セントビナーの片隅にある、一人の男が暮らす小さな家。
そこを手土産とともに訪ねると、家主の男は俺が渡したばかりのグランコクマ団子(六本入り)の箱の角を指先でなぞりながら、何とも微妙な表情を浮かべた。
「……お前もマメだよな。僕のこと嫌いなんだろうに」
そう言って、もう二度と光を映さない両目を眇めてみせた男の名を、カシムという。
自分自身に譜眼を施そうとして失敗し、盲目となった彼の身柄は、大佐の取り計らいのもと一度カーティスの屋敷に移された。
そこでリハビリやら何やらをこなしていたようだが、やがてどうにか身の回りのことをこなせるようになった辺りで、支援を打ち切ってほしい、屋敷を出る、とカシムのほうから申し出があったらしい。
そこに至るまでの間にカシムの中でどういう変化があったのかなんて、俺は知らない。こいつのことなんて知りたいとも思わない。
けれど彼は確かに、あの日のことを飲み込んで、そして乗り越えたのだろう。
たまに危なっかしいときもあるけれど、前より随分とスムーズになった彼の動きを視界の端に収めつつ、俺はいつものように掃除用具を取り出して、ふん、と息をついた。
「ああキライだね。かぎりなく。焦げ付いたカレー鍋と同じくらいキライだ」
「……お前の中で焦げた鍋がどの程度の位置づけかによって、受け取り方が変わってくるんだが」
「じゃあ言い方を変える。どこかの世界一空気が読めない男と同じくらい気に食わない」
「よ、余計分かりづらくなったぞ! どこの誰だそれは!」
困惑するカシムをよそに黙々と掃除を続ければ、彼もまたひとつ息をついて、大人しく椅子に腰を下ろす。
いつもならそのまま釈然としない顔をしつつも黙り込んでいるのだが、少しして、カシムがそろりと口を開いた。
「そんなに僕が嫌なら……なんであのとき大佐に取り次いでくれたんだよ」
その言葉に、俺は拭き掃除をしていた手を止めて「はぁ?」と眉根を寄せる。
「ジェイドさんに会わせろって突然声かけてきたのそっちだろ。大体なんでオレだったんだよ」
「そりゃ……道ばたで書類ぶちまけてる間抜けな兵士が“ジェイドさんに怒られるぅ!”とか言ってたから」
「う、うるさいな転んだんだよ!! 忘れろ!」
「というか、お前も最初は断ってたじゃないか。涙目で。必死に。なのにどうして最終的に取り次ぐ気になったのかって話さ」
今一度問われて、あの日の記憶がふと脳裏によみがえる。
いくら俺がビビリだからって、頼み込まれて誰でも彼でも連れて行くわけもない。
それでも。それでも俺が、結局この男の願いを叶えてしまったのは。
「あんたも最初は――ただ本当に、ジェイドさんに憧れてただけだったんだろ」
ジェイドさんのことを口にする彼の、きらきらと輝く瞳を覚えている。
あのときは確かにあった、純粋な好意がにじむ声を、覚えている。
俺はきっと、そこに少し自分を重ねたんだ。
「…………あとオレは別の人達に会うためにセントビナーに来てるんであって、あんたはついでだ! ついで!」
気恥ずかしいような腹立たしいような気持ちで投げやりに怒鳴ると、カシムはしばらく沈黙を保った後、
「そうか」とだけ呟いて、ふと、力の抜けたような笑みを浮かべた。
*
「ようリック。ジェイドなら今いないぞ」
朝。
いつもどおり大佐の執務室に行くと、そこではこの国の皇帝陛下がソファでくつろいでいました。
「あハイ……昼まで会議だって聞いてます……けど、あの、陛下は何を……?」
「自主休暇だ」
「サボリですね!?」
もぬけの殻になった部屋を見て胃を押さえる大臣さん達の姿が目に浮かぶようだ。今度セントビナーに行ったときによく効く胃薬を調達してこようと思った。皆さんいつもお疲れさまです。
ここで、本当に大臣さん達の胃を思うのなら、すぐに陛下を連れ戻してあげたほうがいいのだろうけど。
「……もー、ちょっとだけですよ」
エルドラントのあれこれ以降とにかく忙しいピオニーさんに、少しくらい息抜きをさせてあげたいなという気持ちもあるのだ。
だから形ばかりは怒ったように眉根を寄せつつも俺がそう告げると、ピオニーさんは喉の奥で小さく笑って、分かった分かった、と肩をすくめてみせた。
「そういや、またセントビナーに行ってきたんだって?」
大佐の机に山積みになった書類を仕分ける俺に、陛下がふと思い出したように問いかけてくる。
「はい。お母さん……被験者のお母さんが、お友達から良いお茶を貰ったから、近くに寄ることがあったら飲みにおいでって手紙をくれたので」
「いつの間にか母親と文通まで始めてんのか。まぁ最近はケガして帰ってくることも無いようだし、妹のほうともそこそこ上手くやれてるってわけだ」
「いや、そこは入室二秒で一閃きます」
「相変わらずか!」
怪我をしなくなったのは、単純に俺が防御するようになったからである。
最初の頃こそ驚きやら何やらで反応出来なかったものの、来ると分かっていて、こちらも剣を持っていて、なおかつ相手がヴァンとか六神将みたいなレベルでなければ、俺だってそれなりに対処は出来る。出来てしまう。出来てしまった。
それからというもの余計に剣戟の激しさが増した気がするのだが、かといってわざと防御の手を緩めようものならそれこそ烈火のごとく怒られるのだ。いや、そもそも俺が反撃してこないこと自体、腹立たしいらしいのだが。
だから一度お母さんに、誘ってくれるのはとても嬉しいけど俺は来ないほうがいいんじゃないかと言ったのだが、大丈夫大丈夫と明るく笑い飛ばされるばかりだった。本当に大丈夫なんだろうか。
「あとは、カシムだったか? どうせ奴の家にも寄ってきたんだろ、どうだった様子は」
「…………アイツは……まぁ……普通ですよ」
「ははは!! お前がそこまで渋い顔するのサフィールとそいつのときくらいだなぁ、いや傑作だ」
毎度のことながらピオニーさんは俺の態度が悪いのがなぜか面白いらしく、膝を叩いて笑う。
「楽しまないでくださいぃ! もうそれ以上笑ったら大臣さん呼びますからね!!」
「あー、はは、悪い悪い。ところでリック、被験者親子の話を聞いているときにふと思ったんだが」
「? はい」
「ジェイドのことはお父さんって呼ばないのか?」
どばさささ
手に持っていた書類の束が、床に滑り落ちた。
「そ、そんっ、そ、そそ……え!?」
「なんだなんだ。赤面したり蒼白になったり忙しいやつだな」
「だ、だって!! ピオニーさんが! 急に!!!」
それは前にアニスさんに言われてから、俺としても妙に意識してしまっている件だった。
確かに俺はジェイドさんの養子になったけど、でもそれは書類上のことで、父さんとかそういう、だって俺は、ジェイドさんは、と以前アニスさんにもしたような言い訳をしどろもどろに繰り返す。
「と、というか今は、レプリカ達の保護を進めないといけなくて、まだまだ頑張らないといけないことがたくさんあって、その、今はまだ、俺のことは別にいいんです」
落とした書類を拾いながらそう言うと、ふむ、とひとつ頷いた陛下がふいにソファから腰を上げて、俺の前まで歩いてくる。
「……陛下?」
首を傾げつつ俺も立ち上がって、真っ直ぐにこちらを見る青を見返していると、陛下がふいに不敵な笑みを浮かべた。
その笑顔になんだか嫌な予感がすると思った次の瞬間。
「おし、手合わせするぞリック!」
そんな言葉とともに、鋭い拳が顔面すれすれに飛んでくる。拾ったばかりの書類たちが再び手から零れ落ちた。
「えぇ!? ちょっ、陛下!?」
「ほっ」
それを何とかかわして一息つく間もなく、今度は蹴りだ。
さほど広くもない室内では逃げるのにも限界があり、慌てて顔の横に腕を差し込んでガードする。
何でいきなり、何でこんな場所で、と聞くべきことはたくさんあったはずだが、避けるのに必死すぎてどの疑問もうまく言葉にならない。
ただ何で皇帝陛下がこんなに鍛えてるんだとは思った。ちょっとした兵士よりはるかに一撃が重い。
「あのっ、オレ、体術はあんまりっ……うわ!!」
いつの間にか追い込まれていたらしく、足がソファの肘掛けにぶつかった。
バランスを崩した俺はそのまま背中からソファに倒れ込む。
そんな俺の顔の真横に、陛下の拳がぼすりと突き刺さった。
「俺の勝ちだな」
真上から覆い被さるようにこちらを見下ろしている陛下が、にやりと笑う。
「……もう、突然なんなんですかぁ」
「はは。息抜きだ息抜き。仕事ばっかじゃ体もなまるだろ?」
「だからって何も室内でやらなくても……」
ぶつぶつと苦情を零す俺に陛下はもう一度小さく笑ってから、ふと真剣な表情になった。
普段はあまり見ることのない真摯な色をした青がこちらを映し、なぁリック、と俺の名を呼ぶ。
「頑張るのはいいが、あまり焦って先ばかり見るな。足元から一個ずつ埋めてきゃいいんだ」
「…………」
「その途中で、少しくらい自分のことに掛かり切りになる時があったって構わんだろ。というか構わん。マルクト皇帝が許す」
だから、焦らなくてもいいから、ちゃんと考えてみろと、太陽みたいな人が笑う。
親子とか父親とかそんな事を考えたときに胸の中に過ぎる、温かいような、くすぐったような思いにつける名前を俺はまだ知らない。
いつだって心に言葉が追いつかない俺は、やっぱり今度もその感情の意味を知るにはみんなの倍以上の時間が掛かるのだろう。
だから、今はまだ、なにも言葉にならない俺だけど。
「――ありがとうございます、ピオニーさん」
「……おう」
お礼を言われた途端ぶっきらぼうになった返事に、思わず小さく噴き出した俺をじとりと見やってから、陛下が身を起こす。
続いてソファから起きあがったところで俺はようやく気づいた。
男二人が大立ち回りをした後の、室内の惨状に。
「あの、ピオニーさん、片づけ」
「よし頑張れリック!!」
「ええええー!!! 手伝ってくれないんですかぁ!!?」
「いやぁ久々に運動して疲れたからな~」
「おや。では大人しく椅子に座って、デスクワークなど如何ですか?」
唐突に聞こえた第三者の声に、俺達は揃ってぴたりと動きを止めた。
俺は飼い主に呼ばれた犬よろしく目を輝かせて、陛下は口元をややひきつらせてゆっくりと、入り口のほうを振り返る。
「……ようジェイド、早かったな」
「会議が順調に進んだもので。ところで陛下、執務室で皆様お待ちかねですよぉ?」
「いや、まぁ、なんだ。もう少ししたら戻るつもりでだな」
「――衛兵!」
低いのによく透る大佐の声が響いて間もなく、執務室の扉が勢いよく開かれ、そこから数名の衛兵たちが突入してきた。
彼らは素晴らしく統率された動きで陛下を確保すると、そのまま執務室を飛び出していく。
そして「ジェイドこの裏切り者ぉおおおお!!」という陛下の断末魔(?)を残して、部屋の扉が、ぱたんと閉まった。
この間、実に十五秒足らずの出来事である。お仕事頑張ってください陛下。
「やれやれ。……さて、さっさと片づけますよ、リック」
「え、あ、はい!!」
部屋を散らかしたことを怒られると思ったけど、大佐は一度確認するように俺の顔を見ただけで、何も言わなかった。
散らばった書類をいくつか拾ってから、俺はふと、まだ告げていなかった言葉を思い出して大佐に向き直る。
「ジェイドさん」
「なんですか」
「おかえりなさい」
「ああ、……ただいま戻りました」
「はい! おかえりなさい!!」
「返された挨拶にさらに返してどうするんです」
そう言ってジェイドさんは呆れたように赤い目を細めて、それから、小さく笑った。