二限目のあとの休憩時間。茶封筒を机の上に置いて、頬杖をつきながら教室内を観察する。篠ノ之は同じ剣道部の女学生たちとおしゃべりをしている。他愛のない話題。年相応に相好を崩して笑っている。
いささか居心地の悪い思いがした。久しく忘れていた温かい気持ちがこみ上げてきた。ずっと、こんな時間が訪れるのをずっと望んでいて、ほろりとしかけていたのだ。
平和で、いつもと変わらない日。
ほかの生徒に目を移してみよう。セシリア・オルコットは長い髪を編み込んで少しだけ雰囲気を変えている。同級生に求められて、山田参謀の講義をかみ砕いて教えていた。感謝の言葉に少しだけ頬を赤らめつつ、はにかむのを我慢して「当然ですわ」と言った。
その横には男子生徒がデュノア少年相手に元気よく話しかけている。少年漫画の話題だ。彼は寮母に頼み込み、廃品として回収された週刊誌を持ち帰っている。ベッド下に隠して、部屋でひとりきりになったとき、部屋でこっそり読み耽っていたのだ。本人は隠しているつもりだが、篠ノ之やその友人、彼と親しい者はみんな知っている。
隣のクラスの中国娘。自分のクラスに居辛いのか、授業が終わるたびに一組の教室へ遊びに来る。男子生徒に絡もうとするが、彼はデュノア少年の夢中だ。中国娘はなかなか関係が進展しないのに歯がみしている。どこからどう見ても彼のことが好きで好きでたまらない様子。予鈴が近づくと、お菓子の袋を持ったヤンキー娘が迎えに来る。帰り際はいつもこうだ。
「彼と話できたの?」「察しなさいよ!」
一般教科の担当教諭が姿を現す。茶封筒を机の中にしまって、白紙のレポート用紙を広げ、一介の聴講生として、ひとときばかりの時間を楽しんだ。
昼休みになった。ほとんどだれもこちらに注意を払わない。食事の前に用事を済ませてしまおうと思って、気楽な気持ちで職員棟へ向かう。
食堂へ向かう学生たちとすれ違った。
渡り廊下で立ち止まって中庭を見下ろすと、騒々しい楽曲に合わせて踊り狂う少女がいる。劇場で耳にするような曲調ではなく、音と音を機械的に繋ぎ合わせたような楽曲だった。騒音のあまり怒鳴り込む輩がいるのではないかと疑ったが、拍手喝采こそあれ、苦情を申し立てる者はいないようだ。
踊っていた女が動きを止める。肩で息をしながら髪留め代わりの帽子を取って頭を振る。汗の雫が舞い散った。
どこかで見たような水色の髪だった。こちらを見上げると、歯を見せながら手を振ってきた。
こちらも手を振り返す。民衆が笑顔を浮かべているのであれば、友好的に振る舞うものだ。
「ありがとー!」
少女が言った。
目礼をして去り、職員棟の扉をくぐって職員室へと歩みを進めた。
「失礼する」
昼休みの職員室内は、みな仕事の手を止めて食事をとっていた。記憶にしたがって視線を巡らせる。織斑の作業机は両脇に書類と書籍の山ができていて、彼女はその中央で弁当を食している。
「
織斑の動きが止まる。一呼吸置いて、箸をにぎったまま振り返った。
「外出届です。こちらは山田参……山田先生に提出する課題です」
二つ折りにした外出届と茶封筒を手渡す。
織斑は箸をおいて受け取り、書かれた
「明日の土曜日に社会見学のため……と」
「その通り」
「外出の件について寮母から聞いている。篠ノ之たちと買い物に行くのだろう? 楽しんでこい」
買い物と聞いて、決まりの悪さを払うように咳払いをして見せた。
「どうした?」
織斑が不思議そうにこちらを見た。
「
織斑の表情が曇る。何を想像したのか、とても深刻な顔つきだった。
「ボーデヴィッヒ。まさか……」
「恥ずかしい話ですが、私には、私が自由に使えるお金がないのです」
深刻な問題だった。この教育施設内であれば
「軍隊での給金があっただろう。ほとんど手を付けず貯金している、と自分で言っていたじゃないか」
残念ながら、その言葉を口にしたのは、
「私も二年くらい欧州に住んでいたが、大体クレジットカードでどうにかなったぞ?」
「確かに、そうなのですが、……大変、申し上げにくい話なのですが……暗証番号を何をどうやっても思い出せないのです……」
記憶力には自信があったが、無から有を引き出すことはできなかった。一週間前のアドルフ・ヒトラーの記憶は容易く引き出せるというのに、一週間前のラウラ・ボーデヴィッヒの記憶すら引き出せないのだ。
「まさか、忘れた、だと? 頭を打ったとかそういうのじゃあ、ないんだよな?」
織斑の顔から笑顔が消えて、心配だけが色濃く残った。
「はい……記憶がところどころ抜け落ちていて……」
こちらは恥ずかしさを押し隠し、もしかしたら少しは思い出せるかも知れない、という体で答える。
織斑は引き出しを開け、バッグを取り出す。バッグの口を開け、長財布に目を落とし、唇を噛んで難しい顔をした。
「マズいぞ。給料日前なんだよな……」
二、三秒固まっていたが、急に良い考えを思いついたらしく、課題の入った茶封筒を持ち上げる。ほかの教員と食事をとっていた真耶がキョトンとしている。
山田参謀は織斑の窮状を助ける気がないらしく、再び同僚との会話に戻った。
「すまないが、少し待っていてくれ……」
織斑はそう言い含め、茶封筒を隣の机に置く。再び室内を見渡し、ある一点で視線を止めた。席を立ち、三十代半ばの女性教諭の元へ向かう。彼女のほうが階級が上らしく、織斑は丁寧な口調でことわりを入れた。
「お話中のところ申し訳ありません。少しの間、篠ノ之さんを借りてもよいでしょうか」
「織斑先生。いいですよ、こちらの用は済みました」
「ありがとうございます」
篠ノ之が首を傾げている。
「顧問と話していたところに、すまんな」
「先生、何か問題でも……」
不安を見え隠れさせつつ、まったく理解できないといった様子だ。
「大人として、まったく、情けない話なんだが……」
織斑は言いにくいのか、なかなか本題に入ろうとしない。
「はあ」
こちらの隣に連れてこられてもまだ首を傾げている。
「生活必需品調達にあたって一時払いをだな……」
「いいですよ」
篠ノ之は深く聞くまでもなく即答した。学生の身とはいえ、少なくない金額を使うことになるだろう。何度も目を瞬かせて、彼女を見つめたが、何のことはない。篠ノ之はすぐに言葉を継いだ。
「姉さんの支払いになるわけですし、領収書には、なんと書けばいいですか。織斑先生……………………ではないのですね」
「ああ、当てがある」
織斑は四角い板のガラス面に親指を滑らせる。
「今、電話する。今日は休みだから、家でだらだらアニメを見ているはずだ」
板を耳に当ててドイツ語で話し始めた。親しい間柄なのか、緊張する素振りは見られず、挨拶をした後で軽く近況を伝えあった。そして、通話先との共通の話題になった。織斑は、ラウラ・ボーデヴィッヒという名前を口にしたのだ。
「今代わる」織斑がドイツ語で言った。
織斑が板を差し出してきた。ガラス面には「
「電話に出てくれ。クラリッサが話したいと言っている」
「……クラリッサ?」
四角い板が携帯ツーゼであり、電話機能を包含していることは、よく理解していた。恐る恐る受け取り、織斑がとった仕草を真似してゆっくりと耳にあてる。
――クラリッサ・ハルフォーフとは誰なのか。
織斑の知己。
「……君か」
「お久しぶりです。少佐。何度も電話したのに、どうして返事をしてくれなかったのですか」
「その件はすまない」
「もしかして、私に、飽きてしまわれたのですか。あの夜は、熱い、素晴らしい夜でした。あなたを送り出したあの日、あなたは、私を強く抱いてくださいました」
――抱いた? どのような意味で? この女性は大きな勘違いをしているのではあるまいか。
「……人違いであろう」
「ばれましたか」クラリッサはあっけらかんと答えた。
「用件を手短に願いたい」
「少佐の声が聞きたかったのです。祖国を発つ直前、少佐は傷心のなかにあったと記憶しています。私はずっと心配していました。電話をかけても、まったく、応じてくれません。部下に愛想を尽かしてしまったのでしょうか……と。ネーナたちに聞いても連絡をした様子はなかったので、チフユに様子を伝えるよう頼んでいたのです」
「……その件はすまない。理由があって……」
「どのような」
「暗証番号を、ツーゼとか諸々の暗証番号を失念してしまったのだ」
通話口の向こうで沈黙が舞い降りた。
「ツーゼって、コンラート・ツーゼでしょうか? 博物館にある骨董品の? ……わかりました、少佐なりの冗談ですね? ……当てて見せましょう! スマートフォンのことですねッ!!」
クラリッサなる女性が自信満々に言うので、おそらく正解なのだろうと、なんとなく話を続けるように促す。
「そ、その通りだ」
「……残念ながら暗証番号はさすがに存じ上げません。金庫番ではありませんから。
その代わり、少佐に思い出すための助言を差し上げます」
「助言?」
「少佐が設定した暗証番号は、おそらく、少佐の大切な人の誕生日です。
こうするとわかりやすく、なおかつ、ピンときません。本人の個人情報と繋がらないのでセキュリティ対策にもなります」
「なぜそう思うのだ」
「そうすると良い、と私が進言しました」
「ちなみに、君は…………」
「いつもクラリッサ、と呼んでくださるのに、今日はよそよそしいのですね」
「…………クラリッサは私の大切な人を知っているのだろうな」
「もちろんです」
クラリッサが上品に笑った。
「目の前にいるではありませんか」
「目の前…………」
「そうです。目の前です」
「わかった」
「では、チフユに代わって頂けませんか。話したいことがまだあるのです」
言われるがまま、スマートフォンなる携帯ツーゼを返す。
クラリッサとの会話によって混乱の海へと突き落とされたと自覚する。
大切、とはいったいどのような意味であったか。
クラリッサ・ハルフォーフは言った。ラウラ・ボーデヴィッヒにとって、かけがえのない人物は目の前にいる、と。
あまりの衝撃に周囲の喧噪がまるで耳に入らなくなった。
織斑が通話を再開する。
「チフユ。条件があるわけですが、当然呑むのですよね?」
「もちろん」
「ひとつ、領収書には私こと、クラリッサ・ハルフォーフの名前を書くこと。ふたつ、レシートの写真を添付して送ること。みっつ、試着したら必ず写真撮影を行うこと」
「……無断での写真撮影はマナー違反だぞ」
「その点抜かりありませんよ、チフユ。最初の一着目は店員に選ばせるのです。清楚な淡い色合いのワンピースあたりがよいでしょう」
「は?」
「スポンサーの要望もあって写真撮影する必要がありまして、ミュンヘンのショップで同じ方法を試しました。店員は快諾してくれましたよ」
「……何を撮った」
「広報活動の一環です。一応軍機ですよ?」
「…………」
「男物は禁止です。少佐はすぐ男物を選ぶので、絶対に選ばせないでください。動きやすい方がよいとか言い出したら、マナー違反の一点張りで押し通してください。少佐はなんでもかんでも規則を遵守する傾向があります。軍人の定義よりも、話をより大きな、社会を包括する定義にすりかえるのですよ」
「……やけに具体的なんだが」
「経験談ですからね。こちらの要望としては、フリフリの清楚な感じの服装がいいです」
「フリル付き、と。ボーデヴィッヒの趣味に合わないんじゃ」
「見た目と合ってていいじゃないですか」
「…………」
「ネコミミなんかもいいですね」
「いきなり方向性が飛んだぞ」
「ニャン♪ 付けしたときの動画なんかあったらなお良いです。あと、できればセーラー服も所望します。日本の伝統的な紺色のがいいですね。まあ、IS学園の制服も無改造だったら良かったのですが、部下に報告する前に、即改造業者に依頼してくれましたからね」
「ぜ、善処する……」
「夏も近いので水着なんかあれば最高です」
「セパレートなんかどうだ? ボーデヴィッヒの好みにも合致するぞ」
「せぱれぇとぉ……?? ここは、スクール水着だと言うのが教師じゃないんですか!!?」
「うちの指定はセパレートだが。水着の上ならレギンスもいいし、ラッシュガードも使える」
「胸には手書きのワッペンありなんかいいですね。ひらがなで『
「……そ、そうだな……」
「舌っ足らずな口調でこう言わせてください」
「…………ど、どんな」
「お姉ちゃん♪ ……は少し違いますね」
「…………」
「あぅぅおねえたまぁ、見ないでくださぁいぃ……ぁぅぅ恥ずかしいよぉ……」
「…………」
「と言わせてください。課金します」
通話が終わったようだ。ところどころ単語が漏れていたが、ラウラ・ボーデヴィッヒの思い人についての思索にかまけていて、どんな内容を話していたかわからなかった。
篠ノ之には一連の会話が聞こえていたらしく、顔を若干引きつらせながら織斑に耳打ちする。
「先生。相手は女性ですよね?」
「そうだ。条件をとりまとめて後で連絡する。ボーデヴィッヒ、話はついたぞ」
「ありがとうございます」
踵を返そうとしたところ、織斑が呼び止める。
パンのような、やけに柔らかいものが入った透明の袋を二つ投げよこした。袋には「メンチカツ」と描かれている。
「時間をとらせた。やる」
職員室を辞したあと、篠ノ之と食堂に向かった。
だが、食堂は完食により昼食の提供を終えており、無料のお茶を飲みながら織斑にもらった「メンチカツ」を食した。
教室に戻り、その日の授業を終えた。席を立ち、記入済み質問用紙を入れた茶封筒を小脇に挟んで教室をあとにする。
メモに記された、新聞部部室へ向かうまでのあいだ、歩く姿勢を正し、肺の中の空気を何度も出し入れした。
新聞部部室は職員棟にあった。職員室の上の階にあって、緑色の掲示板にいくつもの張り紙がしてある。それらを目の端に捉えながら目的の部屋まで進む。
――多目的教室1。
引き戸には縦書きで『新聞部部室』と打刻した透明板が貼られていた。
国家社会主義運動の総統が一介の学生の取材に応じるのか? そういった心配をするセリフが浮かび上がる。国家の未来を担う若者が一つの道に邁進する先人と交流を持つことに疑いを抱いてはならない。大衆の愚かな声に左右されやすくもある、多感な年頃の少女たちが広い視野を持つ機会を得るのだ。とても素晴らしいことである。
「失礼」
「ボーデヴィッヒ少佐。ようこそいらっしゃいました!」
引き戸を開け、新聞部部室に入ると、黛が立ち上がった。こちらにやってきて、小さな机をいくつも繋ぎ合わせて長くした場所へといざなった。
座席の背には、室内の壁を覆い隠すように白い布が張られていた。大きな三脚の上に照明が乗っている。正面より少しずれた場所には二つのレンズが並んでいて、微かに緑色の光を放っていた。
黛が背を向けて機材の準備をする少女を呼んだ。
その少女は腰まである長い黒髪で、この教育施設指定の制服に身を包み、女性らしい体つきを隠すような長いスカートだった。背筋をピンと立たせ、胸を張り、顎を軽く引く。黛の隣に立つまでの短い間、たおやかな様子に目を奪われた。
「助手を務める
「
握手をすると、片名という少女の顔の造形がよくわかる。目元が昼間、中庭で見た少女と似ているような気がした。しかし、髪の色が違うし、歩き方が別人である。
気のせいだと思い、席についた。黛がお茶の入ったボトルを机に置く。片名が撮影と録音用機材を稼働状態にする。
黛と片名が席に着き、筆記用のノートを開くのを待って、茶封筒を差し出した。
「質問用紙に記入した」
そこではたと気付いた。予め伝えておかねば困ることがあった。
「ドイツ語で書いてしまったが、良かったのだろうか」
「大丈夫です。そのために片名がいるんです。彼女、すごいんですよ。英語やロシア語、フランス語、もちろん、ドイツ語も含めて何十カ国語を自由自在に扱えるんです。ね!」
片名が少しだけ目元を緩めてうなずいた。
彼女は茶封筒に目を移し、ゆっくりとした仕草で玉紐を解いていく。微かに音をたて、質問用紙が姿を現す。内容に目を走らせた瞬間、ふたつの瞳が驚愕によって見開かれるのを目撃した。
「片名。どしたの?」
片名は顔を伏せ、身体を小刻みに揺らしている。
記入済み質問用紙を机に置き、質問事項の一問目を、トントン、と指で叩いてみせた。
「え?」
黛が示された一点を凝視して動かない。
そして、顔を上げてこちらを見た。見慣れていない
気を引き締めながら、二人の少女に総統としての微笑みを投げかける。
「親愛なる
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