なかなか思い付かなくて進まないのでとりあえず閑話のような隙間を縫う話から書いています。
「ああ、涅さん。今日は何を読まれるんですか」
「そうだネ、戯作でも読もうかと思っていたところだヨ」
阿近は優秀な死神だ。ここにいる技術者──蛆虫の巣の元住人たちはイロモノキワモノが雁首揃えているのだが、そのなかでも負けず劣らずの頭脳と潔さと技術を持つ存在である。率直に言ってなんでこんな優秀な部下いるんだろうと思うくらい出来が良い。下手したら普通に私を越えていくぞ。阿近恐るべし、だがそこがいい。今後に期待している。
「涅さんって、よく研究以外の本も読まれますよね」
随分と不思議そうにしているが、そんなに驚くようなことでもないだろうに。……もしや、蛆虫の巣にいた人材は今でも人文学をあまり嗜まないんだろうか。
「実学一辺倒の方が似合いだと言いたいのかネ?」
「いえ。研究に心血を注いでいるのに文学も嗜んでいるのが不思議で」
効率の問題というか割く時間の問題だったらしい。確かに、最近は息抜きに休憩時間中ほぼずっと小説ばかり読んでいるが。
「そうだネ、本当ならその方がいいのかもしれない。だが、それでは魅力的な定義に相応しい名前を与えてやれるほどの教養は身に付かんヨ」
要はロマンの問題なのである。生前は理系科目がさほど得意でもなかったのもあるが、今世に得意科目にしたあとにもこうした習慣を続けているのはそのせいだ。
本に栞を挟み直して机にしまい、書き終えて乾くのを待っていた書類を見直す。……まぁ、修正しなくてはならない箇所もなし、そのまま出してしまおう。浦原め、実験の関係ない仕事は私ではなく事務官を用意すればよいものを。4徹目だかなんだか知らないが、よく見もせず、猿柿さんや私に回す必要のないものまで回してきやがったな。
「定義に、名付ける?」
「ああ。例えば『赤の女王仮説』なんて丁度似合いの名前など、児童文学だと侮らず読んでいなければ名前をつけることすら難しい」
「それは、確かに……」
「阿近、実証は重要だが、研究にのみ固執してはいけない。私たちは実存する生物なのだヨ」
大学だって、もともとは神学から始まっている。神と共に歩んだ人間が、神から権能を剥ぎ取るには人文学が必要だった。それは私たちにとっても変わりなくそういえるものだ。言葉は思考を加速させる。なら、人文学によって思考を加速させた上で科学の領域に足を踏み入れねば、私達は神の権能を剥ぎ取る不敬を十全には行えないだろう。どうせやるなら、徹底してやるべきだ。
「涅隊長は、寂しいですか」
ふとした疑問だった。例の一件から随分経ったが、そういえばガサ入れがあったのは今日だったと思い出したせいで、どうにも気になってつい口にしてしまったのだ。
「何がだネ? 私は、やらなくてはならないことが多くて満たされているが」
「そうっすか」
問われた隊長は、俺が言った理由が汲み取れなかったのか心底不思議そうにしている。初代局長が消えて20年、やることはあまりに多かった。だから、忙しすぎるのと、思い出したくないので浦原さんのことなんて微塵も考えてもいないんだろう。どちらかといえば、カレンダーを見て、あのときの血の気の引いた顔を思い出した俺がどうかしているのだ。
「ああ、だが、忘れていたこともあるな。阿近、これから一時間ほどかかるが、少し付き合ってくれるかネ」
「何にですか」
研究室の隅においてあったバケツには、鮮やかな花束が生けてある。隊長はそれに近づくと、まるごと引き抜いて滴を払い、俺を見た。
「昔の看守たちの墓参りだヨ」
「えっ!?」
「死人の中に、やたらと正直な阿呆がいてネ。居なくなったのは、奴がお前と同じくらいの背丈の頃だったか」
そいつのことは、覚えている。俺が収容された直後に来たやつで、よく殴りかかって返り討ちを食らっていたからだ。
笑いながら花束を掴んだ隊長は、相変わらずに見えた。違う。相変わらずに見えるよう、ずっと振る舞っている。動じてしまえば俺達にまでそれが伝わってしまうのを知っているから、涅隊長は絶対に人前では揺らがない。
それに、涅隊長は強い。何があろうが隊長として立ち振る舞えるだけの意思も実力もある。確かにあのとき取り乱してはいたが、この人はすぐに元の表情に戻り、むしろ強い意志を湛えた目で俺達を率いてきた。だからこそ、俺達はこの人に着いていく。
まあ、今日の外出は予想外だったけどな。
着いていった先にあったのは、瀞霊廷の小高い丘、墓も何もない、ただ見渡しのいいだけの場所だった。
「彼らには別の場所があるが、私はここが彼等に似合いだと思っていてネ」
特に決めた場所があるわけでもないらしい。その辺りを眺めたあと、隊長はおもむろに花束をその場に置いた。
線香も持たずに徒歩で出歩いて変だと思っていたけど、そういう理由で花束だけを持ってきていたらしい。
「……最期くらい、もっと愉快な本を渡してやるべきだったヨ」
懐から出されたのは、新品の文庫版の童話集だった。隊長はそれを、ライターで炙って野火にくべる。驚くほど簡単に本は燃えて、すぐに灰になって風に浚われていく。隊長はどのくらいの頻度で来ているのか判らないが、随分昔で、しかも看守だった奴にここまでよくやるもんだと思う。俺なんて、隊長みたく独り隔離されてなくても、あいつらが大嫌いだったのに。
「でもあいつ、あんまり頭もよくなかったですし、『双魚のおことわり』の方が喜んだんじゃないっすかね」
「そうか、今度はそうしよう。次は100年後だがネ」
少し意外そうに、だが愉快そうに、涅隊長は口角を上げた。
久しく見る笑いは、前よりもずっと下手くそだ。ああ、でもずっと仏頂面や作り笑いをしてるより、隊長はこっちの方がいい。
死んだ精神は戻らない。