親切な少女の案内で歩き出した。
空き地の縁にたどり着く。振り返ると、低木の向こうに、もう一つの三角屋根が見えた。
壁が開いて、中から、少女と同じ胴衣を来た女が姿を現す。
長弓を構えて放つ。……的中を見届けてから、篠ノ之と呼ばれた少女のあとを追う。
一歩近づくと、猫が一歩退く。睨みつけながら前進するうちに、開けた空間に出た。
光の奔流。見たこともない意匠の建築物。目を見張るような色彩。
呆然と立ち尽くす。
――ベルリン、では、ない?
記憶にあるベルリンの風景と著しく異なっている。埃、残骸と瓦礫。たくさんの軍服。
しかし、きめ細かく整備され、まるで砲火を忘れてしまっているかのようだ。
ゴミは見当たらない。手入れが行き届いた低木。
開けた空間はグラウンドだった。健康な少女たちが走っている。
半袖の上着、半ズボン。しなやかな肢体。
ドイツ女子同盟の一員にふさわしい。ならば、別の場所にユーゲントがいるのではなかろうか。
「ここだ」
思索にふけるうちに、先導する篠ノ之が足を止め、振り返った。
三階建ての建築物の入口。脇には色とりどりの乗用車と、単車があった。
洗練された姿形。リベットを一切使用していない。溶接痕すら見当たらなかった。一枚の金属板をしなやかに、自在に形を生み出している。技術の進歩。あたかも砂糖細工のような繊細さ。
軽い目眩。息をするのも、空腹すらも忘れてしまうほど。再び入口へと目線をやる。
篠ノ之が不思議そうに見つめていた。
彼女の誘われるまま靴を履き替える。廊下を伝って、『職員室』へとたどり着いた。
篠ノ之は思案顔で戸に手をかける。把手を覆う加工ですら、見たこともないものだ。高度な、進歩した技術に足下が覚束なくなった。
視線をさまよわせる。
――研究施設、か?
「ん? 顔色が悪い。先に保健の先生に診て……」
「いや、いい。頼む」
正しい情報が必要だ。
篠ノ之が扉を開けた。そこには、少なからず、見慣れた光景があった。
大量の机。大量の書類。机に据え付けられた電話。
おびただしい情報と戦う光景。せわしなく、飛び交う怒号。
長机におかれた、分解された銃。長大なものは対戦車銃だろうか? 別の長机には中世の騎士が使っていたような馬上槍。敵の攻撃を受け、著しく損壊している。
――ここもまた、戦時中なのだ。
後方の、超近代的な軍事研究施設に違いない。
「先生、いますか? できれば、織斑先生か、山田先生」
篠ノ之が手近な女性に、胸元が大きく開けた服を身につけた、長い金髪の
「織斑先生? ああ」
彼女はこちらを一瞥したあと、篠ノ之から視線を外す。後方の職員たちを見やって、頭を何度か揺らした。
均整の取れた身体を黒いスーツに包みこみ、黒髪黒目の女性が湯飲み片手に現れた。
こちらに気づいて、珍しげな顔でいる。
「ありがとうございます」
篠ノ之は礼を言って、黒髪黒目の女へと近寄る。
「織斑先生」
「篠ノ之か」
篠ノ之が織斑と呼んだ女性は、湯飲みを机に置いてから席につく。
こちらを見つめ、誰であるかわかったような表情になった。
――外国人にしては、極めて健康的で魅力的な女性である。親しい間柄にあるように感じ、当然のことながら、ドイツ式敬礼が行われるだろうと期待した。
が、やはり為されなかった。
「この子、道に迷ったみたいなんです。剣道場の近くで寝転がって」
「寝転がって?」
織斑は怪訝な表情を浮かべた。そして、わずかに顔をしかめる。
ガソリンのようなにおい。
「失礼。あなたは、道を知っているのですか。……ここから、総統官邸に」
「ボーデヴィッヒ?」
こちらを見て、やはり、ボーデヴィッヒ、と口にした。
確認をせねばならない。そう、直接。
「
自分の名前を口にすると、やはり、別の氏名に変換されてしまう。
……しかし、おかしい。ご婦人、と言ったはずが、今度は『教官殿』になった。
変換には、何か法則があるのでは?
「手続きの件か」
織斑は机に置いた、本のような薄い樹脂を開いた。即座に画面が映る。
――息を呑んだ。後ずさり、そして、前のめりになって目を輝かせた。
彼女は携帯式のテレビ端末に書類を収めていた。なぜか、左上に銀髪の小柄な、アーリア人的な少女の顔が写っている。
――これは、もしや、ツーゼ、というものではないか。眼鏡をかけた学者先生どもが語った、空想科学のような、性能の良い計算機。
「万全だ。すべて完了している。貴様の
「……ISも?」
ISとは?
「
多少なまりはあるが、ドイツ語だ。
うれしさのあまり、口の端をあげる。
隣にいた篠ノ之が後ずさっていた。よもや怖い顔でもしていたのではあるまいか。
「明日から私の生徒だ。一年一組だ。間違えるなよ。……あとは、宿舎について、か」
「失礼。食事も」
腹が鳴った。空腹を思い出した。
食べなければ戦争遂行はできない。明日を生き延びることすらできないのだ。
織斑は視線を外し、隣へとずらした。
「ついでで悪いが、篠ノ之、寮まで連れていってやってくれ。子細は寮母に話しておく。クリーニングが必要なことも」
「構いませんが……一度、戻って、着替えなければなりません。それでも?」
「悪いな」
「わかりました。先生の頼みなら」
篠ノ之が一礼して、職員室を辞す。
見届けてから織斑が咳払いをした。心配するように言った。
「その、なんだ。ガソリンでもかぶったのか?」
「起きたらこうだったのだ。推測だが、エヴァが、あわててベンジンを
「……エヴァ?」
織斑が聞き返したので、どう説明したらよいものか、考える。
外国人とはいえ、友好的な国民である。よって、話をしても差し支えないと判断した。
「エヴァ・
言い直そう。
事実は正確に話すべきである。情報は正しく、確かでなければならない。
織斑は湯飲みに口をつけながら、耳をこちらへ傾けている。
「エヴァ・
妻だ。
長いこと交際をしていたのだが、先日結婚式を挙げた」
……。
…………。
…………ガタン! という音。
椅子が勢いよく横倒しになった。
織斑が唖然とした表情でこちらを見ている。衣服に珈琲色の染みができていたが、本人は衝撃のあまり気づいていない。
「おま……ボーデヴィッヒ。交際、結婚式……!? そんなの聞いてない! いやいや、待てよ、待てよ、ドイツの婚姻年齢、法律、おまえ、今、いくつだ!!?」
彼女は激しく動揺していた。多少失礼な物言いがあったように思えたが、総統が結婚したのだ。取り乱してしまうのは致し方ない。
しかも、後方の、戦火が及んでいない研究施設だからか、情報の伝達が多少遅れてしまっているのだろう。
とにかく、年齢とは自らの認識、状態を規定するものだ。
「
――――何かが決定的に狂っている。
【補足】
ドイツの婚姻可能年齢は男女ともに18歳です。
2017年より以前は日本と同じでした。いずれにしろ、15歳での結婚は法的に認められません。
ちなみに同性婚は2017年より後ならば合法です。
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