「はぁ〜……」
普段とは打って変わって気の抜けたような声を遠夜は上げる。
「いやぁ、随分気の抜けた声っすねぇ遠夜サン」
顔の左半分が火傷のような跡で覆われた男、陽明黒雨はただれた頭を撫でる。
「……こんな風に気を抜いてられるのも、久々なんで」
「それもそうっすねぇ。先日は先日で鳴海サンが凄かったですから。母は強しってことですかねぇ」
「あんな怖い母親がそんなごろごろいてたまりますか」
「あっはっは!それもそうっすね!ちなみに、貴方の母君はどうでしたか?冨岡サン」
そう言って隣にいる長髪の男、冨岡義勇に目をむけた。
「…………俺の母も、強い人だった。姉がよく似ていた」
冨岡は少し考えるような素振りを見せながらそう答えた。
「へぇ、お姉さんはお母様似だったんすねぇ」
「あまり、記憶にはない。両親は物心ついて少ししたら亡くなった」
「おっと、そいつは失礼」
「…………」
「知ってることを言うのは意地悪いんじゃないんすか?」
「そうとも言いますね」
そう言いながらくつくつと陽明は笑った。
「あんたは、昔から変わらないな」
「そっすか?」
「そう見える。少なくとも、初めて会った時とは変わっていない」
「くく……そういう冨岡サンは、昔よりも無口になりましたね。なにかあったんですかい?」
そう言われた冨岡はなにも言わない。ただ心なしか、その瞳には哀しい光が宿っていた。
「ま、鬼殺隊に居て何もない方が珍しいですか。さて、あっしはそろそろのぼせそうなんでお先に上がらせてもらいますわ」
言いたいことだけ言って陽明は温泉から出て行った。
風呂場には冨岡と遠夜だけが残された。
「冨岡さんは、あの人と知り合いだったんですね」
「…………あれは、8年前のことか」
「長。そんな前なんですか」
「俺の師である鱗滝さんの、後輩らしくてな。俺が修行時代に一度会った」
「へぇ、それはそれは。確か、あの人もともと水の呼吸の使い手でしたね」
「初めて会った時既に柱は引退して、情報屋になっていたがな。その後何度か顔を合わせている」
「あんな食えない人とよく長く付き合い続けられますねぇ」
「好き好んで続けているわけではない」
「でしょうね」
義勇はもともと人との距離の取り方が上手くない。いや、もはや下手であると断言できるレベルだろう。そんな義勇に陽明のように飄々としてなにを考えているのかよくわからないような人間の相手は苦でしかないはずだ。
尤も、それは義勇だけでなく遠夜にも言えることだ。遠夜は自らの心を表に出さないようにしている。自らの内心を悟られたくないからだ。だがあの陽明という男はまるで内心どころかそのさらに奥まで見透かすような態度と言動をほのめかすことがある。遠夜からすれば恐怖でしかない存在でもあるためあまり関わりたくはないのだが、向こうがやたら絡んでくるし、そもそもあの男の持ってくる情報は信憑性が非常に高い。柱という立場上関わらざるを得ないような状況が多い。
「あの人は御館様よりも怖えですわ」
「…………」
産屋敷は根拠のない直感や先見の明といったような常人ならざる勘の良さがあるが、陽明はそれとは違い根拠や理屈に基づいた勘の良さがある。人のふとした仕草や言動等から相手の心理を探り当てる。質の悪いことにそれらは非常に良く当たるし、加えてあえて人の触れられたくないとこを突いてくることがある。遠夜も相手を煽るためによくそういうことをするが、陽明は煽りではなく合理的に物事を判断した上でそういうことを行うため反論ができないことが多々ある。先ほどのはどのような心理なのかは不明だが。
「……ほんと、厄介な人だよ」
「大いに同意する。鬼殺隊にあれほど厄介な人物は他にいないだろう」
「なんだ冨岡さん、今日は珍しく饒舌じゃないですか」
「……そうかもな」
義勇は温泉の湯で顔を洗うとこう言った。
「温泉など、随分久しぶりだからかもしれない」
「基本、柱は休みらしい休みなんてないですからね」
「……だからそこ、御館様の配慮なのだろう」
「ほーんとできた上司ですわ。でき過ぎてて人間味がないけど」
「…………」
義勇は遠夜を見る。普段と違い手拭いを外しているため、遠夜の瞳が顕になっている。見たところ、盲人というわけでも無さそうだが、どこか特殊に見える。根拠はないが、『なにか』が違うように思えた。
「無道は」
「ん?」
「目が、変なんだな」
「ははっ、なんすかいきなり」
「そう感じただけだ」
「そうですか。否定はしませんけど、それかなり失礼なこと言ってるって自覚あります?」
心外!とでも言いたいような表情を向けられるが、実際その部分だけならば少し失礼なことを言っている。口下手な義勇のことを知っている遠夜だから流せるが、全く知らない人からしたら喧嘩を売っているようにしか聞こえない。
「普段視覚を塞いでいる主な理由は修行なんですけど、ちょいと俺の目が特殊だったんで師である兄に塞ぐように言われたんですよ」
「…………日永か」
「同時期に柱でしたもんね、冨岡さん」
「……お前たち兄弟と任務に出た時は、だいたい何か起こる」
「疫病神扱いするのやめてもらえます?」
「いや……」
「わかってますよ、そういうつもりで言ったわけじゃないことくらい」
義勇は、陽明は陽明で相当意地悪で皮肉屋で掴み所のない性格だと考えているが、遠夜は遠夜で相当なものだと思った。
「兄さんの時はなにかあったんですか?」
「日永との任務は、ほぼ必ず十二鬼月の下弦が出た。元より数回しか共に任務をこなしたこともないのに、だ」
「それは災難ですねぇ」
柱の任務は十二鬼月の殲滅など難易度の高いものが多いが、必ずしもそうとは限らない。厄介な鬼や、多数の鬼を相手にするような任務も無論存在している。毎回十二鬼月に遭遇するなど、運が良いのか悪いのか。
「お前とは、違う」
これも聞く人次第では誤解を招きそうだと遠夜は思った。
「でしょうね。冨岡さんが言ってるのって、あの二年半前のことでしょ」
「ああ」
「冬、でしたね。一家全員惨殺されて、たまたま外にいた長男だけ生き残った。そして妹は鬼になった」
「…………」
***
二年以上前
雪が積もっている山道を走る。全集中の呼吸で強化された身体能力ならば雪が積もっていようが普段の速度と大差ない速度で走ることができるが、それでも走りにくいことに変わりはない。少し煩わしく思いながらも目的となる場所まで全力で駆けた。
鎹烏の伝令で付近に鬼舞辻無惨がいる可能性が伝えられて駆けつけたが、雪で足止めをくらってしまい到着が1日ほど遅れた。
鬼舞辻無惨はすぐに行方をくらませる。だから早急に到着したかったのだが、これほど遅れてはもう現地にはいないだろうと義勇は考えていた。
そしてこの任務は少し前に柱へと至った義勇より一つ下の青年との合同だった。合同の理由として、青年が近くにいたことと相手になるのが鬼舞辻である可能性があることが挙げられる。
青年の名は、無道遠夜。先代影柱の無道日永の義弟らしい。
遠夜は身軽さが売りらしいため雪が積もっていない木々を飛ぶように伝いながら現地に向かっていった。これほど遅れては、残念ながら現地にいる人間は殺されているか、鬼にされているかの二択だろう。望み薄だが、速く動ける遠夜を先行させた。
視覚を塞いだままあれほど速く、軽やかに動ける遠夜に感心しながらも義勇は現地へと急いだ。
ーーー
義勇が現地に到着すると、遠夜は木の枝に腰かけていた。
「無道、状況は」
そう義勇が聞くと、遠夜はあごをしゃくって義勇に視線を促す。そこには少女を担ぐようにして引き摺る少年の姿があった。少女の服は所々血がついている。
どうやら間に合わなかったらしい。
このような光景は何度も見てきた。いつまで経っても慣れはしないが、それでも同じような悲壮な光景への耐性は残念ながら多少なりとも付いてしまった。
「…………」
「あの娘、多分鬼になると思いますけどどーします?」
まるでどちらでもいいような口調で言う遠夜の言葉に返す言葉はない。いや、返す必要はない。
自分達は鬼殺隊。ならば、その役割を全うするまでである。
「あ」
素っ頓狂な声がしたと思ったら、背負われた少女は突然暴れ出し、少年もろとも崖の下に落ちていった。
「…………」
義勇が自らの過去の傷が呼び起こされ、胸の奥に鋭い痛みが走ったように感じたがそれを無視する。
「いくぞ」
それだけ言って義勇は再び走り出した。
「…………」
絶を解いて、纏に切り替えると遠夜は義勇の背中を追った。
義勇が少女と少年に追いつくと、少女は少年に覆いかぶさっていた。よく見ると先程よりも少女は大きくなっているようだった。
「あー、鬼になっちったか」
「…………」
なにも言わずに冨岡は飛び上がる。そしてそのまま鬼と化してしまった少女の頸を落とそうと振りかぶる。
「っ!」
それに気づいた少年は、少女の頸を掴んで横に転がる。束ねていた髪は切られたが、義勇の刀が少女の頸を落とすことはなかった。
「ほう」
素人の咄嗟の判断としては上々なものだろう。
義勇は感情のこもらない瞳を少年に向けた。
「…なぜ、庇う」
「妹だ…俺の…妹なんだ!」
義勇はなにも言わない。
少年に抱えられた少女はうめき声を上げると、少年の腕の中で暴れ始めた。
「くくっ、こいつはぁ面白れぇ。そんなろくに話すこともできない獣のような奴が妹とは」
少年の真上にある木の枝の上で胡座をかきながら遠夜は皮肉げにそう告げた。
「それでも!俺の妹だ!っ!禰豆子!」
「……それが、か」
なおも暴れ続ける少女に少年はまともに身動きが取れない。
そして義勇がそれほど大きな隙を見逃すはずがない。高速で少年に迫る。
「っ!」
咄嗟に少年は少女に覆いかぶさった。
そして次の瞬間には少女は義勇に拘束されていた。
「そいつは悪手だろ、少年」
そう呟く遠夜の声は少年には聞こえない。ただ困惑し、妹の少女を探した。すぐに少女は見つかったが、その時には既に義勇に拘束されていた。
「禰豆子!」
「動くな」
「っ!」
「……俺の仕事は、鬼を斬ることだ。当然、お前の妹の頸もはねる」
「待ってくれ!禰豆子は誰も殺してない!」
「はは、今し方殺されそうになってた奴がよく言う」
「それでも!まだ誰も殺してない!家には嗅いだことのない知らない匂いがあった!なにがあったかはわからないけど、でも!皆を殺したのはそいつだ!禰豆子も……なんでそうなったかはわからないけど!」
「簡単な話だ。傷口に鬼の血を浴びたからだ。人喰い鬼はそうやって増える」
「禰豆子は誰も殺さない!」
「…………先程殺されそうになっておきながらよく言う」
それさっき俺が言ったんだけどなあ、と考えたがそれは口にしなかった。
「禰豆子は!俺のことはちゃんとわかるはずだ!俺が誰も傷つけさせない!俺が禰豆子を人間に戻す!俺が治します!」
「治らない。鬼になったら人間に戻ることはない」
「探す!必ず探し出す!家族を殺した奴も見つけ出すから!だから!家族を殺さないでくれ!俺が全部ちゃんとするから!だから!」
まるで血を吐くようだと他人事のように遠夜は思った。
鬼殺隊に入ってからこのような場面は残念なことにごまんと見てきた。仕方のないことだが、彼らにできることはない。鬼殺隊の歴史の中でもこのような状況から鬼殺隊の隊士になったという隊士も多いことだろう。
この少年も、これが原因で鬼殺隊に入るのだろうか。そんな関係のないことを遠夜は考えながら義勇の行動を待つ。
「やめてくれえぇぇ!」
その叫びを聞こうともせず、義勇は刀を少女に向けた。
そしてその刀が少女を貫く前に、少年は頭を地面に擦り付けた。
「……お願いします。やめてください……どうか、どうか妹を殺さないでください……お願いします」
嗚咽が混ざった声だった。
見たところ、この少年はまだ12か13といったところだろう。家族をわけもわからず一瞬で失い、そして残された妹も人ならざるものに変化してしまい、殺されそうになっている。この歳の少年には、あまりにも辛すぎる経験だ。茫然自失になってもおかしくないものだというのに、まだそう懇願することができるだけこの少年は強いのかもしれない。
だが、その言葉と行動は義勇には届かない。
義勇の気配が一気に怒りのものに変化する。
「生殺与奪の権を、他人に握らせるな!」
「はっ!」
「惨めったらしく蹲るのはやめろ!そんなことが通用するなら、お前の家族は殺されていない!奪うか奪われるかの時に、主導権を握れない弱者が、妹を治す⁈仇を見つける⁈笑止千万!弱者には、なんの権利もない!悉く、強者に捻じ伏せられるのみ!」
義勇がこれほどしゃべるところを初めてみた遠夜は小さくほぅ、と声を上げる。今回の合同任務で初めて組むが、義勇は基本言葉を発しない。最低限の言葉しか発するところを見たことがなかったため少し新鮮だった。加えて感情を露わにしないためここまで感情的になるのは初めて見たのだ。
「鬼を人に戻す方法は、鬼なら知っているかもしれない!だが!鬼共がお前の意思や願いを尊重してくれると思うな!当然、俺もお前を尊重しない!なぜお前はさっき、妹に覆いかぶさった!あんなことで守ったつもりか!なぜ俺に斧を振らなかった!そのしくじりで、妹を取られている!お前ごと、妹を串刺しにしても良かったんだぞ!」
少年の表情は絶望に染まる。義勇がなにを言っても、妹を救う気がないことがわかってしまったからだ。
そして少年は、すがるように遠夜の方に視線を向けるが、当然遠夜も妹を救う気はない。塞がれた目を向けて皮肉げに嗤った。
「泣いて乞えば聞き入れてくれるとでも?悪いね、そんな気は全くない。今お前がするのは、泣いて絶望することか?まだ妹は殺されてねーぞ?ほれ、頑張れ」
煽るように嗤う遠夜の言葉とほぼ同時に、義勇は少女に刀を突き刺す。悲鳴が雪の森に響き渡った。
「やめろぉぉ!」
少年は雪に埋もれた石を拾い上げ、義勇に向かって投げた。
だが義勇は鬼殺隊最強の柱の1人。その程度は簡単に弾き飛ばす。
少年は斧を拾い上げ、義勇に向かってもう一つ石を投げ飛ばし、さらに遠夜にも石を投げる。
義勇に投げた石は義勇の顔面に真っ直ぐ飛んでいったが、遠夜の方に投げられた石は遠夜の顔の横を飛んでいき、遠夜の真上の枝に当たった。
「……へぇ、やるじゃん」
上から迫る気配を感じながら遠夜は刀を抜く。そして少年の投げた石によって落ちてきた雪の塊を刀で弾き飛ばし、同時に少年が投げて枝に当たり落ちてきた石を掴む。
「咄嗟の行動であそこまで精度の高い投擲と判断ができるとは。素質はあるかもな」
義勇に突っ込んでいった少年は、義勇に刀の柄で殴られ、失神する。そして突っ込む直前に上に投げた斧が回転しながら義勇に向かっていく。必要はないだろうと思いながらも掴んだ石を空中で回転しながら義勇目掛けて落ちていく斧に投げつけて、斧を弾き飛ばした。
少年のその斧を投げる行動に驚愕した義勇は、少し固まる。まさか普通の少年が、これほどの行動ができるとは思わなかったのだろう。
そしてその硬直が隙となり、少女は義勇の拘束を蹴りで脱出した。
「しまっ!」
「あ」
まさか義勇の拘束から抜け出すとは思ってなかった遠夜は少年に迫る少女を見ていることしかできなかった。
ああ、あの少年、死んだな。と他人事のように見ていたが、次の行動に義勇も遠夜も言葉を失うことになる。
少女は、少年を庇うように立ち塞がったのだ。
鬼は飢餓状態になると人を食おうとする。栄養価が高いからだ。そして捕食対象は親でも家族でも変わらず食い殺す。
この少女は義勇によって傷を負わされ、しかも鬼に変化したばかりだ。鬼になるにはかなりの体力を使うため今の少女は相当深刻な飢餓状態であるだろう。なのに、この少女は少年を殺そうとはせず義勇と遠夜から守るように立ち塞がり、義勇に襲いかかっている。
「……へぇ、こんなことあるのか」
義勇は少女の攻撃を悉く回避すると、少女の首に手刀を当てて気絶させ少年の横に下ろした。
「……どーするんですか?」
「…………」
「まさか考えてないとは言いませんよね」
「…………こいつらは、なにか違うのかもしれない」
「普通でないことは確かですね。でもこれ一応隊務規程違反ですよ」
「わかっている」
「……ま、義勇さんがそう判断したなら任せますよ。どーせ御館様にはすぐバレるだろうし、ここまで来たらもう共犯者ですから」
「…………感謝する。無道、竹の猿轡を用意しろ。念のため、妹につける」
「はいはいわかりましたよっと」
ーーー
「んっ……」
「起きたか」
「はっ!」
少年は起き上がると、傍に眠る少女を抱き寄せる。当然だろう。先程まで妹を殺そうとしていた男がいるのだから。
「狭霧山の麓に住む鱗滝左近次という老人を訪ねろ。冨岡義勇に言われてきたと言え。今は日が差していないから大丈夫なようだが、妹を太陽の下に連れ出すなよ」
それだけ言うと義勇は姿を消した。
「やれやれ、さっきはあんなに饒舌だったのに肝心なとこで言葉が足りない」
残された遠夜はそうぼやきながら頭を掻く。そして少年に近寄り、見下ろした。
「少年、さっきの人の言われた通りにしな。まず狭霧山に向かえ。道中で妹を日に当てないで運ぶ方法を確保しろ。それだけでいい」
「あ、あの!なんで、日に当てちゃいけないんですか?」
「鬼は日光に弱い。日光に当たると鬼は死ぬからだ」
「…………」
「家族の埋葬を済ませたら、すぐに旅立て。ここにいつまでもいる意味はもうねーよ」
先程までの煽るような口調ではなく、ただ淡々と事実のみを突きつけていく。少年の視線が悲しみに打ち拉がれ、俯く。
「……どうするかは君が決めろ。このままここでひっそりと過ごすのも一つの道だ」
「…………」
「んじゃ、俺行くわ」
妹を抱きしめる少年に背を向けて遠夜は歩き出す。
だが数歩歩いたところで足を止める。
「あ、そうだ。これだけは聞いておかねーと」
「え?」
「少年、君は妹が人を喰った時どうする」
「え……」
少年は困惑に顔を歪める。考えたくもないようなことなのだろう。だが、少年が歩もうとしている道は茨の道だ。それを自覚させる必要がある。その道に行くように不本意とはいえ促したのは遠夜と義勇なのだから。
「……それは、ちゃんと考えておけよ。それがお前の選んだ道だ」
それだけ言うと遠夜は手をヒラヒラ振って歩いていった。
少年はその後ろ姿が見えなくなると妹を背負ってもう誰もいない冷たくなった家に帰っていった。
***
「そんなこともありましたね」
「…………」
「その後、あいつらどーなったんです?」
「俺の師である鱗滝さんの下で修行をしていると聞いた。だがそれも二年前の話で、今は知らん」
「二年ね。俺は影の呼吸なんで修行期間他と比べてかなり長いんですけど、水の呼吸ってどれくらい修行するんです?」
「……俺は、二年弱といったところか」
「ならもう最終選別まで行ってるかもしんないっすね。前回の藤襲山にいたんじゃないんですか?」
「…………」
「陽明さんなら知ってるかもしれないですね」
「…………さぁな」
(……これ、多分冨岡さんあの少年がどうなってるか知ってるな)
識による判別であるが、遠夜はあの少年の現在を義勇が認知しているであろうことを察知した。
本人は興味無さげにしているが、気になるような雰囲気はなんとなく察知できた。思いの外義勇はわかりやすいのかもしれないと内心で苦笑する。
「そろそろ上がります。冨岡さんはどうします?」
「……俺はもう少しいる」
「そうですか。んじゃごゆっくり〜」
遠夜は湯船から立ち上がると、そのまま風呂場から去っていった。
残された義勇は水面に写る自分の姿を暫し見つめてから言った。
「……また、間違えてはいないだろうか。錆兎」
その問いに答える人はいない。
ーーー
雲海の家で三日ほど過ごした遠夜は、産屋敷によって用意された温泉宿に訪れた。現在、交代で休暇を柱は取っているが、その交代時期が人によっては重なる。主に任務の兼ね合いによってその時期が変化する。
そして遠夜と義勇は休暇の時期が重なったのだった。(陽明はそれにくっついてきただけ)
温泉を上がると、遠夜は用意されていた着流しを着て一人宿周辺を散策していた。宿周辺は川が流れており、川のせせらぎが聞こえどこか涼しげな雰囲気がある。
川のすぐそばを歩きながら川を眺める。清らかな水が止めどなく流れており、その水面が遠夜の顔を映し出す。尤も、手拭いで視覚を塞いでいるためそれを見ることは叶わないが。
昨日の夜に宿を訪れたため周辺がどのようになっているのかを知らなかった遠夜はなんとなく散策に出たが、意外と英断だったかもしれないと考えながら岸辺を歩く。無論日輪刀を携えた状態であるが。
なんとなく足を止めて目の前にある大きな岩に飛び乗り、腰を下ろす。神経を集中させると、付近の自然の大いなる気配が伝わってきた。
川の水
生茂る木々
野生の動物や虫
それら全ての気配を感じながらも、その中に唯一人の気配を感じ取った。
「いいところね」
そう背後から声がかけられる。聞き慣れた声や気配を間違えるはずもなく、遠夜はその人物が誰かを言い当てる。
「よう、しのぶ。休暇は今日からか」
「ええ」
「蝶屋敷の方はいいのか」
「今は鬼も少ないし、重傷の人もいないから大丈夫。アオイと隠の方に任せてきました」
「そうかい」
「遠夜はいつから?」
「ここは昨日から」
「そう。ならもう温泉も入ったの?」
「そりゃな。なかなかいいぞ、ここ。飯もうまい」
「あら、さすが御館様がご用意してくださっただけあるわね」
「珍しく楽しそうじゃねぇか」
「あら、私が楽しそうじゃない時があるとでも?」
「はっ!いつも内心で怒り浸透の奴が言う言葉じゃねぇな」
普段のしのぶからはいつも怒りの気配がする。もともとあまり笑う質の人間ではなかったが、カナエが死んでからはいつも怒りの気配がするようになった。そのくせ顔は笑顔で口調は丁寧なためその怒りに気づく者は残念ながらほとんどいない。
だがそのしのぶから珍しく楽しそうな気配が伝わってくるため内心で少しだけ遠夜は驚いた。
「そうね、温泉なんて随分久々だからかしらね」
「まぁ、そうだろうな」
「それに、もう少ししたら甘露寺さんも来てくださるから。甘露寺さんとは柱合会議以外では、久しくお会いしてませんでしたから」
「そういや、二人は仲良かったな」
「ええ、貴方のように皮肉なことばかり言うような方ではありませんから。私も甘露寺さんも」
「言うじゃねぇか、鉄仮面」
「黙りなさい、問題児」
遠夜の皮肉に笑顔のまましのぶは額に青筋を浮かべた。
怒りの気配が膨れ上がるのを感じ取るとともに、遠夜はしのぶの身体から今まであまり感じなかった気配を感じ取った。
「…………」
「あら、なんでしょうか」
唐突に口を閉じてしのぶの方に顔を向ける遠夜に疑問符を浮かべながらしのぶは首を傾げる。
遠夜の円で感じ取った気配は、今までどこかで感じ取ったことのある気配なのはわかる。しかしいつ、どこで感じ取ったのかはわからない、思い出せない。
「…………」
「なんなんですか?冨岡さんじゃあるまいし、ちゃんと口に出してくださいますか?」
なにも言葉を発しない遠夜に少しずつ苛ついてきたのか、しのぶの口調がキツくなってくる。だがそれでも遠夜は言葉を発しない。
「……ああ、そういう」
「やっと言葉を発したと思ったらそれですかなんなんですか冨岡さんですか貴方は」
「そこで冨岡さんを引き合いに出すのな、お前」
「だって、冨岡さんは口下手天然ドジっ子なのだから引き合いに出されても仕方ないでしょう」
「いやボロクソに言うのな。一応歳上だぞあの人」
相当鬱憤溜まってるのかな、とか思いながら遠夜はしのぶの身体から感じた気配をさらに読み進める。
そして先程の推測は確信へと変わった。
「しのぶ」
「なんですか」
「随分、
「…………は?なんのことですか?」
「ま、そう言うだろうな」
まあいいや、と言うと遠夜は立ち上がる。
「なんなんです?」
「ん?んーにゃ、なんでもねー」
「気になるようなこというだけ言って帰ろうとするのやめてもらえますか?」
「ああそうだ。言い忘れてた」
「……無視ですかそうですか」
「あの宿、今陽明さんいるから気ぃつけろよ」
「え」
「じゃな」
それだけ言って遠夜は姿を消した。
「……どいつもこいつもですよ、まったく!」
しのぶの拳が近くにあった枝を真っ二つにした。
その夜、甘露寺と共に食事をしている最中、間違えてしのぶがお酒を飲んでしまい酔っ払って愚痴を垂れ流し、挙げ句の果てには泣き上戸になって、次の日甘露寺に土下座する勢いで謝ったのはまた別の話。
*
翌日
早朝
宿付近の森の中で剣劇の音が響く。
木刀と木刀がぶつかり合い、周囲の空気を揺らす。
「ふっ!」
片方の振った木刀を長髪の男の木刀が受け止める。
「さすがに、強いですね」
「…………」
手合わせをしているのは、遠夜と義勇だった。早朝に遠夜が森の中で修行しているのを見かけ、その光景を少し見ていたら義勇は遠夜に見つかった。そこでどうせならということで手合わせを義勇に申し出た。遠夜は義勇が誰彼構わず手合わせするのが好きではないことを知っていたため多分断られるだろうなと思っていたが
『わかった』
意外な返答が得られたためその瞬間内心で目を丸くした。
だが柱の中でも上位の実力を持つ義勇と手合わせできる機会はあまりないためその申し出はありがたかった。実力のある者との手合わせは自らの実力を格段に伸ばすことができる。
「っと。これは思ったより実力差があるなぁ」
「…………」
手合わせは一本先取で行っているが、想像以上に義勇の実力は高く遠夜は攻めきることができない。影の呼吸の真髄である『相手の呼吸を乱す』ということができないでいるからだ。
義勇は水の呼吸の使い手であるため、あらゆる呼吸に適応することができる。故に、影の呼吸との相性は最悪であった。もともと影の呼吸は水の呼吸の派生であるため、原点には敵わないということなのかもしれない。
「これは、呼吸使うしかないかなぁ」
現時点では全集中の呼吸で底上げした身体能力による剣術の手合わせになっていたため型を使用していなかった。
故に、本気の手合わせをするとなるとお互い呼吸の型を使うことになる。
「んじゃ、いきますか」
全集中・影の呼吸 壱ノ型 無間舞踊
円と識を全開にし、相手の動きを先読みし、完璧なタイミングで相手を無力化する。それが影の呼吸の基礎であり、奥義となる壱ノ型 無間舞踊。
威圧感が増加したとわかった義勇は自ら仕掛けにいく。
水の呼吸 壱ノ型 水面斬り
水平に振られた木刀は遠夜に向かって鋭く迫る。しかし遠夜はその木刀を滑るように受け流しながら返し技を放つ。本来なら完璧なタイミングで放たれたこの返し技を防ぐ術はないが、義勇は手練れ。例えカウンターを完璧に放たれたとしてもそれを回避することができる。
「想定内」
間髪入れずに遠夜は次の型を放つ。
影の呼吸 肆ノ型 絶影
先程の義勇の水面斬りよりも鋭く、空間が斬られたかのように錯覚するほどの一撃が義勇を襲う。
しかし義勇はこれにも対応した。
水の呼吸 漆ノ型 雫波紋突き
遠夜の木刀の刃の面に的確に突きを放ち、その斬撃を止める。完璧なタイミングで受けたことにより、威力的には負けている義勇の技が遠夜の技と相殺になった。
「まだまだ」
影の呼吸 弐ノ型 影法師
絶と練を交互に行いながら高速で移動することにより周囲に影法師が義勇の目には乱立しているように見えるようになる。そして絶えず気配は移動しており、気配のみで遠夜を追うことはできないと義勇は判断した。
だから遠夜のことを待つことにした。
水の呼吸 捨壱ノ型 凪
遠夜には義勇が構えを解いたように見えるが、それだけではないことを本能で察知した。間合いに入るとやられる。そう思わせる何かがあった。
「ならいくしかないよなぁ」
影の呼吸 参ノ型 無辺
無数の斬撃が義勇に襲いかかる。
だが義勇はそれらを全て叩き落とした。
「あー、そういう」
無間舞踊と似たような感じか、と遠夜は理解した。恐らく義勇が行ったのは間合いに入った攻撃を全て落とす防御系統の型だろう。
(あれ崩すのは今の俺じゃ無理だな)
現時点での実力では遠夜は義勇には敵わない。純粋な実力で敵わない上にあんな鉄壁の守りを見せられては、遠夜に勝ち目は無いに等しかった。
「なら、あれやってみるか」
深く息を吸い込み、足に氣を集中させる。
そしてためた力を一気に解放させ、義勇に凄まじい速度で迫った。
「影の呼吸 陸ノ型……!」
目の前まで迫った遠夜は木刀による刺突を放つ。その突きの数、三。
「甘い」
しかし義勇はそれすらも叩き落とし、遠夜の木刀をへし折った。折られた木刀は砕けて鋒が地面に転がった。
「はぁ〜……俺の負けですね」
「…………」
「こんだけ修行してもまだできないかぁ。これもうできる気がしなくなってきたんだけど」
「……日永が創り出した型か」
「ええ。影の呼吸 陸ノ型です。何度も見たし、自分でもかなり練習してるんですけど、これだけはなかなかできないんですよねぇ。言われた通りにやっててもできないから、俺が弱いのか、兄さんが強すぎるのか、それともどちらもなのかわかんないっすわ」
「……お前と日永は違う。あいつと同じ感覚でやっても、お前ではできない」
「ははっ、その通りかもですねぇ。全く、才能の違いを見せつけてくれる」
義勇はそういうつもりで言ったのではないのたが、うまく伝えられず遠夜は曲解して解釈してしまった。それを義勇は理解したが、どう伝えればいいかわからず黙り込む。
「相手してくれてありがとうございました。冨岡さんこれから任務でしょう?」
「……ああ」
「じゃあ頑張ってくださいね、死なない程度に」
「……善処しよう」
義勇が去るのを見届けて遠夜は日輪刀を抜く。
「いやぁ、追いつける気がしねぇなぁ」
日輪刀に刻まれた『悪鬼滅殺』の文字を撫でながら遠夜は一人呟いた。
ーーー
「あ!無道さーん!」
明るい声が聞こえてそちらを向くと、恋柱・甘露寺蜜璃の姿があった。
「おう甘露寺、一人か」
「今は一人です」
「しのぶと一緒じゃねーのか」
「あー……えっと……」
「……まさか、しのぶに酒飲ませたりしてねーだろうな」
「ぎくっ!」
「おいおい、しのぶまだ未成年だぞ?」
「あ!で、でも!その!私が飲ませたんじゃなくて!しのぶちゃんが間違えて飲んじゃって……それで……」
「いやわかるよ。甘露寺は宇髄さんみたいに無理に酒飲ませたりしないだろうから」
宇髄は派手な性格故に飲みの場でも派手な振る舞いをする。故に他人に酒を飲ませるような振る舞いもすることがある。無論限度は弁えているが、それでも酒が弱い人からしたらたまったものではないだろう。
だが甘露寺はそのような振る舞いはしない。そもそもまだ未成年故にあまり酒は飲まない。19という年齢故ほぼ成人と変わらない扱いを受けるため時々付き合いで飲むことはあっても他人に飲ませるようなことはしない。
「よかった〜わかってくれた〜」
「んで、宿の食材はちゃんと枯らしたか?」
「枯らしてないです!!!」
「えぇ〜本当かぁ?」
「ほ、本当です!……多分」
最後に多分と付け加えた甘露寺の様子が面白くてくつくつと遠夜は笑う。そんな遠夜を見て甘露寺は風船のように頬を膨らませた。
「むぅー!酷いです無道さん!」
「お前ほんっと面白えわ」
「むぅー!」
「はいはい悪かった悪かった。んで、しのぶは大丈夫なのか?」
「あ、はい。お酒飲んだ直後は、こう、ぐあぁー!ってなってましたけど今は気持ちよさそうに寝てます」
「二日酔いにならねーといいがな」
「それと」
「ん?」
「しのぶちゃんが怒ってた理由の半分以上は無道さんのことでした!」
「………………」
その言葉を聞いて遠夜はバツが悪そうに額に手を当てる。
「今度はなにしたんですか?」
「心当たりが多すぎてわからん」
「それはもう大人しく怒られた方がいいですね!」
「絶対に断る」
「捕まえてしのぶちゃんの前に放りだしてしまえばいいんですよね!なら私にも勝機がありますね!」
「やってみろやぁ!」
その後、柱二人による本気の追いかけっこが森の中で繰り広げられ、二人揃ってしのぶのお説教を食らうことになってしまったのだった。
*
「あーあ、休暇だってのになーんでしのぶの説教まみれにならにゃなんねーのかねぇ」
「それは貴方が悪いでしょう、遠夜」
「違いねぇ」
「自覚あるんですか」
休暇最終日、遠夜としのぶは宿の食堂で食事をしていた。
「やれやれ、今日で休暇も最後か」
「早いものですね」
「こんなゆっくりとできるのは、次はいつになることやら」
「当分は無理でしょうね、お互い」
「そうだな。次の休暇が永遠の暇にならねーといいが」
皮肉げに嗤う遠夜の言葉にしのぶは返さなかった。
遠夜が言っている言葉は、残念ながら現実味を帯びている。鬼殺隊にいる以上いつ死ぬかはわからない。そういう場所に常に身を置いている以上、遠夜の言葉をばかばかしいと一蹴することはできない。
「しのぶは明日までか?」
「いいえ、今日までです。蝶屋敷の運営の都合上休暇の日程を二つに分けてもらっていましたから」
「そうか」
「いい気分転換になりました。明日からまた任務に励めそうです」
そう言って笑うしのぶの顔はカナエとものとよく似ていた。やはり姉妹なだけあり、顔立ちはよく似ている。しかし遠夜の知るしのぶの笑った顔とは違うものだった。
「…………人のこと言えないか」
「え?」
「いや、なんでも」
不思議そうに首を傾げるしのぶを他所に視覚を塞いだままの目で外を見る。月の明かりがえ遠夜の顔を照らした。
そして同時に鎹烏が飛んでくる。
『伝令ー!伝令ー!無道遠夜!胡蝶しのぶ!スグニ那田蜘蛛山へ向カエー!隊士多数ガ犠牲ニナッテイルー!』
「……やれやれ、こうなるか」
「そんなに遠くないわね。すぐに向かいましょう」
「ああ」
しのぶの言葉を肯定するとすぐに部屋へ向かい身支度を整える。
準備が整い外に出ると、そこには陽明がいた。
「出動ッスか」
「ええ」
「次は那田蜘蛛山らしいっすね」
「さすが、耳が早い」
「一応あっしが持つ情報を伝えておこうと思いましてね」
「なんすか」
「那田蜘蛛山、あそこには複数の鬼がいましてね。その中で一番強い鬼は、十二鬼月です」
「……上弦ですか?」
「いいえ。下弦です」
「……まぁ一般隊士なら仕方ないか」
「そういうことっす。それに十二鬼月以外の鬼もそこそこ強いみたいなんでお気をつけて」
「どーも」
それだけ言うと陽明は宿へと戻っていった。
そしてそれといれ違うようにしのぶが遠夜の横に着地する。
「お待たせしました」
「いくか」
「ええ」
「那田蜘蛛山、十二鬼月いるってさ」
「……なるほど、承知しました」
短い会話を済ませると、二人の姿が消える。
その後ろ姿を陽明は一人眺めていた。
「お気をつけて」
その言葉は二人には届かない。