蝶の影 作:木材
悪いとは思ってます。申し訳ない。
命辛々逃げ切った巖鉄は烏を使い鬼殺隊に知らせを飛ばした。
その知らせはすぐに産屋敷輝哉に伝えられ、柱全員にも通達された。
通達された内容は『影柱の敗走』
これを受けて産屋敷輝哉は最も距離的に近かった伊黒小芭内にあるものを持たせて件の病院である黒条総合病院に向かわせた。
だが最も距離的に近かったとはいえ、伊黒が現場に到着するまでに半日ほどかかってしまった。
(敗北するにしても、なぜこのような辺境の地なのだあの目隠し男)
急ぎ現場へと急行する伊黒は内心苛立ちを募らせていた。
苛立ちは距離が遠く、移動が面倒であることも原因ではあるが、柱である遠夜が下弦の弐に負けたという事実に苛立ちが抑えられない。
遠夜は、柱の中でも実力は低い。しかしその能力は決して低くない。柱だからといってなんでもできるわけではないが、できないなりにやろうとしている姿勢は伊黒なりには好感が持てた。伊黒自身も悲鳴嶋や宇髄、煉獄と比較して筋力が少なく、力を行使した戦い方はできない。それを技術で埋めてきたため、遠夜の戦い方はよく理解できる。それをわかっているからこそ下弦の鬼に負けたという事実が信じられない。
伊黒本人からすれば遠夜のことは嫌いであった。新参者の癖に柱合会議はサボる、お館様への足りない敬意、そしてなによりこちらを見透かすかのような飄々とした態度。全てが気に入らない。
『俺はあんたほど強くない。あんたがいうように、俺は
そう言って皮肉げに口元を歪める遠夜に苛立ちを覚えたことを思い出す。
「馬鹿め。俺が気に入らんのはお前自身であるだけで、お前の実力だけは俺は認めていたぞ」
苛立ちを含んだ呟きは誰の耳にも届かない。
ーーー
伊黒が件の病院に到着した時にはすでに日は頂上に登っていた。
「蛇柱様…!」
「状況は?」
「隠の協力の下、従業員全員を病院から出し、患者につきましては付近の診療所や宿屋に協力してもらい保護してもらいました」
「いいだろう。それで?」
「……」
「無道は」
「…影柱様は、私と玄弥を逃すために殿に…」
「最後、奴はどういう状況だった」
「え?」
「確認できた最後の奴の状況を話せ」
「……影柱様は、脇腹に刀を突き刺され、左眼を潰されて重傷。失血も重なり…」
生存は絶望的。そう巖鉄が言おうとしたところを伊黒は遮った。
「生きている」
「え?」
予想外の言葉に巖鉄は呆けた声が出る。
「奴は生きている。しぶとさだけなら、柱でも随一だ」
現に遠夜はかつて任務で一週間程行方不明になったことがある。任務を終えた後運悪く嵐が来て行方不明になってしまった。遠夜の烏も嵐で怪我を負い、飛ぶことができず遠夜自身も土砂崩れから逃れる際に足を負傷し、迂闊に移動することができないような状況に陥っていた。加えて土砂崩れから逃れる際に必死に逃げていたため現在位置を把握することができなかった。
現在位置もわからず足は負傷し、烏も飛べない。さらには周囲は崩れた山々であり、水はあるが食料はない。そんな状況だった。
産屋敷はすぐに隠を捜索に出そうとしたが、道が崩れて簡単には進めない。産屋敷の烏の尽力があってしても発見に一週間もかかるような場所であっても、遠夜は生き延び、数日後には機能回復訓練を行うまでのしぶとさを見せた。
さらには複数の鬼との戦闘続きで常人ならば既に失血死しているような傷を負っても呼吸と応急処置、更には『氣』とかいうよくわからない能力の応用を行い、二山超えて藤の花の家まで辿り着いたという逸話もある。伊黒達柱はそれを知っているからこそ、遠夜が簡単には死なないという認識を持っている。
「しぶとさだけだがな。奴の実力は未熟の一言に尽きる。別に俺は奴がどうなろうと知ったことではない」
それでも、と伊黒は付け加える。
「あいつが死ぬことで、困る事は残念ながらある」
それがなにかは言わなかったが、巖鉄はそれが酷く深い言葉に聞こえた。
「ではいく。お前はここで待て」
「いえ、私も行かせてください」
「未熟者がいたところで足手まといになるだけだ」
伊黒は躊躇なく巖鉄の言葉を切り裂く。ここで下手に連れていくと足手まといになるどころか伊黒自身にも危険が降りかかる可能性がある。それをわかっているからこそ、伊黒は連れて行くことを拒否した。
「私のことは、お守り頂かなくて結構です。わかっております。私は、まだ十二鬼月を屠れるほどの実力はない。しかしただ死にに行く気もありません。この命を懸けて蛇柱様が頸を落とせるように尽力し、そして影柱様をお救いします」
巖鉄は伊黒にそう言った。
伊黒は巖鉄の目を見た。その目は金剛石のように硬い意思が宿っており、ここでさらに拒否しても勝手についていくと態度で示していた。
(…これ以上の問答は時間の無駄か)
半ば諦めに近いが、伊黒はそこで巖鉄の同行を認めた。
「だがお前が死にかけていても俺は助けない。助ける気はない。死ぬ覚悟はしておけ」
「はい、承知しております」
「巖鉄さん!」
巖鉄が伊黒の後に続こうとしたところで背後から玄弥が声を上げる。
「あ、あの…俺も…」
「駄目だ。お前は絶対についてくるな」
巖鉄に懇願しようとした玄弥の言動を切り裂くように伊黒が遮る。
事実、先の戦いで遠夜に深手を負わせている。それが玄弥にとって唯一の戦闘手段であったとしても、それが操られるという結果になるのならいない方がいい。伊黒はそう判断した。仮に操られるという事実がなくとも実力的に連れていけるようなものではない。遠夜を上回っている以上、敵の鬼は今までの下弦と比べてかなり高いものとなっている。さらには血鬼術の特異性を考えると、玄弥の実力で連れていける余裕はない。
「っ…」
「お前の実力で連れていける余裕はない。下手したらこちらが死ぬ」
「………」
「それに、お前に死なれたら俺が不死川に恨まれる」
「!」
不死川に弟がいることを伊黒は知っていた。そして、敢えて弟に会おうとしていないことも。
そこで下手に連れて行き死ぬようなことになっては不死川に合わせる顔がなくなるという思いもあったが、なにより厄介な能力を持つ鬼相手に操作される危険性のある玄弥を連れて行くことは利点があまりにも少ない。
「お前は弱い」
「……」
「だから今は耐えろ。己の弱さを自覚しろ」
その言葉に玄弥は目を見開く。伊黒の言葉は、玄弥にとって大きな意味があった。
悲鳴嶋の元で修行する際、よく悲鳴嶋に言われた。『己の弱さを自覚することが、強くなるための第一歩である』と。伊黒がそれを把握していたかはわからない。だが、この場で玄弥を下がらせるには最も効果的な言葉を伊黒は使った。
「…御武運を」
「ふん」
「ああ、必ず無道さんを連れて帰ってくる」
「…お願いします」
巖鉄は頷き、伊黒の元へと歩き出そうとしたが、すぐ目の前に伊黒がいたことに驚き立ち止まる。
「…おい、お前」
「え、あ、はい」
くるなと言われて跳ね除けられたばかりなのに声がかけられて、若干玄弥は戸惑う。
「確か、日輪刀と同じ玉鋼で作られた南蛮銃を持っていたな」
ーーー
「蛇柱様」
霊安室の扉の前まで来て巖鉄が伊黒に声をかける。
「怖気ついたなら帰れ」
「いえ、そうではなく」
「ならなんだ」
苛立ちを隠さず言葉を発する伊黒に若干気遅れするが、それをなんとか抑えて巖鉄は声をあげた。
「影柱様は…生きておられるのでしょうか」
「ふん、さっきは生きていると言ったが、死んでいる可能性も大いにある。どちらにしても奴がこの先で戦力にならんことは確かだろう。そもそもお前らの話から、今回の鬼は空間操作系の血鬼術らしい。なら既にこの場にいない可能性すらある」
「…そうですか」
「隠の連中がこの霊安室を見張っていたが、報告では鬼に動きはないらしい。つまり奴は逃げたか、または逃げる手段を持っているかだ」
能力的に後者の方だろうがな、と最後に伊黒は忌々しげに付け加えた。
伊黒は今まで無数の鬼を屠ってきたが、空間操作系の血鬼術を使う鬼はあまりいなかった。
だが、空間操作系の能力を使う鬼は総じて頭がいいか勘がいい。なぜそうなのかはわからないが、己の能力の使い方は得てして上手い者が多い。それら全てを屠ってはきたが、少なくとも伊黒では思いつかないような空間の使い方をする鬼はいた。尤も、片手で事足りる程度の数でしかないが。
今回の報告にある鬼の能力は非常に厄介な能力を持っている。衝撃波による攻撃、攻撃の無効化、瞬間移動、そして敵の固定。伊黒でなくとも苦戦を強いられるであろう能力だ。
だが放置するわけにはいかない。
十二鬼月である以上、放置すれば大勢の人間が死ぬ。
「いくぞ」
「はっ」
伊黒の言葉と共に巖鉄は霊安室へと足を踏み入れた。
*
「ふむ、新手か」
霊安室の更に奥へと進むと、白衣の男が居た。紛うことなき巖鉄達が敗北した黒条月慈だった。
「貴様が鬼だな?」
「そういう君は、見たところ柱か。まさか俺のために二人も柱を投入するとはな」
「殺す」
「ああもう少し待ってくれ。今貴重な実験の記録をしている最中なんだ」
「知るか」
蛇の呼吸 壱ノ型 委蛇斬り
「まったく…」
しなる斬撃を見ながら月慈…月詠は呆れたようなため息を吐く。
しなる伊黒の斬撃は月詠の肉体を透過し、さらに続く巖鉄の追撃も透過した。
「俺の能力をその巨漢から聞いているはずなのに、馬鹿正直に正面から来るか。少々失望した。だがその心意気は買おう。俺の弟にはなかったものだ」
蛇の呼吸 参ノ型 塒締め
蛇が対象を締め付けるような斬撃を伊黒は放つが、それも月詠の身体を透過した。
(…なるほど、本当に透過しているな。切った感触がない。だが黒磐の話では透過している間は移動ができないとのことだった。だが一度わざわざ空間固定の能力で二人を止めたことを鑑みると…
本当に透過能力の制約が移動制限だけなら攻撃を透過させた後の隙がある時に空間を固定した方がいい。その方が反撃の危険性は低くなるし、何より確実だ。
(だがその制約がわからん。それさえわかれば突破口は見えるが、逆に言えばそれがわからないうちは攻撃は無意味)
「考え事はいいが、こちらが待つ道理は無いぞ」
空間が歪み、そこから岩の礫が無数に降り注ぐ。
「ちっ」
「お任せを」
黒鉄の呼吸 伍ノ型 殲刀
前に出た巖鉄の刀が石の礫を弾き飛ばした。
「面倒だ」
「能力がかなり厄介です。しかし…」
「透過にも限界がある。加えて、空間固定には大きな制約があるのだろう。だが…」
人手が足りない。巖鉄からの話と今の戦闘で伊黒は一つの仮説を立てたが、それを行うには最低でも巖鉄程度に戦える人間がもう一人必要であった。
「黒磐」
「はい」
「時間を稼げ。奴を
「奴…?」
「やれ」
「承知」
伊黒が横に飛ぶと同時に巖鉄は月詠に向かっていった。
「まぁ待て。今重大な実験中なんだ」
「黙れ!」
「話を聞け、これはお前達にとっても大事なことだぞ?」
「なに?」
「鬼に、鬼を増やすことはできない。一部例外を除いてな」
(一部…?無惨のことか)
巖鉄の考えを遮るように月詠は続ける。
「その例外が問題だ」
振り下ろされる刀を回避しながら、月詠は手元の紙になにかを書いている。
(透過しない?何故だ?何故わざわざ回避する)
「その例外……
紙からふと視線上げ、なお攻撃を続ける巖鉄の刀を月詠の短剣が受け止める。
「やはり、人間とはいえ鬼殺隊。膂力は凄まじいな」
神威・発
「む!」
短剣が紅く光り、それを察知した巖鉄は即座にその場を離れる。
眼前を衝撃波のようなものが通り過ぎるのがわかる。
「色々実験を行ったため、わかることが多くなった。この前の実験は惜しかったのだが、どうやら被検体に素質がなかったようでな。だが今回は……」
そこで月詠はふと伊黒がいないことを思い出す。
視線を巡らせようとすると、巖鉄の刀が振り下ろされる。
黒鉄の呼吸 壱ノ型 斬鉄剣
「邪魔だ」
神威・発
「ぐっ!」
衝撃が直撃したが、先程と比べて威力は低い。吹き飛ばされはしたが、すぐに体勢を立て直した。
月詠は分娩台に寝かせられている遠夜の方を見る。そこには縞模様の羽織を着た柱が迫っていた。月詠としては実験途中の被検体を弄られることは避けたい。
「触れるな」
再び衝撃波が放たれるが、伊黒はそれを刀で切り裂く。
「なに?」
「やはりな」
血鬼術は日光に触れると消滅する。故に、日輪刀で切り裂くことで無効化できるものも存在する。必ず斬れるわけではないが、それでも斬ることで無力化できるものも存在する。月詠の本気の神威・発なら斬っても恐らく完全に無力化することはできなかっただろうが、今は伊黒の側に被検体となっている遠夜がいる。そのため被検体が被害を受けないように威力を抑えた。故に無力化できた。
「ちっ」
「余所見する余裕があるか!」
「ある」
巖鉄の動きが止まる。空間が固定され、巖鉄は指一本動かすことすらできない状態にされる。
(ここだ!)
伊黒は巖鉄の動きが止まったのを確認すると、懐から玄弥の南蛮銃を取り出し、放った。非力な伊黒はその反動に僅かにのけぞったが、放たれた銃弾は真っ直ぐ月詠に向かう。そしてすぐに遠夜に駆け寄り、産屋敷から託されていたあるものを取り出す。
「触れるなといった筈だ!」
血鬼術 神威
空間が歪み、銃弾は異空間へと消える。
その隙に伊黒は手に持った針の短い注射器を遠夜の腕に突き刺し、中身を注入した。
「実験中の被検体に余計なことを…!」
伊黒を異空間に飛ばそうと血鬼術を発動しようとした瞬間、背後の気配が動く。
「おお!」
「なに⁈」
振り下ろされた巖鉄の刀を短剣が受け止める。
(ちっ…縞羽織の柱に気を取られて空間固定が緩んだか)
視線のみを遠夜と伊黒の方に向ける。なにを注入したかは知らないが、大方肉体を活性化させるものだろう。遠夜の気配が大きくなるのがわかる。
「無道!起きろ!」
伊黒が顔を叩きながら声を出すが、遠夜の反応は無い。
いや、正確には薄い。指が微かに動いたが、起きる気配は無い。それに舌打ちをしながらなお伊黒は遠夜を起こすために奮闘する。
「早く起きろ馬鹿が!」
苛立ちの募る伊黒は傍らに転がる遠夜の刀を遠夜の顔のすぐ側に突き刺す。
「無道遠夜!」
伊黒が遠夜の名前を呼ぶ。
その瞬間、遠夜は目を開いた。
目を開けると、そこは何もない黒い空間だった。
「……ん」
どうなったかを思い出そうとして、そして月詠に負けたことを思い出す。最後の方は失血により意識が朦朧としていたため記憶があやふやだが、少なくとも月詠の頸を切断した記憶はない。
「そうか、俺は…兄貴に」
ではなぜ意識があるのかを不思議に思う。死んだのなら夢ではない。ならばここはあの世なのだろうかと考えた。
「あーあ、死んだのか俺」
そう言って再び目を閉じる。普段巻いてる目隠しが無い。意識だけの空間なのにも関わらず、自身が普段肌身離さず装備している目隠しがないのは少し違和感があった。
しばしそうしていたが、相変わらずなにも聞こえない。ただ静寂が流れるだけだった。
だがそこで声が聞こえてきた。
『月久』
かつての名を呼ばれて遠夜は目を開く。
「誰だ」
『誰、と聞くか。そうだな、誰でもないと答えるのが正解か』
遠夜は目を細める。そこには確かになにかがいる。しかし、その姿は見えない。
この謎の人物の口調は兄である月慈に似ているが、どこか異なる。
「…ここはなんだ」
『知る必要はない。ただ身体を明け渡せばいい。それだけだ』
「あ?」
身体を明け渡せ。そう言った。
つまりこの謎の声は自分を乗っ取ろうとしているということだろう。 だがこの言葉から自身はまだ死んでいないことの証明にもなる。まだ生きている身体だからこそ、この存在は自分を乗っ取ろうとしてきているのだろうから。
「まるで寄生虫だな」
『なんとでも言え。だが大人しく明け渡せば、それだけで力が手に入るぞ?お前が渇望してやまなかった二人の兄に追いつくことなど、実に容易い。お前にとっても悪い話ではないだろう』
(…そうか、この声は…俺の身体に侵入してきた『鬼の細胞』そのものか)
ぼんやりとだが、月慈になにかされたことを思い出す。それがなにかはわからないが、月慈のことだからなにか実験でもしたのだろうと遠夜は判断した。おおよそ鬼の細胞を移植でもしてのだろう。
「お前がなにかは知らん。とりあえず消えろ」
『そうもいかない。この身体の所有権を得るまではな』
「渡す気はない。失せろ」
『武器もなにもないこの現状でどこまで抵抗できるのだ?お前のような凡人が』
凡人。
その言葉は遠夜が自らに言い続けてきた言葉。
天才とは異なり、必要以上の努力をして漸く『ある程度』の領域に達することができ、そしてそれ以上になることができない存在。
その言葉に遠夜は口を噤む。
『お前の実の兄はお前以上の頭脳があった。学問的な意味でも、戦略的な意味でもお前は実の兄を超えることはできない。そして義理の兄。あれこそ真の天才だろう。視力という生まれながらの代償、と考えれば相応かもしれんが、視力以上のものを手にしていた。たとえ兄の真似事をして視力を封じて過ごしたとはいえ、それが手に入るわけもない。お前が持つものであの二人を超えるなど不可能だ』
「……」
なにも言い返さない遠夜に『声』は矢継ぎ早に捲し立てる。
『持つもので超えられないならどうする?それ以上の存在になればいい。ただそれだけだ。なにを迷う必要がある?』
それはまるで天から差し伸べられた救いの手のように聞こえた。
心の奥底で燻り続けていた黒い感情を、この『声』は理解している。
それは劣等感から来る『嫉妬』
心の闇など誰でも抱えている。その闇が最も強くなる感情が遠夜の場合『嫉妬』だというだけ。
この声は、それを言い当てた。
『お前はずっと満たされない』
「!」
『人間である限り満たされない』
「…だから鬼になれ、ってか?」
『そうだ。自らが満たされる手段が目の前にある。拒む理由などなかろう。空っぽなお前は、この手を取れば満たされる』
遠夜はずっと満たされなかった。
生まれた環境での扱いは悪く、愛情を注がれることはなかった。
そして日永に拾われてからも、日永と比べられる日々。無論正面から比較する人間はいなかった。だが人は同じ環境にいる存在を無意識に比較してしまう。悪意があろうがなかろうが、そういう人間が大半である。
比較され続け、そして常に下に見られてきた。
別になににおいても一番になりたかったわけではない。
ただ、誰かに褒めてほしくて、認めてほしかった。
自分が自分である確固たる証明がほしかった。
それは、名前の無い遠夜だからこそ抱く感情だった。
二人の兄に追いつきたかったのも、そんな子供らしい理由だ。
二人に追いつけば、何か『得られる』のではないかと思ったからだ。
ただ自分はそれを簡単に諦められるほど聞き分けがよく無く、理性で考られるクセに、理性よりも感情で動いてしまう。
それがどうしよもなく愚かに思えて、そしてそれを隠すために皮肉屋な仮面を被り、弱い自分を隠そうとする自分がさらに愚かに思えて仕方がなかった。
そんな己が満たされる日など来ないことくらいわかる。
足りない
足りない
努力が足りない
才能が足りない
なにもかも足りない
『お前は弱い』
その通りだと思う。
弱いからこそ、その弱さを隠すために修行に励んだ。強くなるためではなく、隠すために。
その時点で追いつけるわけがなかったのだ。
自分で必死に隠そうとしてきた事実を遠慮なく突きつけられて自嘲する。ハナから目的が違っているのだ。追いつけるわけがない。
所詮、自分がやってきたことは強い人がやってきたことを真似ているに過ぎない。真似てるだけでその強さが手に入るわけでもないのに、どうすればいいかわからなくてただ真似をした。
仮にそれで強くなったとしても、それは所詮『偽物』の強さ。
『手を取れ。こちらへ来い。そして本当の強さを手に入れろ』
そう言って暗闇から手が差し出される。
青白い手だ。鬼のそれとよく似ている。
「………」
きっと、この手を取れば強くなる。ある意味求めていた強さが手に入るのだろう。それも一つの選択だ。
だが、手を伸ばすことができない。
『才能が無い?無いなら無いなりにやれることがあるはずよ。私は諦めない』
勝気な口調の鋭い目つきをした少女の言葉が脳裏を過ぎる。
彼女は、優しい。いや、優しすぎた。両親や姉の望み通り一人の少女として生きていくこともできたはずだ。だが彼女の優しすぎる心の光は、同時に闇を生み出した。鬼への憎しみという闇を。
彼女は家族が心の底から好きだった。心の底から愛することができた。だからこそ、それを奪われてその心に影をもたらした。そしてその影は姉を奪われたことによりさらに深くなる。心の闇の根源は彼女の優しさが起点であるなど、皮肉な話だ。
その憎しみを鬼に対してぶつけることだけをできるのならできればどんなに楽だっただろうか。ただでさえ、彼女は才能が無く鬼の頸を切れない。殺すには毒という方法しかなかった。なのにただ憎しみをぶつけるのではなく、姉が理想としていた『鬼と仲良く』という思想を彼女はさらに背負い込んだ。
そうしてからの彼女を、自分はかつて『つまらない』と評した。
結局それも自らの弱さを隠しただけなのだろう。なんて愚かなのか。ここまでくるともはや笑えてくる。今までの自分はどこまでも道化のそれだった。
(…あれ、おかしいな。名前が思い出せない)
その少女の顔は思い出せるのに、名前だけどうしても思い出せない。精神世界での影響なのか、はたまた別の理由か。
『人間など皆愚かだ。そんな
「……かもな」
『そうだろう?お前は選べる者だろう?人間など皆無意味なものにすがり、そして執着し、常に人と比べなければ己を保つことすらできんのだから』
「そんなもんだろ」
『なに?』
「聞こえなかったか?そんなもんだろっつったんだよ」
『どういうことだ?』
「人間は、醜い。どうしよもなくな。誰かと比較して優越感を得たり、つまんねぇことにこだわったり、劣等感からしょーもねぇ意地張ったりとどーしよもねぇ。でもそんなもんだろ、人間なんて。どいつもこいつもどーしよもねぇ。無論俺を含めてな」
『ならばそれを超越すれば』
「でもな」
声を遮り、遠夜は続ける。
「でも、案外捨てたもんじゃねえんだ」
例えば、姉を亡くしてから一切弱音も涙も見せないで姉の代わりになろうとしている『少女』の在り方。姉にはなれない。それがわかっていながらも最愛の姉の遺した理想と、姉を殺した鬼への憎しみという相反する意思を宿しながらも、それでも『少女』は懸命に、そして全力で生きている。その生き様が例えその姉の望みとは異なるものであったとしても、『少女』は『自分』を封じ込めて生きる。
それを自分は『つまらない』と評した。それは、その生き方がとても美しく、そして自分には届かないものだとわかったからだ。どう足掻いても自分では『少女』のようにいきることはできない。
簡単な話、羨ましかったんだ。
その在り方が
その美しい生き様が
自分にはできない。そんな相反する意思を同時に宿しながらもそれを貫き通すなど、自分には多分できない。
「その美しさを見たらさ、人間もまだまだ捨てたもんじゃないって今思えたんだ」
『道化でしかないお前にそんな生き方はできん』
「そうだ、無理だ。そんな生き方はできねぇ。
声は答えない。だが明らかに雰囲気が変わった。
正直、この語りかけてくる声が鬼舞辻無惨である保証はない。兄の月慈である可能性も否定できないが、なんとなく遠夜はこの声が無惨であると感じた。根拠はないが、なぜかそう思えた。
尤も、遠夜のこの感覚的推理は外れていた。
本来、下弦の鬼に鬼を勧誘する権限は無い。故に月詠に鬼を増やす権利は無い。だから月詠が肉体の一部を遠夜の肉体に移植したからといって遠夜が鬼になることは無い。ただの毒として肉体を蝕むだけである。
今現在遠夜に精神世界で語りかけてくるこの声は鬼舞辻無惨の血、そのものであった。遠夜に埋め込まれた眼球は、月慈にとって血鬼術の要となる部位である。そのため新たに注入された無惨の血は、色濃く眼球に影響を与えた。その結果、無惨の意識(無惨本体にとって無意識ではあるが)と月詠の意識が統合し紛れ込むという事態が起き、さらにそれが遠夜に埋め込まれるという異例の事態が起こることで現在の現状へと至った。簡単な話、この『声』は無惨とめ月詠とも言えない『鬼』としての意識そのものである。
「そもそもな、なんで鬼になれば満たされるなんて断言できんだ?鬼も所詮人間が基となっただけの変異生物だろ?なら結局中身は人間と同じだろ」
『貴様…』
「結局人間は最後まで満たされない。悔いなく死ぬことはない。虚しく思えるかもな。でもな、生命とはいつか終わるものだ。生きるとは死ぬこと、生命とは苦しみを積み上げる巡礼。だから生命は満たされることはなくとも、それは決して死と断絶のものではないって、誰かが言ってたかな」
誰が言っていたかは、わからない。兄である日永だった気もするし、赤髪の人形師だった気もする。
言われた当時はよくわからなかったが、今ならよくわかる。死に直面した今だからこそ。
『限りある生命に価値などない。真に価値のあるものは、不変のものだ。なにも変わらないものこそ至高である』
「そんなもん生命じゃねぇ。お前、今はまだ日光で死ぬんだよな?なら忠告だ。それより先には行かねえ方がいい。日光でも死ななくなったらお前はいよいよ生命として数えられる存在じゃなくなる」
『黙れ。変わるものに価値など無い。そんなものはいつか塵芥になって終わる。いつか消えるとわかっているものになんの価値がある』
「それがわからねぇお前とこれ以上話す気はない。そもそもわかってたらこんなことにならんか」
思えば、ずっとわかってたのだと思う。それを認めるのが怖かったのだろう。認めたら、兄達のようにはなれなくなると思っていたから。
だがいざ認めてみたらどうだろう。今まで燻っていたものがとても楽になった気がした。この『声』を臆病者呼ばわりしたのに、自分もそれと同等以上に臆病者だなんて皮肉な話である。
「所詮偽物でも、俺は俺が積み上げてきたものを信じる。それしかねぇんだから。ちゃんと『
がしがしと頭をかきながら『声』に背を向ける。
鬼の元凶ともいえる存在(擬似的なものではあるが)に己の心について気づかされるなど柱として本来ならあってはならないのだろうが、そうなってしまったからには仕方がない。己の未熟さが招いた結果だ。
『どこへいく』
「んー、戻る?どうすればいいかはわからんが。あれ?ここもしかしてお前の血鬼術?」
『お前は私を殺さねば戻れはしない。血鬼術ではないが、ここは私がお前を乗っとるために創り出した』
「乗っとるため、ね」
なるほど、と呟くと遠夜は『声』に向き直る。
「なら、逆も可能なわけだ」
そう言いながら遠夜は声に向かって歩みを進める。
『…なに?』
「お前が俺を乗っとるための空間なら、俺がお前を屈服させて消すことも可能なわけだ」
そこから遠夜は『声』に近づきながらつらつらと話し始める。
「乗っ取るためにわざわざ精神世界なんか作ってんだ。つまり、乗っ取るためには心を折る必要があるってことか」
『なにを…仮にそうだとしても、既にお前の肉体に私は根付いている。除去などできんぞ』
「ならお前をぶちのめせば、俺の意思に反することはしなくなりそうだな」
口を三日月のような弧を描きながら遠夜は声に迫る。
「せめて、今どちらが上かは分からせた方がいいな」
暗闇に手を突き出し、中から黒い何かを引き摺り出した。
『人間のお前に、鬼の肉体を抑え込めるわけがないだろう⁈』
「玄弥がやってる。できないなら俺は死ぬだけだ」
『ど、どうやって抑え込むというのだ⁈』
「お前らがよくやってることだよ。残念ながらこれしか今は思いつかん。これが『人間として』間違った選択だとしても、生きて戻るためなら俺は手段は厭わない。鬼じゃなければなんでもいい」
遠夜は、その黒いなにかを思い切り叩きつけ、そして覆いかぶさった。
『お前にそんな力は!』
「知るかよ、死ね」
未だに喋る黒い何かを殴りつけ、手で引き裂く。
何度も何度も。
血のようなものが飛び散るが、知るかと言わんばかりに手を動かす。
遂になにも言わなくなった黒い何かを、遠夜はそのまま咀嚼した。
「まっず」
作られた精神世界はひび割れるように壊れていった。
遠夜の左眼が、紅く染まった。
***
「ようやくお目覚めか。無駄に時間をかけさせてくれたな」
伊黒は傍らに立つ男に忌々しげに吐き捨てる。
「随分と寝坊したみたいだ」
飄々と返す男に伊黒は更に視線を鋭くした。
「闘えるのだろうな。闘えないなら今ここで殺す」
「おいおい寝起きにいきなり殺すはねぇだろ」
「どうなんだ。お前と無駄に話す時間は無い」
「へいへい。ま、闘えるよ。傷は全く回復はしてねえけど、数分はいつも通りの動きができるだろうよ」
床に刺さる刀を抜きながら男はそう答えた。
「ならば俺の指示通りに動け。下手な行動はするな。死ぬぞ」
「また死ぬのは勘弁して欲しいねぇ」
「そろそろその無駄に軽い口を閉じろ、無道」
男、無道遠夜は口元を歪めながら刀を肩に担いだ。
「相変わらずなこって」
飄々としているが身体は割と限界なのがわかる。立っているのもやっとだろう。全身の傷は血は止まっているようだが、回復は当然していない。
左眼は抉られた痕が痛々しく残り血塗れであり、左眼周辺は青白い痣のようなものが出ているのがわかる。
そしてその左眼の瞳の色は右眼とは異なり、鬼のような真紅に染まっていた。だが鬼のような獣の双眸ではなく、人間の瞳の形状をしていた。
「お前は今どういう状態だ」
立ち上がった遠夜に月詠が問いかける。
「お前は鬼に成ったのか?それとも人のままか?」
「さぁ?だが人間を見て食欲はわかねぇなぁ」
「……なるほど、人のままか」
興味深そうに月詠は目を細め遠夜を見る。そして眼前の巖鉄に目を向けると、次の瞬間には遠夜の目の前に移動していた。
「…なるほど、確かに人間のようだな。とりあえずは」
「近えよ」
刀を振るうと再び月詠は瞬間移動し、多数ある分娩台の一つの近くに移動した。
「…おい」
「ん」
「どういう状態かは知らんが、起きた以上役に立ってもらうぞ」
「はいよ。どこまで保つかは知らんがな」
「…これがなにかは知らんが、お前に使えと御館様に言われた。勝手に使え」
そう言って伊黒は注射器を遠夜に投げて寄越した。
それを見て遠夜はわずかに細める。
「へえ、じゃあありがたく」
「ならやるぞ。いいな」
「ああ」
伊黒は月詠に向かい、遠夜は横から回り込むように迫る。
月詠に迫る瞬間、伊黒は指文字で断片的ではあるがあることを伝えた。
「指文字か」
「黙れ」
蛇の呼吸 弐ノ型 狭頭の毒牙
影の呼吸 肆ノ型 絶影
「…ほう、動けるか。これは…」
月詠は二人の攻撃を透過させ、無効化する。
「ふん!」
背後から迫る巖鉄の攻撃を空間転移を行うことで回避。
だがそこにすかさず伊黒の攻撃か襲う。月詠は伊黒に視線を向け、伊黒の攻撃を透過した。
遠夜が背後から気配を消して不意打ちの如く迫る。だが衝撃波で攻撃に移ることを防ぎ、遠夜に距離を取らせた。
(やはり、か)
「っとと」
「休むな、攻撃を続けろ」
「人使いが荒いねぇ」
全身が軋むのを感じながら遠夜は走り、刀をかつて兄であったものに振るう。防がれ、透過され、いなされる。そのやりとりをしているうちにあることに気がつく。
(…兄貴の氣が見えない。隠してるのか?)
鬼は基本的に人間が基となっているもの故に鬼にも氣は存在する。使い熟せていようがいまいが存在はしてしまう。
だが絶を行うように、隠すことはできる。意図的かどうかはわからないが、月詠が氣を隠していることは確かだろう。
(なら…)
目に氣を集中し、凝を行う。
だがそれでも月詠の氣は見えなかった。
(絶?いや、戦闘中に絶を行うのは不意打ちの時だけ。伊黒の攻撃も俺の攻撃も気配は限界まで消している。なのに感知される…まさか?)
遠夜は一つの仮説を立てた。
この仮説が正しければ、伊黒の仮説と合わせて月詠の血鬼術の攻略に近づくと考えられる。
加えて、意識が戻ってから気になっていたことを試すいい機会かもしれない。
「伊黒、黒磐」
衝撃波を回避し隣に着地した伊黒は遠夜に視線だけ向けて続きを促す。
巖鉄は遠夜の傍に駆け寄る。
「ちと考えがある」
ーーー
「話は終わったか?」
伊黒と巖鉄に作戦を伝え終わったところで月詠はそう問うた。
「ああ」
「ふむ、どんな作戦を立てたかは知らんが、その身体でどこまで闘える」
「本来ならそろそろ限界だろうよ。でもまぁもう少し動かないとまずいんでな」
そう言って遠夜は懐から伊黒に渡された注射器を取り出し、自らに注射した。
「……なるほど、そういうものか」
「察しが良すぎるのも考え物だな、兄貴」
「闘うことを考えればそれが最善だろう。医師として言わせてもらえば、勧めはしないがな」
「なーにが医師としてだ、化け物」
「無道」
「わかってるよ」
伊黒に釘を刺され遠夜は刀を構える。
そして目にも留まらぬ速さで月詠に迫る。
「…ほう、それほどとは」
遠夜の刀は透過され、空を切る。
「伊黒、黒磐」
「俺に命令するな」
「御意!」
影の呼吸 参ノ型 無辺
蛇の呼吸 壱ノ型 委蛇斬り
黒鉄の呼吸 壱ノ型 斬鉄剣
囲むように同時に放たれた攻撃を確認して、月詠は透過は不可能と判断し空間転移を行おうと血鬼術を発動させようとする。
違和感
(…!)
己の失策に気付き、咄嗟に自らに衝撃波を放つことでどうにか直撃は回避したが、伊黒の刀が月詠の左腕を奪った。
「…これは」
再生する左腕を見ながら月詠は遠夜に視線を向ける。
「なにをした、月久」
「あんたの血鬼術の制約を利用したまでだ」
「…ほう、気がついていたか」
「あんたの血鬼術の制約は、二つある。透過に限り三つかもしれんが」
月詠の血鬼術、神威は二つの制約がある。
通常の神威は自ら、または対象となる物体が月詠の『感知範囲内』であり、かつ視認している対象にしか使用できないという制約があった。血鬼術によって形成された異空間に収納されているものと自分自身であれば後者の制約は無効となるが、対象を異空間に引き摺り込むためには視認している必要がある。
「視認の制約は伊黒くらい頭が回る奴ならすぐにわかるだろうよ。だが感知範囲の制約は、多分俺でなきゃ無理だ」
「感知範囲?」
「俺は普段、目隠しで視覚を封じているのにもかかわらず戦闘まで行える。なぜか?悲鳴嶋さんのように音で判断できる程俺の聴覚は良くない。じゃあなにで周囲の状況を理解しているか。影の呼吸の流派では『氣』と呼ばれるものだ」
「氣、だと?」
「どんなものか理解する必要はない。とりあえずこれを身体に纏い応用することで周囲の状況を完全に掌握することができるってことをわかれ。そしてそれをお前も使っているんだろう?兄貴」
「氣、と呼ばれるものであることは今初めて知ったが、その通りだ」
月詠は遠夜と同じ『氣』の高等技術である『円』を今いる地下空間全体に張り巡らせていた。故に、感知範囲はこの地下空間全体に及ぶため血鬼術の有効範囲はこの空間全域であった。
「だがその感知範囲領域を瞬間的でも失くしたら、お前の血鬼術は使用できなくなる」
「理屈はわかる。どうやった、それが問題だ」
「知ってるか?より濃い円を張り巡らせて中に別の人間が円を行うと、その範囲は感知できなくなるんだぜ?」
遠夜が行なったのは、斬りかかる瞬間に遠夜が円を広げ、そこに月詠を巻き込むことで感知範囲の制約を発動させ、空間転移による瞬間移動を不可能にしたことだった。
「なるほどな」
「透過の制約はそこに移動不可が追加される。空間固定は視認の制約が無い代わりに多分お前に負担がかなりかかるんだろ。だから多様しない。鬼の肉体も無限に回復できるわけでもないからな」
「いい考察だ。そしてその考察は正解だ。頭は鈍っていないようだな」
(ま、これがわかったところでそれを警戒してもう寄らせないだろうよ)
手の内が知られた以上、それを警戒するのは自明の理。当たり前といえば当たり前である。
「伊黒」
「なんだ」
「お前の策で行く。だが俺の身体は保ってあと五分だ。全力の動きはそれ以上は無理だ」
「……なら畳み掛けるぞ」
「ああ。でもただ攻めるだけじゃダメだ。もう俺らの戦い方は知られている。だから変則的に行く」
「変則的?」
「お前らは通常通りにやれ」
「俺が、別の呼吸を使う」
ーーー
「む」
三方向に分かれて向かってくる遠夜達を見て月詠は内心で警戒度を上げる。
(ばらけるか、虚空対策としては当たり前のものか。だが全員の戦闘様式は確認した。月久の瞬間的な感知領域拡大も警戒していれば恐るるに足らない。なにより月久は死に体。数分粘れば倒れる)
遠夜達はそれぞれ戦闘様式が異なるが、月詠の制約を利用するにおいて最も重要な要素が欠けている。
それは速度。
無論全員鬼殺隊故に一般人と比較してかなり速い方ではある。しかし呼吸の型において速度を重視した呼吸は、今いる者達の中にはない。少なくとも月詠が感知できないほどの速度を持つ者はいなかった。
故に、常に距離を保ち続ければ自ずと勝利は近づく。
(縞羽織の男は絡め手の斬撃だが、速度はそれほどない。月久も斬撃の速度は大したものだが、奴自身はさほど速度は無い。巨漢は威力特化。恐るるに足らん)
そう考えたところで遠夜に視線を向ける。距離はさほど無いが、この距離ならば空間転移で即座に反撃が可能だろうと月詠は考えた。
だがここで違和感。
鬼殺隊は『呼吸』を使用することで身体能力を爆発的に上げる。その呼吸音は、使用する呼吸によって異なる。
先ほどまでの遠夜の呼吸音と、今の呼吸音が異なるものとなっている。先ほどまでは隙間風が吹き抜けるかのような音だったが、今はまるで蒸気が吹き出しているかのような呼吸音になっている。
(これ、は?)
嫌な予感がした。
そしてその予感は的中する。
風の呼吸 壱ノ型 塵旋風・削ぎ
強烈な風を纏いながら先程よりも遥かに速い速度で突撃してくる遠夜に反応が遅れ、完全に回避しきれず月詠の右腕が削られた。
続け様に伊黒、黒磐の攻撃が放たれるがそれを空間転移で回避し、血鬼術の衝撃波を多数放つ。
それを確認した遠夜は呼吸を変える。
水の呼吸 参ノ型 流流舞い
流れる水の如き足運びで衝撃波を受け流しながらも月詠に迫る。
その際、回避しきれず衝撃を刀で受け、刀の鍔が割れた。
「もういっちょ」
水の呼吸 弐ノ型 水車
衝撃波を回避しつつ、縦回転の広範囲の斬撃で月詠に攻撃をしかける。寸前で回避されたが、月詠の余裕を奪うには十分だった。
影の呼吸 伍ノ型 月影・初太刀
弐撃
参刀
肆刃
伍突
最初の三連撃から放たれる続け様の攻撃は頸には至らないものの的確に月詠の身体を削っていった。
「こいつ…」
さらに連撃を加えようとしたところで空間が歪み、多数の刃物が遠夜達に向けて放たれる。
伊黒は巖鉄の斬撃によって作り出された岩の壁に身を隠し、刃をやり過ごす。
『心を燃やせ。それが我らの力になる!』
炎のような髪を携える男の後ろ姿を思い出しながら、更に遠夜は呼吸を変える。
炎の呼吸 肆ノ型 盛炎のうねり
遠夜は烈火の如き斬撃でその刃の雨を打ち払う。
「影柱様は、多数の呼吸を使えるのですか…?」
その様を息を飲む様子で見ていた巖鉄は伊黒にそう問うた。本来、自らが使用する呼吸以外の型を使う者はいない。なぜなら十全に力を発揮できないからだ。鬼という身体能力が遥かに格上の存在に対して出し惜しみなどする余裕は本来無い。そこでわざわざ合わない型を使用する意味は無い。
「…普通はできん。だが奴は人真似が異様な程上手かった。だから合わない呼吸でもある程度使いこなせる」
「そんなことが…」
「刃の雨が止んだ。行くぞ」
「は、はい」
遠夜は、昔から人真似が上手かった。それ故か、型はほとんどすぐに真似ることができた。例えそれが別の呼吸の型であっても。
だが所詮は合わないものを無理やり真似ているに過ぎない。よって威力は極めた者と比較して多く見積もっても七割、加えて肉体への不可も大きい。さらに今のように多数の呼吸を続け様に使用するのは、限界を超えた肉体に更に負荷をかける。活動限界までの時間を縮めることに他ならない。
だから今すぐにでも決める必要があった。
それを伊黒は理解していた。だからその負担を減らすために、即座に攻撃に移った。
伊黒が立てた案は至極単純。
全員で絶え間なく攻撃を続けること。
月詠の血鬼術の制約を利用する以上、当然の策ではある。
しかし月詠は非常に頭が良いためこちらの攻撃の癖を理解してしまう可能性があり、それを見破られると非常に厄介だった。
それを考慮した遠夜は見真似でできるようになった他の呼吸を利用することでこちらの呼吸を分析される前に倒すことを考えた。
(想像以上にきついな…今にも血を吐きそうだ。比較的負担の少ない水の呼吸ならともかく、攻撃力の高い炎と風はきつい。身体が元より限界に近いこともあるし、保ってあと三分ってとこか)
悲鳴をあげる全身に鞭打ち、多数の呼吸を使い分ける。
「くっ」
「余裕なくなってきたんじゃねぇか?兄貴」
「それはお前だろう、月久」
「おお!」
「死ね」
黒鉄の呼吸 伍ノ型 殲刀
蛇の呼吸 参ノ型 塒締め
同時に放たれる異なる斬撃が更に月詠の余裕を奪う。
「邪魔、だ!」
血鬼術 神威・発
全方位に放たれた衝撃波を防ぎきれず巖鉄は弾き飛ばされる。伊黒は刀で上手く受け流したが、衝撃を殺し切れず膝をつく。
(これ受けたら死ぬな)
そう感じた遠夜は咄嗟に下がるが、ここで完全に下がっては奪えた余裕が戻ってしまう。そして遠夜の肉体はこれ以上長引けば、動かなくなる。
ここで決めるしかない。
そう判断した遠夜は衝撃波を刀でいなし、足に最後の力を込める。
「黒磐ぁ!」
巖鉄に呼びかけた。
呼びかけの意味を瞬時に理解した巖鉄は傍にある壁として利用していた岩を斬り裂き、蹴り飛ばすことで礫として月詠に飛ばした。
血鬼術 神威
その礫は歪められた空間により吸収され、消えていった。
だが空間に飲み込まれずそのまま月詠の横を通り過ぎようとした岩塊の影に潜んだ伊黒がそこから姿を現し、攻撃をしかける。
蛇の呼吸 弐ノ型 狭頭の毒牙
「ちぃ!」
咄嗟に空間転移で退避する。
だがそこには既に遠夜が迫っていた。
『鬼の事情なんぞ知るかァ。鬼は皆殺しにすればいいんだよォ』
傷だらけの男の言葉が脳裏に過ぎる。
風の呼吸 壱ノ型 塵旋風・削ぎ
「な」
強烈な風を纏いながら放たれた遠夜の袈裟斬りが月詠の身体を斬り裂くが咄嗟に背後に飛んだ月詠は頸を落とされることだけは免れた。
(はやく、空間転移を…)
空間転移を行うために血鬼術を発動しようとする。
だがその瞬間、遠夜は自らの氣を広げ、その円の範囲内に月詠を入れることで瞬間的に月詠の感知範囲を完全に無くした。
「こい、つ!」
転移できないことを瞬時に理解した月詠は衝撃波で遠夜を飛ばそうと前方にいるであろう遠夜に意識を集中しようとした。
「させるか」
膝をついたまま伊黒は懐から南蛮銃を取り出し、月詠に放つ。その銃弾が月詠の頭蓋骨を砕き、血鬼術を中断させる。殺せはしないが、時間は稼げる。
ならば直接叩くまでと短剣を取り出し眼前に迫るであろう遠夜に向けて視線を戻した。
だが目の前に遠夜はいなかった。
そして気づけば胴体が袈裟斬りされていた。
その事実に思考が一瞬停止した月詠は視界に影が落ちることがわかる。
そして次の瞬間、二度の斬撃が月詠の身体を襲った。
一度目の斬撃は月詠の胴体を斬り裂き、そして二度目の斬撃は月詠の頸を飛ばした。
影の呼吸 漆ノ型 影落とし
遠夜が考案し、そして他の呼吸の足運びを利用することで辿り着いた遠夜だけの型。
その型は、過去の兄達の真似のみをしてきた自らの在り方を、そして『黒条月久』というかつての自分とともに遠夜はかつて兄であった鬼を屠った。
ーーー
「……ぐ、う」
月詠の頸を飛ばしたことを確認すると、遠夜は血を吐き倒れ込んだ。それを巖鉄が済んでのとこで受け止める。
「影柱様!」
「……わり」
「無茶しすぎです」
「無茶しなきゃ、勝てん」
仮にも柱の実力を持つ遠夜が一度は敗北する程の鬼。それを屠れただけ無茶をする価値はあったと遠夜は考え、そして伊黒や巖鉄も同意見だったが、素直に認めるにしては遠夜は肉体を酷使しすぎた。小言を言われても反論はできないだろう。
巖鉄の肩を借りながら崩れ始めた頸に視線を向ける。
「…兄貴」
「いくつか、聞きたい」
死に際であっても態度を変えない兄、黒条月慈であった鬼を感情のこもらない目で遠夜は見て、続きを促させた。仮にも血を分けた兄。最後の言葉を聞きたかった。
「最後のあの攻撃、あれはどうやって俺の視界から消えた」
「…人間の視線ってのは、上と下には移動しづらい。それを利用してお前の視界から外れただけだ」
古武術に『膝抜き』と呼ばれる技術がある。膝の力を滑らかに抜くことで予備動作を消すことができるものであり、それを近接で行われると視界から消えたようにも見える程になる。遠夜はこれを水の呼吸の要領で行い、意識が僅かに伊黒に向いた瞬間を見計らい、さらに瞬間的に絶を行いながら月詠を飛び越えることで月詠の視界と意識から完全に消えて背後に回り込んだ。
「なるほど、人としての特性を利用したわけか。その特性を知っていれば、回避できたかもしれん」
「……かもな」
「ふむ、他人の力を借りたとはいえ、初めてお前に負けたな」
「…ああ」
「だが、思いの外悪い気はしない。寧ろ清々しいまであるな」
清々しい、と言っているのに相変わらず表情は無表情であるためとてもそうは見えないのだが。
「…兄貴……いや、月慈」
「ほう、お前に名前を呼ばれるのはもしや初めてか?」
「かも、な。俺、あんたに憧れてた」
「そうか」
「でも、あんたはもう俺の憧れじゃないらしい」
「……」
「俺は、
肉親としての兄、そして義兄としての兄の二人に向けた言葉だった。
もう、その
自分は自分だ。一人で歩いていける。
その思いを込めた言葉だった。
「ふん、言うようになったな。いいだろう。どの道俺はここまでだ。あとはお前の眼となり、この先のお前を地獄で見ていてやろう」
切られた頸はもう半分も残っていない。なのにいつも同じ態度をする兄にわずかに呆れる。自分も大概人でなしだが、この兄程ではないだろうと遠夜は思った。
「ああそうだ、最後に」
残された数字が刻まれた右眼が崩れ始めたところで月慈は最後の言葉を口にする。
「その左眼、上手く使え。
「…ああ」
短く答えると月慈は目を閉じた。
そしてそれ以上何も言うことはなく、月慈は完全に消滅した。
「…最後まで人間味のねえ人だったな」
終わったことを自覚した瞬間、薬が切れて感じなくさせていた疲労や激痛が一気に戻り、止まっていた血も出血し始めた。
「影柱様!」
「すぐに応急処置だ」
「はい!」
巖鉄が遠夜を抱えて出口に向かいつつ、伊黒が手早く傷を塞ぎ処置を行う。
遠くなる意識の中、二人ではない声が確かに聞こえた。
それの選択は本当に間違いじゃなかったか?
誰かが脳裏で嗤った。
その声の真意はわからない。そしてその答えも、今はわからない。
だがその声を聞きながら遠夜は目を閉じる。
(次に目を覚ますことがあるのなら、その時は覚悟しておいた方がいいかもな)
漸く名前を思い出せた少女の姿を脳裏に浮かべながら、遠夜の意識は闇に落ちていった。
遠夜の見真似について
大体手合わせした時に真似できるようになった。不死川だけ手合わせした描写はないけど過去に一度だけした。一度だけだったからできる型も三つ程度。熟練度は使いこなすには至らない程度。
この見真似がうますぎるが故に変なクセがつかないようにするために日永は遠夜に視界を塞がせたという裏設定もあったりする。
眼球移植について
実際はこんなぽんぽんできないと思うけど鬼の肉体なら侵食しようとするのではないかという考えから。なお、遠夜が精神世界で心を折られた場合、月詠は珠世さんが愈史郎くんを鬼にした要領で遠夜を鬼に変えてた。無惨様ブチ切れそうだけど柱を鬼にしたから許してくれる。
漆ノ型 影落とし
対象が他に意識を向いた瞬間、風の呼吸の要領で勢いよく距離を詰め、まずは胴体に袈裟斬り。こちらに意識が完全に戻る前に水の呼吸の歩法で飛び、視界から外れる(この時対象が大きければ下、自身と同程度又は小さければ上に飛ぶ)。思考が一瞬遠夜を見失ったことでフリーズしたとこを二度の斬撃で頸を飛ばす。
ぶっちゃけ二話にわけてよかったと思ってすごく反省してます。
分岐ルートどちらから?(最終的にはどちらもやります)
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鬼化ルート(2〜3話で完結)
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通常ルート