バイト姿のまま駅前で解放されときには、既に太陽が高く昇っていた。
その格好のまま、どうやって家に帰ってきたのかすら良く覚えていない。
頭の中では、ただマリアさんから告げられた言葉だけが渦を巻いている。
僕は…フラれたのだろうか?
多分、そうなのだろう。
マリアさんの台詞が、思い返すたびにいちいち心に刺さってくる。
全てがもっともだ。現実に照らし合わせれば、僕とマリアさんが付き合うなんてあり得ないこと。
…はは。
そう、夢だ。
全ては夢だったんだ。
マリアさんが言った通り、ただお互いに楽しい夢を見たと思えれば、それで―――。
夢なわけ、ないだろうッ!?
僕は叫ぶ。
きっと意味もないことを叫び散らしたのだろう。
物に当たり、暴れたのだろう。
でも、今度は、止めてくれるマリアさんはいない。
それが悲しくて、なおさら僕は暴れて―――力尽きて眠った。
目が覚めて、顔が涙でバリバリで、胸がぽっかりと抜け落ちたようで、少しだけ落ち着いていた。
今さらながら、黒服さんから没収されていたスマホの電源を入れる。
まずは時刻が表示され、もう夕方だった。
それからホーム画面にスワイプさせ―――もしかしたら、メールか何かでマリアさんから連絡が入っているんじゃ? という淡い期待は打ち砕かれた。
…それでも、マリアさんの声が聴きたい。
そう思って、電話番号を展開し、僕は固まってしまう。
そこには、マリアさんの番号はおろか、過去に通話した履歴も何も残っちゃいなかった。
なあ、斉藤。僕の付き合っていた人のこと、覚えている?
翌日の学校で、僕はクラスメートに尋ねてみた。
「ああ。あの偉く美人なお姉さんだろ? なんかマリア・カデンツァヴナ・イヴに似ているっていう」
…そうか。覚えているのか。
「もしかして、おまえ、フラれちゃったり?」
まあ、そんなもんかな…。
答えつつ、マリアさんと一緒にいたことは夢じゃなかったと再認識。
例のスマホのデータ削除は徹底しすぎていて、本当に夢でも見ていたのではないかと錯覚してしまいそうになるほど。
やっぱり、データは弄れても、他の人間の目撃した記憶までは弄れるはずはないんだなとホッとする。
それにしても、切歌と調とのデータまで削除されていたのには参った。
おかげで、僕はマリアさんと連絡する術を全て失っている。
マリアさんの言葉に、反論したかった。
秘密を知ったから別れなきゃいけないなんて納得できなかった。
あんなに楽しんでいた姿がフリだなんて思いたくなかった。
けれど、ここまで徹底されると、心が揺らぐ。
マリアさんは本気で僕と別れたがっているのか、と。
…いや、その考え自体ものぼせあがりか。
これらの処遇は、マリアさんにとって今までの関係をリセットする程度の意味しか持たないんじゃないのか?
ただ、何もなかったことにするだけ。そこには感傷も何も存在せず、淡々とした手続きがあるだけで。
ああ。しょせん、僕なんかが、あのマリアさんとの関係を全うすることなんて出来るはずなんてなかったんだ。
だから、あの日々は、僕の人生における最高のボーナスステージってことで…。
―――納得できるわけないだろうッ!
僕は勢いよく席を立っている。
斉藤がヒッ!? と声を出していたけど気にしない。
カバンをひっつかんで教室を出ようとすれば、入れ違いで担任教師が入ってくる。
「おい、阿部。今から朝のHRだぞ?」
すみません、体調が悪いんで早退します。
もう一度、マリアさんと話をしたい。
切実にそう思う。
なので、マリアさんに至るであろう方法を考えんだけれど、手持ちの札は少ない。
例えば、先日見た光景とか口外しないとの誓約書に書かされた内容を、駅前でベラベラと演説する。
警察に通報されるか、もしかしたらその前に黒服のお兄さんたちも来るかもしれない。
また施設に連れていかれるかも知れないけれど、そこでマリアさんに再会できるかは分の悪い賭けだ。
となれば、残る伝手は一つだけ。
そういうわけで、僕は私立リディアン音楽院の前にいた。
もちろん家で着替えて仕込みも済ませ、時間は放課後に合わせている。
目立たないように隠れて、出てくる女生徒たちを数える。
目的は、もちろんあのお調子者コンビだ。
もし、あの二人も学校を休んでいたり、まさか退学していたりするとは思えないんだけれど………いた!
仲良く手を繋いで出てくるのは、間違いなく切歌に調。
二人きりで歩いているところを見計らい、声をかける。
おい、そこの二人。
「はい? どなた様デスか?」
「知らない人ですね…」
なに言ってんだよ、ハルトだよ。
「んー、聞いたことあるデスか、調ぇ?」
「聞いたことないね。知らない人にはついていっちゃダメだっていわれてるし、帰ろ、切ちゃん」
ったく、ふざけてんのか?
おい、待て、待ってくれッ!
「…しつこいデスねえ。なんなんデスか?」
「あんまりしつこいと変質者って叫んじゃうよ?」
くっ、変質者呼ばわりはマジ勘弁だ。
だかといってここで諦められるか?
しかし、二人の剣幕に、周囲を歩く人の視線も集まってきている。
一旦引く? いや、他に手段は…あ。
いやいや、僕は、二人があまりにも可愛いので、おもわず声を掛けてしまったただのナンパ人ですよ?
「ふん、そんなお世辞じゃ誤魔化されないよ。ね、切ちゃ…」
「聞いたデスか、調ぇ!? 可愛いデスって!」
「あー……」
可愛い可愛いお二人に、ちょいとそこのお店でお茶でもご馳走させて頂けませんかね?
「切ちゃんはチョロイけれど、私はそんなことじゃあ動かないよ?」
あ、ウルトラDXパフェ、ご馳走するよ?
「いくうッ!」
ふん、チョロイぜ。
喫茶店で、パフェに目を輝かせてパクつく二人を眺める。
でさ。改めて聞きたいんだけど。
「何も答える気はないデスよ」
「こうやってご馳走にはなっているけどね」
機先を制するようにそう言われた。
…やっぱり、マリアさんに強く口止めされていたり?
「………」
「………」
二人とも無言でパフェを爆食中。本当に分かり易くて助かる。
まあ、二人してマリアさんを裏切るのは辛いか。家族を裏切るようなもんだからね。
「こうやってパフェを奢ってもらっても、もともとは赤の他人なんデスからね!?」
それも、マリアさんからそう言えっていわれたんじゃない?
「………」
あーもう、分かり易すぎて逆に可愛く思えてくるわッ!
気まずそうに、それでもパフェを食べ終え、きちんと頭を下げてくる切歌と調。
「御馳走様デス!」
「さあ、行こう、切ちゃん」
ああ、待った待った。ところでキミたち、最近、体調に異常はない?
「………?」
不思議そうな目をする二人の前で、僕はナップザックから取り出したタッパーを一つずつ並べていく。
例えば、不意にカレーを食べたくなってどうしようもなくなったりとか。
「ギクッ!」
なので、急いで自宅でカレーを作ってみたけど、なんか物足りなさを覚えたりとか。
「…なんで分かるの?」
ふふ、それはね、僕の作ったカレーに対する禁断症状さ!
「な、なんデスとぉ!?」
インドの秘伝のスパイスの組み合わせで作っているんだよ、僕のカレーは! 定期的に食べたくなるのはもちろん、それでも無視し続けると、他のあらゆるカレーが食べられなくなる逸品なんだ、禁断のね!!
もちろんこんなの嘘八百。いくら僕でもそんなブラックカレーみたいなもんまでは作れない。
というか、この二人、根が素直すぎるんだよなー。
『キミ、可愛いからクレオパトラの生まれかわりじゃない?』なんていわれて、あっさり信じるタイプと見た。
「ど、どうりで真夜中に急にカレーが食べたくなったりしたはずデース…」
うん、それは単なる食欲旺盛だね。
「玉ねぎをたっぷり炒めたはずなのに、いまいちコクが足りなくて…」
玉ねぎは重要だけど、玉ねぎだけでもダメなんだよなあ。要はバランスよ?
まあ、そこでだ。
僕はテーブルの上のタッパーを差し示す。
右からビーフカレー、ポークカレー、チキンカレー、ベジタブルカレー、シーフードカレーでぇす。
「…くッ! そんなものを出されても、私たちは絶対に屈しないんだから!」
「もういいデスよ、調。もともとアタシもマリアの言っていることに乗り気じゃないデスし」
「一瞬で屈しちゃったッ!?」
「そもそも、ハルトと別れたから一切連絡取るな、これで赤の他人よ、ってだけの説明で納得できるデスか?」
「それは…私もそう思うけど…」
マリアさん、そんなことを二人に言っていたのか…。
「けれど、ハルト」
そこでようやく切歌は僕を真っ直ぐに見てくれた。
「アタシたちも詳しく知りたいケド、マリアとは連絡が取れないんデスよ」
調も溜息をつき、会話へと混ざってくる。
「切ちゃんの言っていることは本当だよ。極秘任務ってこともあって、マリアが何をしているかは私たちも詳しくは知らされてないの」
…そうか。じゃあ、それを見越して二人に頼みがある。
「なんデスか?」
極秘任務とかの詳細を出来るだけ調べて欲しい。そして、もう一つは…。
「…うーんデス」
「極秘任務のことは難しいけれど、もう一つの方は」
そうか、頼むよ。
「でも、バレたらマリアに滅茶苦茶怒られるだろうから、割に合わないデスね」
なら、これでどう?
「なにこれ? チケット…?」
このチケットと引き替えに、僕が注文通りのオリジナルカレーを作ってやるよ。どうだろう?
「…調。アタシは乗ったデスよ」
「もう、切ちゃん、仕方ないなあ」
二人とも、ありがとう。
日付は飛んで、クリスマス・イヴの当日の夜。
僕は、電気もついてないリビングで、テレビの画面を眺めている。
クラスメートたちとのクリスマス会はすっぽかした。
画面の中のツヴァイウイング特番は、ちょうど風鳴翼のサプライズライブが中継されているところ。
そこに―――マリアさんの姿はなかった。
…よしッ。
僕は立ち上がる。
途端に足もとがふら付いた。
ははは、しっかりしろよ。もう覚悟は決めたはずだろ?
でも、万が一。
マリアさんが本気だったら、空回りのピエロだよな、僕。
それでも行くと決めたんだろ?
なのになんでいまさら足を震わせてるんだよッ!
気合を入れろッ!
自身を叱咤したその時だった。
ピンポーン、とチャイムの音。
誰だろうと思ってエントランスから流れてくる声に耳を澄ます。
『あの…小金井です』
小金井? なんでここに?
『阿部くん、クリスマス会、来なかったでしょう? そのお金、余ったから返金しようと思って…』
少し迷い、エントランスを開けた。間もなく小金井は僕の自宅前へ。
ドアを開け、玄関へと招き入れる。
パーティ帰りらしい小金井は、お召かししていて可愛かった。
…わざわざ持ってきてくれなくても良かったのに。どうせ、明後日は終業式で学校で会えるだろ?
「ううん。今日が良かったの。でないと、阿部くんがどこか遠くへ行っちゃいそうで…」
え?
胸に柔らかい感触。ふわんと甘い香りが鼻先を撫でる。
僕、小金井に抱きつかれている?
震える足のまま受けて止めてしまい、困惑するしかない。
あ、あの、小金井…?
「…好き」
はい?
「好きなの。わたし、阿部くんのことずっと好きだったの…」
なあッ!? このタイミングで、僕、告白されてる…?
え、えーとえーと。好きだったっていつから…。
「一年の林間学校。あの時、みんなに凄く美味しいカレーを作ってくれて…」
ああ、あれか。確か、あんまり女子の手際が悪くて、つい出しゃばっちゃっただけで。
「避難所での炊き出しのときだって、大なべ何杯分のカレーを一人で黙々と作っていて」
そりゃあ…出来るだけ美味しいカレーを食べてもらいたくてしたことだけどさ。
「この間の文化祭でも凄かった。あんなにたくさんのカレーをあっという間に」
更にぎゅうっと抱きつかれる。
「阿部くんのカレーは、みんなを笑顔にしてくれるんだよ? そんなカレーを作る阿部くんのことが、わたしは大好きで…」
僕の腕の中で、涙を浮かべて見上げてくる小金井。
この予想だにしないシチュエーション。
嬉しくないとは言えば嘘になる。でも僕の内心は複雑だ。
OK、それは分かったよ。でも、小金井は斉藤と付き合っているんじゃ…。
「あれは違うの! ちょっと斉藤くんに相談したら、阿部くんの気を引くために色々と考えてくれたみたいなんだけど…」
じゃあ、あの写真は?
「あれも斉藤くんの提案で、誤解なの! よく写真を見れば、ちゃんと唇を隠して実際にキスなんてしてないんだよッ!? 本当だよッ!」
………。
なんてこった。
もしかしなくても、僕と小金井は両想いだったってことか?
しかも一年以上前からって…。
「写真のことは本当にごめんなさい! 阿部くんを傷つけちゃったらごめんなさい! 自分でも浅はかだって死にたくなるくらい反省してる! でも」
必死の表情の小金井の顔がすぐ近くにある。
「わたしは、本当に阿部くんのことが好きなの…」
小金井は、たぶん嘘をついていない。
そう思ったとき、僕の心もグラリと揺れた。
こんな真っ直ぐに異性から告白されたのは、生まれて初めてのことだから。
…小金井。
肩に手を伸ばす。
僕の手が触れる寸前、小金井は顔を上げた。
目にはいっぱい涙をためて、唇を噛みしめて、
「…揺らがないでよ、バカァッ!!」
アイタぁッ!?
思いきり頬を叩かれた。
え? 何が起きているの? 何で叩かれたの?
「阿部くん。あなた、あの人のことが好きなんでしょう?」
は、はいッ!
小金井の剣幕に、素で答えてしまう僕がいる。
すると、小金井がふっと悲しそうに笑って俯いた。
「どこで調べたのか分からないけれど、そのマリアさんから、わたしに電話が来たわ」
頬を押さえたままたじろぐ僕に、小金井は顔を伏せたまま押し殺した声で言う。
「『あなたが彼と一緒にいてやって頂戴。ハルトのことをよろしく』だって。信じられる?」
えッ!? マリアさん、なんでそんなことを!?
「分からないの? あなたはマリアさんにフラれたんでしょう? そうでしょう?」
…あ、ああ、多分。
「…フッたなら、泣きそうな声で電話なんかしてこないでよ! なによ、それ! なによそれッ! わたしをバカにするにも程があるわよッ!」
顔を押さえ、小金井はその場に泣き崩れる。
「世界の歌姫さまだか知らないけれどッ! わたしはあなたの代わりなんかじゃないのにッ…!!」
………。
キリキリと胸が痛む。
黙っていれば分からないことを、言わなくても良いことを、いま小金井はぶちまけている。
それは彼女のプライドか、けじめなのか、僕には推測する資格すらない。
けれど彼女の告白は、僕の中の足りなかった覚悟へ向けて、そっと最後の一押しくれた。
ありがとう、小金井。こんな僕を好きになってくれて。
だから僕は礼を言った。言うことしか出来なかった。
ふと、小金井と彼氏彼女になった姿を夢想してたことを思い出す。でも、それも過去のことだ。もう、僕の覚悟は揺らぐことはない。
「…そこ、阿部くんの悪いところだよ。すぐに自分を卑下しちゃうの」
手の隙間から赤い目を覗かせて小金井。
…そうかな?
「ええ、そうよ。だって、あのマリア・カデンツヴァナ・イヴを惚れさせたんでしょう? そんなの誰にでも出来ることじゃないよ」
…ありがとう、小金井。本当にありがとう。
再び礼を言い、僕は玄関脇のキャリーバックを手に掴む。
それから、床に蹲ったままの小金井の声に、一度だけ振り向いた。
「…さようなら、ハルトくん」