ロニール雪山でレプリカネビリムをどうにか退けたその翌日。
アニスは、ケテルブルクホテルの豪華なベッドで目を覚ました。
小さなあくびと共に体を起こす。
雪国の空はいつも薄暗くて時間帯が分かりづらいが、カーテンの隙間から覗く光の具合からして早朝なのだろう。
出発は昼頃の予定で、朝食にもまだ時間が早い。
寝直すほどの眠気も残っていなかったアニスは、両隣のベッドで眠るティアとナタリアを起こさないように、そっと身支度を整えて部屋を出た。
これがダアトやグランコクマ、バチカルだったなら、街に出て早朝の空気を楽しむのも良かったが、ここは雪国ケテルブルクだ。
雪景色は美しいと思うけれど、それで大はしゃぎ出来るほどアニスは誰かのように子供ではない。
だから早々にホテル内を散策することに決めて一階ロビーに降りてきたとき、窓から見えたその光景に、アニスは思わず「うわ」と顔をしかめたのだった。
少し考えた末にホテルの扉を開いて、先ほどまで全く出るつもりのなかった屋外に足を踏み出す。
「……なにやってんのリック」
「あ、アニスさん! 雪だるまですよ!」
ホテル前で黙々と雪だるまをこしらえていたその男──中身はほぼ子供──は、アニスを振り返って嬉しそうに笑った。
「そうじゃなくてぇ、このさっっっむいのに朝っぱらから雪だるまとか、信じらんないんですけど」
「え、でも今日あったかくないですか?」
重ねて言うが、ケテルブルクは雪国である。
痛みを感じるほどの冷気に満ちた白い世界をぐるりと見回して、アニスは怪訝そうに首を傾げた。
「なに言ってんの超寒いじゃん。リックだって、ほっぺた真っ赤になってる、し……」
赤い頬。いつもよりちょっとだけ高いテンション。
アニスの脳裏に「もしかして」と「そんなまさか」がめまぐるしく点滅する。
「……リック一等兵!」
「っはい!!」
「自身の状態を、報告しなさい!」
いつかのジェイドを真似て問いかけてみると、リックは即座に立ち上がってぴしりと敬礼の姿勢をとった。
「まだちょっと体中ぎしぎししてます! あとすごくぽかぽかします! それと……えーと、何かふわふわするような感じが」
「子供か」と突っ込みたくなるような言い回しの報告に、兵士としてこれで大丈夫なのだろうかと、リックに対してもう何度目になるか分からない心配を巡らせつつも、アニスは先ほど感じた予感が確信に変わっていくのを感じた。
ぎしぎしする、というのは昨日無茶な使い方をした譜術の余波もあるだろうが、これはやはり。
「……リックさぁ、風邪って分かるよね」
「ハイもちろん! 前にみんながなってたやつですよね!」
「じゃあ、自分で風邪になったことは?」
眼前に立つ見目だけは良いその男は、アニスの問いかけを聞いて、やはりどう考えても赤い顔のまま きょとんと目を丸くしたのだった。
*
「ディストといい貴方といい、ここではバカが引く風邪が流行ってるんですかねぇ」
「ごめんなさぁい……」
具合が悪いのに長時間 雪にまみれていたからか、はたまた自分が風邪であると自覚したからなのか、リックはあのあと一気に体調を崩した。
足取りもおぼつかなくなったその体を必死に支えつつ、リックは熱で、アニスは重さで、お互いにぜえぜえと息を切らしながら泊まっている部屋があるフロアまでたどり着いたところで、偶然行きあったのはジェイドだった。
アニス達の様子を見て一瞬で事を察したらしく呆れたように肩をすくめると、ジェイドはリックの首根っこを掴まえて、今しがた歩いてきたばかりの廊下を引き返した。
そうして文字通りリックを引きずって戻った部屋にはすでに誰の姿もない。
みんな朝食をとりにホテル内にあるレストランへ向かったのだろう。
そこでベッドに放り込まれたリックに改めて話を聞けば、いつもよりだいぶ早く目が覚めたと思ったら何だかぽかぽかしていたので、絶好の雪だるまづくり日和だと外に行ったらしい。
それを聞いたときアニスは思わず「ばかじゃないの」と吐き捨てていた。昨日の今日でいったい何をしているのか。
まぁ今までかかったことが無かったなら風邪の自覚症状が分からなくても無理はないが、それにしたって、と深く溜息をつく。
「とにかく、今日はもう絶対安静だからね!」
「はいぃ……すみません、バチカルにいくんだったのに」
言うまでもなく動けなさそうだったが一応釘をさせば、力ない返事が返ってきた。
いつも元気だろうとヘコんでようとやかましい男がこうも弱っていると、なんだか調子が狂う。
アニスはまたひとつ息をついて、表情を和らげた。
「病人は細かいこと気にしないの。とにかく今はゆっくり休んでパパッと治すこと! わかった?」
「へぁい……」
「よーし。じゃあ大佐、私はみんなに このこと伝えてきますね」
「ええ、お願いします」
その淀みのない返答に、おや?とアニスは目を丸くする。
暗に自分はここに残ると告げたジェイドは、いつの間にかリックが寝ているベッドの脇に、椅子をひとつ移動させていた。
「昨日あれだけ無茶をやって、昨夜あの時間まで雪まみれになって、今日も朝から雪まみれですか? たとえ腐りきってても兵士なんですから、体調管理くらいは しっかりしてください」
「……うううぅ」
「まぁ、風邪ひとつ引かないバカかと思ったら風邪が引ける程度のバカだったみたいで良かったですねぇ」
「ジェイドさぁん ごめんなさぁいぃい……」
さめざめと泣くリックの額をぺしりと軽く叩きながらジェイドが椅子に腰を下ろしたのを見たところで、アニスはくるっと身をひるがえして、部屋を出た。
上質な床材で彩られたホテルの廊下を歩きながら考える。
出会ったころだったら、迷うことさえせずにリックを置いていくと言っただろう。
少し前だったら、アニスに看病を任せて、皆に状況を伝えにいく役目を選んだだろう。
そのジェイドが先ほど当然のように部屋に残った意味を考えてつい顔が緩みそうになったアニスは、ガイのことばっか言ってらんないな、と苦笑した。
それぞれの罪と打算となりゆきで出来上がったこのパーティは、所属する国も目的もバラバラで、今こうして一緒にいるのが奇跡のような組み合わせだった。
正直、優しいばかりの関係ではないし、単純に性格的な面でも、べたべたした馴れ合いを好むタイプは少ない。
仲良しこよしとは程遠い、歪で不揃いな「仲間」かもしれない。
だけどそれでもずっと見てきたのだ。
はねつけられても、はねのけられても、決して諦めない大きな子供を。
突き放して遠ざけて、けれど見捨てない不器用な大人を。
ずっとずっと見てきたのだから。
「ガイじゃなくても にやけちゃうって、あんなの」
ずっとタダ働きだった仕事の果てに ものすごい金額の報酬を得たようなそんな気持ちで、アニスは足取り軽く昇降機に乗り込んだ。
ホテル内のレストランに集まっていた皆にざっと経緯を説明した後、アニスは厨房を借りて作ったお粥が乗ったトレイを手に、また廊下を歩いていた。
ちなみにそのとき「俺も手伝う」と言いかけたルークはガイが、「では私も」と続けようとしたナタリアはティアが、それぞれ買い出しに誘うことで最悪の事態を未然に防いでいた。
いや、あの二人がリックを心配して手ずから作った料理なら、きっと本人は喜ぶだろう。
最初期の、もはや食物と呼べるかさえ怪しかったころの品さえ「前衛的でおいしい」と言ってなんとか完食せしめたあの男が喜ばないはずはない。
だが体調が万全のときならいざ知らず、人生初の風邪で弱り切っている今、最後の晩餐という名のトドメになりかねないので今回は遠慮してもらおう。まぁ回復してからなら どれだけ食べさせてもいいので。
そんなやや非情なことを考えている間に部屋の前についたアニスは、リックがもう眠ってしまった可能性を考えて、ノックはせずにそっと扉を開いた。
「た、」
大佐、と小声で呼びかけようとした喉が、視界に映った光景に音をなくす。
アニスの想定通り、リックはもう眠っていた。
そのためにか室内は少し光量が落とされていて薄暗い。
そんな中でジェイドは、ただ静かにリックの右手首に手を添えていた。
脈を取っているのだ、とアニスが認識したところで、とっくにこちらに気づいていたのだろうジェイドが振り返る。
そしてアニスが持っているトレイを見て、口元に笑みを乗せた。
「おや、この子のですか」
「あ、えっと、そーです」
眠ったばかりだからしばらく起きないだろう、というジェイドの説明を聞いて、それでも起きたら食べられるようにとベッドサイドの棚にトレイを置いたアニスは、今もまだリックの手首に添えられたままのジェイドの手をちらりと見た。
「……リック、どっかおかしいんですか?」
「強いて言うなら頭が若干アレですね」
「いやそれは知ってますけどぉ」
そうじゃなくて、と言葉を濁したアニスに、ジェイドは小さく肩をすくめていつもの笑みを浮かべた。
「正真正銘、バカが引くただの風邪ですよ。一日休めば治るでしょう」
熱で顔はまだ赤いものの、間の抜けた顔ですやすやと眠っているリックの様子からして、それは本当のことなのだろう。
「じゃあなんでリックの脈なんて取ってたんですか?」
ただ風邪の具合を見ていたわけではないはずだと、アニスは半ば確信する。
そう思わせるような、どこか形式めいた ぎこちなさが、先ほどの光景にはあったのだ。
そしてアニスが目撃できたということは、ジェイドにもさほど隠すつもりが無かったということなのだろう。もちろんあえて見せようという気もなかっただろうが。
ジェイドはリックの右手からするりと己の指を外して、その流れで静かに眼鏡を押し上げた。
きれいだとリックが手放しで褒める赤い瞳が、光の反射の向こうに消える。
「――レプリカというのは、脆い生き物ですから」
ぽつり、と。
あまり感情を滲ませない声が紡いだその言葉を聞いて、アニスの中に浮かび上がったのは、ひとつの仮説だった。
ああきっと。
ジェイドはリックの臆病さを、ある意味で信頼していたのだ。
臆病者はどんな状況にあっても自分自身の命を最優先する。
その前提があったからこそ、ジェイドは今まで、リックを心配しなくてもよかったのだろう。
立ち止まって振り返って、無事を確認する必要なんてなかった。そのはずだった。
あの日アブソーブゲートで、リックがヴァンの前に立ちはだかるまでは。
ジェイドはそこでほとんど初めて、“リックが死ぬ可能性”を考えたのかもしれない。
もちろん死なない生き物などいないのだが、少なくとも目の届く範囲で、自分より先に死ぬことはないだろう、と。
あの現実主義の塊のようなジェイドにそう思わせてもおかしくないくらいに、リックの、死への恐怖……生への執着は、絶対的なものであったように見えた。
けれどあの臆病な子供は少しずつ変わっていった。
アブソーブゲート、レムの塔、そして昨日のロニール雪山と、臆病なまま、それでも大事なものを守るために立ち向かおうとするリックを見て、この旅の中で同じように変わっていったジェイドは、諦めたのではないだろうか。
失うことを懸念せずにいることを。
心配しないことを、諦めたのではないかと、アニスは思うのだ。
だからただの風邪だと理解していて、己の行動が意味のないものであると知っていて、それでも鼓動に触れて確かめるのは。
(よかったねリック)
それとも「残念だね」と言うのが正しいだろうかと、せっかくの肝心なときに眠りこけている子供を見やる。
(――大佐、心配だってさ)
だから早く元気になって、いつもどおりの情けない顔でジェイドの周りをうろついて怒られてしまえばいいと、アニスは寝言でまでジェイドを呼んでいるリックの頬をツンとつついて、小さく笑った。
そして翌朝どころか昼前には全快してジェイドを呆れさせるスーパー健康優良児の姿がそこに。