
「そう君だ。水色の髪のお嬢さん」
リボンが篠ノ之の制服と同じ色だから一年生に相違ないはずだ。
「どうやって、中に、入れば?」
口を大きく、ゆっくり開けて、大きく身振り手振りで示す。
眼鏡をかけた水色の髪の少女は、半ば、顔を引きつらせながら、手を震わせ、人差指を控えめに伸ばして、ガラスの切れ目へと差し向ける。
「あ・り・が・と・う」
切れ目の前で立つ。ガラス板がひとりでに開いた。
驚いて左右にドアマンが控えているのではないかと思ったが、待てども待てども姿を現そうとしない。
そのうちに勝手に閉じようとする。手を伸ばして止めようとしたら、また、開いた。
一歩下がると閉じた。
近づく、開く、退く、閉じる。繰り返すうちに、いつの間にか先ほどの少女が正面に立っていた。
胡乱な瞳でこちらを凝視している。
「あの……何を」
「今の一部始終を誰かが監視しているのではないかと、確かめていたのだ」
事実をありのまま口にした。油圧式の自動ドアは一部の艦船に用いられていたのだが、近づくだけで反応することはなく、誰かが開閉スイッチを押さねば反応しなかった。
その誰かがどこにいるか。よもや人の出入りを監視するほどの重要拠点ではないかと考えたからだ。
「そんなの、いるわけ……」
「いないと言うのか」
わずかに厳しげな雰囲気を漂わせて質問した。
「無人……センサーで……」
水色の髪の少女は何度も目を瞬かせ、呆れながらも教えてくれた。
「いいことを聞いた」
そう言って中に足を踏み入れると、少女が後ずさった。
ガラスの外から見たときと同じく、店舗のなかは、ほとんど賑わっていないようだった。
店員すらいないのだ。しかたなく顔を戻し、少女に向けて言った。
「ついでで申し訳ないが、レポート用紙と筆記具がどこに置いてあるかわかるかね?」
「えっ……」
少女は一瞬怯えたような瞳を映し出したが、唯一の出口を塞がれていて、背を丸めて両肩をすくめた。こちらの顔色を窺うような、自信の無い仕草で、ついてきてほしいと言わんばかりに背を向けた。
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