サルベージは1日に3人までが限度であった。
ゲンドウ亡き後、ネルフの組織解体の最中であり、人員と予算を削られた結果である。
それでも、冬月やリツコに言わせると最優先事項にされているらしい。
「道義上の事だものね」
サルベージされた母親達は順次、病院での検査入院後に家族の元に帰宅予定である。
最初の一組目はケンスケ、トウジ、ヒカリの三人の母親達であった。
彼女達の夫は再婚もせずに妻が還ってくるのを待っていたのだ。
「また、生きて娘達に会えるとは思いませんでした。有り難う御座います」
ベッドの上でユイに涙を流しながら感謝の謝辞を述べたのはヒカリの母親である。
彼女は3人目の娘であるノゾミを妊娠中に癌が発見された。
妊娠中の娘の命と自身の命の二者択一の選択を迫られた。
彼女は娘の命を選択した後に人口進化研究から勧誘されたのであった。
「人間を原子レベルまで分解して再生する研究をしています。身体は健康体で再生されます」
死の病魔に苦しむ人間が断れるはずがない悪魔の囁きである。
「仮に成功したとしても、既に何十年後で娘さん達どころか、お孫さんが成人しているかもしれません」
一応はリスクも説明されても座して死を待つよりはと、誰でも考える事であろう。
母親として何十年経過していても娘達の行く末を見届けたいと思ったのである。
深々と下げられた頭にユイとしては複雑な心境であった。
「人として、科学者として、同じ母親として、当然の事をしただけですよ」
(本当は私の軽率な行動が原因なんだけど)
平凡な社交辞令とも言える返答しながらも結果的には健康体となって還ってきたが、家庭の方は色々と問題があるのではないかと考えてしまう。
ユイ自身の経験談なのだから仕方ない。
(まさかねえ。あんな形でリッちゃんに手を出すとは思ってなかったわ)
既に離婚して他人となり鬼籍に入ったゲンドウに対する怒りは消えておらず葬儀にも顔を出さなかった。
周囲の説得でシンジとレイを名代として出席させたが悲しい事にシンジもレイも故人を悼む気持ちはなく、リツコの心配をするばかりであった。
自身の家庭でさえ家庭崩壊して離婚まで発展したのである。
これからサルベージ作業が進行すれば、騒動が起きるのは必至である。
(だからと言って、サルベージはしないとならないわよね)
ユイとヒロシの懸念通りにサルベージ作業が進むにつれて家庭内トラブルが発生したのである。
再婚もせずに父親と子供のみで暮らしていた家庭は少なくなかったが、既に再婚して新しい家庭を営んでいた親子も多かった。
新しい母親と一緒に幸せな家庭で暮らす我が子を見て黙って身を引く母親もいれば、元夫に対して我が子の親権を要求する母親も多かった。
突然、実母が現れて我が子同然に育て上げた子供と夫を争って、パニックになる継母も多く悲喜劇がサルベージした数だけ起きたのである。
鈴原家では子供達と夫に実父が喜んで迎えたが、何故か娘が一人増えていた。
「六年の間に利息がついた!」
自分はナツミという娘を産んだ筈だが不思議な事にサクラという自身が産んだ娘と同い年の娘がいた。
(私は双子を産んだ覚えは無いのだけど)
家族も自分が知らない娘の存在の事も説明する素振りもなく、ごく自然な態度である。
内心は別にして二人の娘が泣きながら抱きついて来たので、優しく抱き締め返しながらサクラを娘として受け入れたのである。
相田家は夫と息子だけの生活だったので大過なく迎えられたのである。
夫は出張が多いため、一人で居る事が多い息子は趣味に没頭する事で淋しさを紛らわせたようで、息子のミリタリー趣味の熱も徐々に冷めていった。
洞木家は夫と娘三人の生活で賑かではあったが、娘三人は母親の帰還を喜んで迎えた。
「ところでコダマ、貴女、一番上のお姉ちゃんのくせにヒカリに家事を押しつけていたらしいわね!」
「ちょっと、何で知っているのよ!」
「ネルフの人が退院する前に家庭の事情を教えてくれるのよ」
半分は嘘であり半分は事実でもあった。数年の間に夫が再婚している等の家庭の状況の変化もあるために事前に現状の家庭状況の説明をして、退院後の身の振り方の判断材料にしてもらう為である。
しかし、家庭内の細かい部分までネルフが調査する暇も必要もあるわけでなく、赤毛の少女が家事に追われる親友を気の毒に思いネルフ職員の地位を利用して報告していたのである。
「コダマもヒカリを見習って家の事をしなさい!」
長女のコメカミに握り拳をグリグリと押しつけて説教が始まった。
「痛い!分かりました!」
夫は苦笑いしながらも妻のお仕置きを止める気は無い様である。
シンジ達が親しくしていたクラスメートは家庭内トラブルもなく母親の帰還を喜んでいた。
(トウジとケンスケ。それに委員長も喜んでくれて良かった)
シンジは自分が気が回らない部分もフォローしてくれた冬月やリツコに感謝した。
当初、自罰的な性格からシンジが自身を責めて苦しむのではとレイやヒロシが心配したが杞憂となった。
因みにアスカに言わせると「あんな父親を持ったなら、大抵の家庭環境がマシに見えるわよ!」となる。
事実、子供を放置して新しい愛人を囲っていた父親は居なかった。
残された父親達は再婚した者もいたが、程度の質は別にして子供を一生懸命に育ていた。
こうして、24名の母親達が10年近い年月を超えて社会に復帰したのである。
それぞれの家庭でのトラブルもエヴァの核に取り込まれる前に説明されて予期できた事なのでシンジも被験者の自己責任として自身を責める事はなかった。
(これで、全てが終わったかな)
シンジはネルフ本部での宿泊最終日の夜をベッドで過ごしていた。
片手をレイに拘束されていたが、拘束されている事に安心感を覚える。
シンジとしてはゲンドウが残した負債を完済した気分であった。
「眠れないの?」
色々と考え事をしているうちにレイを起してしまった様である。
「ちょっとね。サルベージ作業も終わって、明日から普通の生活に戻れると思ったら嬉しくて」
「そうね」
「これから組織解体されたネルフに、どの程度の権限が残るか分からないけど、色々と制限される生活になると思う」
シンジはレイの深紅の瞳を見つめながら話を続ける。
「でも、僕は綾波が側に居てくれたら、それで満足だよ」
シンジは自由な片手をレイの背中に回すとレイを抱き締めた。
「私も碇君が側に居てくれるだけで満足よ」
一年未満の短い期間だったが、これから長い生涯を送るであろう二人には忘れる事が出来ぬ期間だった。
これからも平凡とは言えぬ生涯となるであろう。
ネルフが組織解体された後は、世界中のあらゆる組織がエヴァンゲリオンのパイロット達を狙う事も有り得るのである。
これからは五里霧中の人生となるのである。
それでも、紅い世界よりと比べると雲泥の差である。
何故なら、二人は互いが求めていた存在を手にする事が出来たのであるから。
シンジはレイの体温を全身で感じ取っていた。
「綾波は温かいな」
レイからの返答はなく、静かな寝息がシンジの耳に届く。
(戻って来て、良かった)
シンジはレイの寝顔を眺めながらレイの温もりに引きずられ様に睡魔に身を任せたのである。
シンジが幸福感に浸っていた頃、リツコが第三新東京市から自ら姿を消したのであった。
翌朝、リツコの失踪に騒ぐ大人達を無視して、食堂に朝食を摂りに来たパイロット達はリツコの失踪について何も語る事はなかった。
(今度こそ、リツコさんには幸せになって欲しいなあ)
シンジは逆行前の世界でミサトと共に見たリツコの慟哭を食後のコーヒーを飲みながら思い出してリツコの幸せを願うのであった。
(ネルフやエヴァに関わっても何も良い事は無いからなあ)
リツコの捜索も直ぐに打ち切られたのである。
組織解体中のネルフにはリツコの捜索を続ける余裕もなく、捜索しても発見が出来ない事が分かっていたからである。
ネルフの捜索範囲は第三新東京市内に限られており、リツコが本気で失踪すれば既に市外に脱出している事はネルフの人間ならば誰もが理解していたからである。
ネルフが捜索を打ち切った後も機密保持の名目で内閣調査室と公安警察が数年の時間を掛けて地道な捜索を続けたが遂に発見する事はなかったのである。
日本政府もリツコがエヴァやクローン技術に関する機密を墓場まで持って行くのなら好都合と言えたので捜索を打ち切ったという事情もあったのである。
これ以降、シンジを代表にパイロット達とリツコが歴史の表舞台に立つ事は二度となく人々の記憶から消えたのである。