その日もいつもどおりにブウサギの散歩を終えたガイは、途中で例のごとく渡しておいてほしいと任されたジェイド宛ての書類を手に、流れる水音が心地よくこだまする通路を抜け、外に通じる大扉をくぐった。
両脇で扉を守る兵士達と軽い挨拶を交わしてから、宮殿前広場へ通じる石畳を真っ直ぐ歩み始める。
何気なく仰いだ空の青さに目を細めたとき、ふいに視界の端をよぎった影に、はたと足を止めた。
改めて顔を向けると、庭師の手で丁寧に整えられた木々の隙間から、見知った後ろ姿が窺えることに気付く。
それはまさに今、会いに向かおうとしていた人物に違いなかった。
これは手間が省けたとそちらに足を向ける。
「おーいジェ、」
そうして名を呼ぼうとした瞬間、後ろから思い切り襟元を引かれると同時に近くの生け垣の影に引きずり込まれた。
「待て待てガイラルディア、今面白いところなんだ」
「こんなとこで何やってるんですか陛下……」
ガイは締まった首元を緩めながら一応相手に合わせて小声で返す。
すると意味ありげに笑ったピオニー・ウパラ・マルクト九世陛下は、何も言わずに、垣根の間から向こう側を覗くよう、指でちょいと示してみせた。
疑問を抱えつつも言われるままに葉と葉の隙間へ目を凝らす。
「……リック?」
先ほどはジェイドの姿しか窺えなかったのだが、よくよく見てみればその向こうにはもうひとつの人影があった。
彼らも執務の関係で宮殿に来ていた帰りらしく、リックはそれなりの量のファイルを腕に抱えている。
代わりにジェイドがほぼ手ぶらであるのはまぁさほど特別な事態じゃない。あの笑顔でリックの手の上に次々と書類を重ねて行く姿はちょっとした日常だ。
だからこの現状で異変と呼ぶべきものと言えば、ジェイドを前にするリックの様子だろうか。
どうもおかしい。
まるで今から勝ち目のない革命でも起こそうとするような、切羽詰まった深刻な顔つきで、何か言いかけては止める動きを繰り返している。
対するジェイドがどういう表情をしているのか、この位置からは読み取ることが出来ないが、こうしてリックの発言をちゃんと待っていてやるところを見ると、おそらく少しだけ眉を顰めて不器用に困惑しているに違いないと見当をつける。
ジェイドにそうさせるだけの真剣さをもった雰囲気で、しかし何事か言い淀んでいたリックだったが、やがてぐっと息をのんで勢いよく顔を上げた。
「ジェイドさん!」
「何です」
「ええと、その、オレは」
必死に言葉を紡ごうとするリックに釣られるように汗の滲んできた手の平を握り締め、ガイは訳が分からないままそのなりゆきを見守っていた。
「ジェイドさん。あの、オレ、ジェイドさんのこと」
思いきるようにきつく眉間を寄せる。
「だ、だい……」
ちらりとジェイドのほうを窺う。
「だ……」
「…………」
「だい……」
広がる沈黙。
水のせせらぎ。
少し遠くから人々の明るい話し声。
「……………………きっ、」
ちよ、とどこかで鳥がひとつ鳴いた。
――――そしてリックの両目から、ぶわっと涙があふれる。
「すみませんやっぱりウソでもオレには言えませんごめんなさいジェイドさぁああんー!!」
大量のファイルを抱えたまま、号泣しながら脱兎のごとく駆けだしたリックの背中が見る間に広場の向こうまで消えて行くのを呆然と見送った後、ガイは自分の隣で肩を震わせて笑う皇帝陛下をかえりみた。
「ぶっは……! あー、やっぱリックが言えないか。まあそりゃそうだな」
言われたときのジェイドの反応もみたかったんだが、と独りごちるピオニー。
どうにか説明を求めると、彼は笑いすぎで涙の浮かんだ目尻をぬぐいながらおかしそうに話してくれる。
「いや、リックに教えてやったんだよ」
「何をですか?」
「今日は一番大好きなヤツにある嘘をつかないと二度と美味しいカレーが作れなくなってしまう恐るべき日だぞってな」
「念のため聞いておきますが、それ……」
「ああうんウソウソ」
ピオニーがあっけらかんと笑って顔の前で手を横に振る。
頭痛を堪えるようにこめかみに手を添えた。
「ちなみに、ある嘘っていうのは?」
「大好きなヤツに大嫌いと言う」
返された答えを聞いて目を丸くした後、ゆるりと苦笑を零す。
そんなこと試すまでもなく分かる。
「アイツにそんなこと言えるわけないでしょう」
「だな」
そう小さく相槌を打ったピオニーの横顔をガイはちらりと窺って、手のかかる子供を見るように微笑み、ばれない程度に肩をすくめた。
ああきっとこの人は、楽しくて仕方がないのだ。
どれだけ小突いても転ばせても、まっすぐに旧友を慕い続けてくれるリックの存在が、嬉しくて仕方ない。
まぁ、その気持ちも分からないではないが。
「ほどほどにしたほうがいいですよ、きっと。……それじゃあ俺はこのへんで~」
垣根の向こう側から朗々と響いてきた詠唱に未だ気付かぬ上機嫌の皇帝陛下を置いて、さりげなく身をひるがえす。
全速力でその場を離れる途中、背後から聞こえてきた悲鳴に合掌した。