テレビジョンの向こうから微かな羽音が聞こえてくる。
すかさず左右に注意を向け、気配に備える。タイプライターの打ち子が控えているのでは……と思ったが、誰もいなかった。
画面に絵が表示される。山田参謀は机に手をついて体重を預けていた。
「では、マウスを操作してみてください」
「……
言われて聞き返さずにはいられなかった。
――少し前ポルシェ博士に作らせた、
よしんば存在していたとしても、図書室入口の開口部の幅からして、マウスを収納するには無理があった。
――山田参謀のことだ。何か考えがあるに違いない……。
念のため後ろを振り返る。何度も瞬きして、左右を確認してみた。
前を向いて、不首尾に終わったことを伝える。
「
「……
山田参謀が眼鏡越しに瞳を細める。
にっこりと笑ったままだが、いつもながら視線が発する圧力に驚かされる。二〇■■年になっても参謀教育が機能しているのだ。
もちろん、山田参謀以外の者が優秀であるかどうかは未知数だ。
しかし、昨日今日とこの軍事研究施設の職員たちの働きぶりを見た限りでは、とても勤勉で、高い教育水準に驚かされている。かといって、この施設の敷地から一歩でも外に出てみれば、愚劣で有害な民族で溢れかえっている可能性も零ではない。
とはいえ、ゲルマン人は比べればどうということはなかった。彼等は最低最悪の民族だ。寒いと何もしない。寒いと暖を取る以外のことは頭からすっぽ抜けてしまうのだ。創造性を発揮するには温暖な気候が必要だ。適切な気候条件が整っていれば、秘められた能力が発揮できるようになるだろう。
アーリア人は文化の担い手だ。
エジプトのピラミッド、スペインのアルハンブラ宮殿、アテネのアクロポリス。祖先たちがなしえたように、造れないものはないのだ。
山田参謀の眼鏡がキラリと光った。うずうずとした
「ボーデヴィッヒさんはもしかして、トラックボール派ですか?」
「いいや、触ったことがない」
「そうでしたか。…………残念」
授業がそうであったように、数十年におよぶ時空の間隙のためか、山田参謀が放つ語句の多くを理解できないでいる。当然パソコンなるものの知識をほとんど持ちあわせていなかった。
コンラート・ツーゼが、自らの名を冠した
しかし、ツーゼは大きすぎたし、重すぎた。戦争遂行のある一場面では、計算が重要だという事実を理解してはいるものの、銃弾が飛び交うような場所に、長大な電線を引っ張り、計算機を設置するため、あえて水平状態を保持するのは甚だ困難を強いる。
常に状況が変わりうる前線で、少し性能のよい計算機がなにほどの物を言うか?
ツーゼができることは人間でもできる。
敵の攻撃に晒され、七十二時間ほど眠っていなかったシャハトですら、朝食片手に計算くらいはできるはずだ。
山田参謀が手元を動かしてカチカチという音を鳴らす。
ほどなくして、画面の中央で下線が点滅する光景を目撃した。
この身を、アーリア人少女の外見を規定する文字群なのだが、どうにも他人の名前としか思えずしっくりこなかった。
「アドレスの別名は五つまで設定できます。あとからでも変更できますから、まずは一つだけでも設定してしまいましょう」
説明のあと、画面をしばらくじっと見つめた。
そして、タイプライター、マウスなる白くツルリとした操作装置へと視線を順繰りに移す。
山田参謀がテレビジョンの画面を手前に引き出す。
彼女がこちらの肩へそっと手を置いた。振り向くなり視線を合わせてきたので言い返した。
「使い方を教わる必要はない」
総統は打ち子ではない。
「わからないのであれば、なおのこと、いつでも言ってください。先生はそのためにいるんですよ」
山田参謀の声はとても穏やかだった。
柔らかな絹で覆いくるむような母性に溢れている。真摯な態度に胸を打たれた。
「パソコンを使う度に、此処が分からないから見て欲しい、とか、あそこが分からないから手を貸してくれ……と言われたら、私の仕事になりません。もしかしたら、その場に、私がいないかもしれないんですよ」
彼女は、率直に意見することを恐れていない。会ってから、わずか一日しか経過していないのだが、キャリアだけは長い、低脳な参謀幕僚とは異なっていた。
マウスから手を離すのを見て、少しだけ素直に、言葉を聞き入れてみようと思った。白いマウスに手のひらを重ねると、山田参謀の温もりが残っていた。
ゆっくりと、横に、恐る恐るマウスを動かす。画面中央付近にあった矢印『↖』が、手の動きに追従して動く。
手をマウスにあてがったままグルグル回してみた。画面の矢印『↖』も一緒になってグルグル回った。
タイプライターやツーゼですら、こんな動きをしたことがなかった。夢中になって、山田参謀の真似をしてカチカチと指を動かす。
――なるほど、左右で機能が違う。
かつてない喜びと楽しみがあった。これまで、著作をすべて口述筆記させたのだが、別にタイプライターの打ち方を知らないわけではなかった。あまりにも官僚的でつまらぬ機械であったため、面白みを感じられなかったのだ。正直毛嫌いしていたほどだ。
再び画面中央、『Laura_Bodewig』の真下にある空欄へと矢印『↖』を置いた。
「そうです。キーボードで好きな名前を入力してくださいね」
ここで、入力すべき名前はひとつしかなかった。
――やったぞ! ……我が名の記述に成功した!
ようやく、いや、初めて、正しい名前を表現することができた。
「ボーデヴィッヒさん」
しかし、なぜだか山田参謀の声が震えている。それどころか机に置いた握りこぶしも小刻みに揺れていた。
「
「本気だ」
彼女の顔を見ようと振り返りながら、堂々と胸を張った。
「あの……絶対NGだと思います……よりによって、
何を言う。
アドルフ・ヒトラーがアドルフ・ヒトラーだと書いたのだ。自らの名を正確に記して、何の問題があるというのだろうか。
山田参謀は揺るがぬ瞳を前にして、観念したのか、手を伸ばして確定キーを押した。
『入力した名前は既に使われています。別の名前を入力してください。』
「やっぱり」
何が起こったのかさっぱりわからなかった。
画面に出現した赤文字を目で追ううちに、内容を理解した。
――アドルフ・ヒトラーが他人に使われているだと!?
「別の人が使ってますね。でも、おかしいですね。確かヒトラーは禁止ワードだったはずじゃ……」
「……同じ名前を設定できないのか?」
「複数の人が、同じ名前を、使うことは、できません」
「だったら……」
山田参謀が不可能だと強調したのに気圧されて、少しばかり名前を変形してみた。
しかし、『Adolf.Hitler』『AHitler』『AdolfH』もだめだった。
名前と、誕生日である一八八九年四月二〇日から、考え得る限りの組み合わせをつなぎ合わせてみたが、やはりすべて使われてしまっていた。
「きっと、生徒の誰かが面白半分に確保してしまったのでしょう」
「面白半分? 確保してしまう? 他人の名前を、何だと思っている!」
苛つきのあまり、感情をそのまま口にする。
「
「何もヒトラーに拘らなくとも……」
名前は重要だ。
いくら名前を口にしようとしても、すべてラウラ・ボーデヴィッヒとして発音されてしまう。とても不本意なことだ。この、アーリア人少女の口から直接、『私はアドルフ・ヒトラーである』と、自ら名前を名乗りを上げない限り、この身は、アドルフ・ヒトラーたり得ないのだ。
「私はこれがよい……
山田参謀が聞き返したので、『DEL』キーを押して、名前を消して見せた。
「名前を
「それはできません」
即答だ。
「だが、ボルマンならできた」
「ボルマン? うちの職員にそんな名前の人、いなかったはずですよ?」
山田参謀がポケットから四角い金属の板を取り出して、黒いガラス面に目を落とした。再び顔をあげたとき、こちらに向けて首を振った。
――ボルマンがいない!?
ひどく衝撃を受けた。
総統の器ではなかったが、ボルマンは思考と記憶の達人だった。いつも傍に控え、政策の良き確認相手であった。彼に助けられたことは一度や二度ではない。
「……わかった。他の案を試してみよう」
「……これもダメか」
「……だったら」
すかさず山田参謀が静止の声を発した。
「
「まさか」
手を止めて答える。だが、目を離した隙を突いて、『推測候補』なるものが出現し、勝手に文字を補ってしまった。
「
前を向くや画面に向かって文句を言ったとき、誤って『OK』ボタンを左クリックしてしまった。
確認画面が出てきたので、あわてて『いいえ』を選択する。
何度も瞬きしたあと、深呼吸してから、ゆっくり、冷静にマウスを持ち直す。
山田参謀は一連のやりとりを見守っていたのだが、こちらが黙考するのを見計らって口を挟んだ。
「
「
……なんとか、許せる。
※補足 入力カーソルについて※
細かい話ですが、補足いたします。
日本国内の教育施設ですから、図書館にあるパソコンはおそらくWindowsです。
したがって、本来であれば、入力カーソルとして"|"『縦棒、パイプ』を用いるべきです。
"|"を使うと表示が崩れてしまうため、やむなくDOS様式である"_"『下線、アンダースコア、アンダーバー』を用いました。
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