アドルフ、入ってる?   作:王子の犬

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1日目
3.drei. ――鏡――口髭――戦場――挨拶――


 気がついたとき、板張りの床にうつ伏せに寝ていた。

 どうやら、親切な少女に寝床を世話してもらったあと、彼女が去ると同時に昏倒してしまったようだ。

 額、首の痛み。空腹感は和らいでいる。昨日の記憶を呼び起こす。公園で目が覚めて、超近代的な軍事研修施設の一棟に行った。『職員室』で織斑に会い、制服を来て戻った篠ノ之が、彼女が起居する寄宿舎へと案内したのだ。

 そこで食事。暖かいパンとスープ。急に疲れが出て、足下が覚束なくなり、休める場所を篠ノ之に求めた。

 記憶はそこで途切れている。

 ぼんやりと頭を振った。ひどく喉が乾いており、服は相変わらずガソリンくさい。

 壁に手をつきながら立ち上がる。奥へと向かった。

 五つ星ホテルのような一室。高い天井、暗いベージュの絨毯。完璧なベッドメイク。疲れ切っていたのだ。ありがたい。

 奥のベッドにたたまれた服とゴム製のカゴが置いてあった。

 『カバンを勝手にあさって御免なさい。篠ノ之箒』とある。

 国防軍の制服に近い意匠。至る所にあしらわれた鉄十字には、その中心に描かれていたはずの鉤十字(ハーケン・クロイツ)がどこにもなかった。

 

「鏡は、あるか?」

 

 室内を見渡した。一見したかぎり鏡のようなものはない。

 五つ星ホテルなのだから、もしかしたらシャワー室があるのでは? 探すと、手前のベッドの脇に蛇腹状の引き戸があった。中に入ると、予想通り洗面台と鏡があった。

 身を乗り出すようにしてのぞき込む。小さくなってしまった身体では、そうしなければならなかったのだ。

 ――非の打ち所のない()だ。制服はパリッとしていてアイロンをかけたてのように見える。

 そして、おもむろに上唇に触れる。

 ――どういうわけだろう。あるべきものがない。

 もう一度触れた。

 穴が空くほどしっかりと鏡を見た。後ろを振り返る。もう一度だ。もう一度。

 

「おお……な、なんと言うことだ……」

 

 大事な口ひげがなくなっている。跡形もなく、綺麗さっぱりと!

 あまりの衝撃に顔を覆ってその場へうずくまる。

 憎きチャーチルの念動力が、総統の口髭を奪ってしまったに違いない。女性化により、ホルモンバランスを崩し、髭を失わせたのだ……。

 よく思い出して見れば、あの顔は、今、この身にくっついているのは、いかにもアーリア人的女子の顔であった。

 頭をまさぐる。恐る恐る髪の一部を眼前に持ってくると、それは照明を受けて淡く艶めきたっていた。エヴァの髪の色をより薄くした髪だった。

 さらに、ゆっくりと、昨日は触れなかった場所へと手を降ろしていく。

 かつての肉体が、どこにも、なくなっている。

 それどころか、あるべきものが、己が性別を規定するためになくてはならないものが、ない。……なくなっている!

 洗面器に手をかけ、立ち上がった。上の空で鏡を見つめる。

 痩せた、貧相な、十五歳の少女(フロイライン)。左右の瞳の色が異なる。

 ガソリンくさい服を脱いだ。貧相な身体を見ないよう、目を瞑りながらシャワーを浴びた。

 裸のままベッドに戻る。濡れたまま、ベッド下にしまわれていたカバンから下着を取り出した。いずれも男の子が身につけるような下着だった。

 次に何をすべきか。

 頭を整理しようとした。五十六歳の総統が、子供の下着を身につけ、それも、女子の服装を身につける。なぜ、このような罰を受けねばならないのか。不信を招いた結果、薬を盛られ、呪術を、恐ろしき魔術を受けてしまったか。

 頭を振った。

 ――ともかく、今必要なのは、時間を稼ぐこと。多少の恥を忍び、とるべき道を分析することだ。

 身体を拭き、下着を身につけ、着替えを着用する。男も女もない。

 

 かつて、寄宿舎で得た、暗い思い出。侮辱、無視、不安。物資の欠乏。

 それらに比べれば、暖かい部屋、ふかふかのベッド、暖かい食事。何を戸惑うことがあろうか。

 そして、なかば放心状態で着替えを遂行した。

 準備すべきものがわからず、とりあえず軍服のような制服を身につけたまま、悲痛な表情のまま出入り口に向かった。

 目の前を制服姿の少女たちが通り過ぎていく。一瞬こちらを見たが、だれひとりドイツ式敬礼を行わなかった。彼女らの反応から、学生が一人突っ立っているだけだとしか思っていない。

 そのうちに制服姿の篠ノ之が現れた。心なしか汗ばんでいる。

 

「おはよう。早いな」

「……ああ? おはよう」

 

 篠ノ之は肩に棒のようなものを担いでいる。

 

「その棒はもしや……」

 

 篠ノ之は後ろを振り返るように、自分の肩を見やった。

 

「練習、訓練に使う。そうだな、実戦に限りなく近い訓練だ。生き延びられるかどうかがかかっている」

「やはり、今は、まだ、戦時中なのだな?」

 

 実は不安だった。

 篠ノ之以外の者は、あたかも戦前のように、あるいは戦後のように、ただ漫然と刹那的な楽しみを得ているように見えたからだ。

 偽りの平和。砂の城。あっという間に消えて無くなる。

 篠ノ之は問われて、腰に手をあてながら少しだけ考え込んだ。

 

「戦時? 戦時と言えば戦時だな。本番(大会)はまだだが、私は常在戦場を心がけている」

「もし、敵が、ここに攻めてきたらどんな目にあうか、考えているのだな。

 露助(スターリンの愚連隊)どもが幼き少女たちを性欲の餌食にしようと言う。

 だが、どうだ! 目の前を行く彼女たちは、そんなこと起こりもしないと思っている。

 微塵も起こりえない、と。

 民族の存続、血の純潔性、そして……生存。

 今日このとき、この時間、まさに危険にさらされている!」

「……あ、朝から威勢がいいな」

 

 少し気圧されている。しかし、理解している顔だ。

 

「いかに危険を退けるか。秩序を回復するか、考え、采配を振るうのが私の仕事だ」

「……今日、初日だろう? 一緒に登校しないか?」

「よいのか。連れがいるのでは」

 

 篠ノ之は目を伏せ、薄ら笑みを貼り付ける。

 

「そのつもりだったが、別のやつと一緒に行ってしまったよ」

 

 寂しげに言った。

 察するに篠ノ之と親しい人物なのだろう。彼女との約束を破った人物に対して、おそらく同性だろうが、憤懣やるかたない気持ちがこみあげた。

 

「では、頼む」

 

 実のところ地図が見当たらず困っていたのだ。情報を収集しようにも、最初の一歩を踏み出せていなかった。

 超近代的な軍事研究施設とはいえ、人の営みにさほど変わりはない。砲弾が飛んでいるかそうでないかの違いだ。

 自転車に乗る学生たち。徒歩で向かうもの。

 特に徒歩の者たちは、話に興じている者以外は、みんな、うつむきながら歩いている。

 何やら四角い金属塊に向かってせわしなく指を動かしている。

 喪に服しているようにも見えない。

 あたりを見回しても、どこにも死体が転がっていなかった。

 

「篠ノ之」

「どうした?」

「彼等はずっと下を見ている。この施設では、あのようにすべきだと教育されているのか? ルストの指示か?」

 

 ベルンハルン・ルスト。婦女子たちに奇矯な習慣を身につけさせようとしている。

 

「ルストは知らないが、確かに危ない。そのうち痛い目を見る」

「死んでしまっては反省しようもない」

 

 昨日と同じ建物。かつて学んだ建築学の常識を打ち破る合理性、そして芸術性。靴を履き替え、廊下で篠ノ之と別れる。『職員室』だ。引き戸に手をかけて、中に入った。

 

「失礼。ラウラ・ボーデヴィッヒ(アドルフ・ヒトラー)です。教官殿(昨日のご婦人)はおられますか」

 

 相変わらず自分の氏名を言わせてくれない。

 朝の慌ただしい雰囲気。多忙ゆえ、こちらを気に掛ける様子がない。

 壁の傍で立って待つうちに織斑が来た。昨日とはブラウスの意匠が異なっている。

 

「ボーデヴィッヒ。おはよう」

 

 そう告げて、織斑は湯気が立つ白いカップに口づけた。

 

「少しそこで待て。準備する」

 

 書類の山から黒い冊子を見つける。不足物があるのか左右を見回す。

 隣の席にいた、黄色い衣服を身につけ、大きな丸眼鏡をかけた女性に声をかけた。

 

「山田くん。あれは、どこにいった」

「右の山の一番下にありますよ」織斑の助手、もしくは参謀。

 

 肘が当たったのか隣の山がひとつ崩れた。崩壊を押しとどめようとするが、一度崩れた戦線を再び持ち直すのは至難の業である。

 織斑はくずれた山を、無造作に、思うがまま適当に積み上げて修復してしまった。

 

「織斑先生……」

「構うな。あとで整理する」

 

 織斑は時計を見た。副官の山田参謀を引き連れて職員室を出る。後をついて職員室を辞した。

 廊下に出ると、ひとりの生徒がいた。真新しい、アイロンのパリッと聞いた制服だ。少し癖のついた金髪。ただし、チェックのズボン。

 

「おはようございます」

「君か。待たせてしまったようだ。すまない」

 

 織斑が謝意を表す。チラチラと腕時計を見やっている。金髪の生徒はこちらを見てにっこり笑みを投げかけてきた。

 織斑がみなに進むよう促した。書類を揃えるのに、ひとつ戦線を致命的な崩壊へと至らしめた代償だった。

 

「歩きながら、簡単に段取りを説明する」

 

 織斑が山田参謀へ目配せした。

 

「私たちが先に教室に入ります。転入の挨拶をするよう求めますから、少しの間廊下で待っていてくださいね」

 

 『一年一組』の教室に到着する。山田参謀が言ったとおり、少しの間外で待たねばならなかった。

 外は晴れて汗ばんでいたのに、廊下にも冷房が行き届いている。

 背筋を屹立させたまま、ゆっくりと隣で『休め』の姿勢をとっている学生を観察する。

 中性的な顔つきだ。むしろ、女性的かもしれない。

 微妙な雰囲気が漂っている。視線に気づいても微笑むだけ。好意を仕向けるわけでもなく、ただ、笑ってその場を取り繕っている。

 深く息を吸った。

 山田参謀は『挨拶』と口にした。軍事研究施設の教育課程。すでに約三〇名もの学生が教練を受けているという。彼らに、自分を、印象づけねばならない。指揮官が誰であるか。正しく、知らせねばならなかった。

 

「二人ともお願いしまーす」

 

 山田参謀が入口から半身を出し、明るく手招きした。

 

「じゃあ、ボクが先に」

 

 金髪の学生が教室へ足を踏み入れた瞬間、年頃の少女たちが一斉にわめき立てる。

 

「男子! 二人目の男子!」

「……ほう」

 

 脇に立ちながら目を細め、小さく呟いた。

 男子だったか。筋骨たくましくなかったのでわからなかった。

 しかるべき教育と訓練をほどこせば如何ように変わるのか。華奢だが、聡明そうな顔立ちだ。子細によってはデーニッツに預けるのがよかろう……。

 

「……挨拶をしろ、ラウラ」

 

 言われて佇まいを直す。教室中を睥睨し、じっと眺めた。つかの間の無言。騒がしさが沈黙の前に屈するのだ。しんと、静まる、その瞬間を狙った。

 

「諸君!」

 

 呼びながら向き直る。

 

「私の名はラウラ・ボーデヴィッヒ(アドルフ・ヒトラー)

 諸君らの指揮官(首相)にして、ドイツ連邦共和国軍士官(国家社会主義ドイツ労働者党の党首)である

 

 小さな身体を大きく見せようと、大げさに握りこぶしを振り上げる。 一気にまくし立てる。

 

私ははるばるベルリンより来た。

 戦場だ。

 胸が張り裂けそうなほど辛い光景を見てきた。

 全国民が、無慈悲な困難を強いられている。

 だが、昨日、この場所へ来たとき、こうも言うことができると知った。われら国民の、戦争を、より有利な方向へ導けるに違いないと。長きにわたり、官邸で、状況を分析し続けた。話にもならないほど惨めな戦いが――」

 

 息を整えるまで、しばし沈黙を使う。口を開いた直後だった。

 

「私は……」

「ええっと、ボーデヴィッヒさん。長くなりそう? そうだよね、意気込んでいるのはわかるけど、()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 言いかけた、絶妙なタイミング。山田参謀が話の腰をへし折った。

 

「私はひそかに期待していたのだ……」

 

 強引に後へ続けようとした。

 すかさず山田参謀が鋭く斬り込む。

 

「一分以内ですよー」という声。

「……ともかく、よろしく」

 

 少女のひとりが指先を頭にあてた。それからクルクルと回し、グーをパーに変えるのが見えた。

 

 ――意味はわかっている。今、はっきり理解した。

 

 ここにいる少女たちは、誰一人として、総統に対する、敬意を持ち合わせていない。それどころか、外の世界が戦場であることすら、理解しようとしないのだ。

 

 

 




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