「あー……よく寝た気がする……」
とても清々しい目覚めだった。体は軽く活力に満ちていて、泥濘のようにまとわりつく眠気もない。いつもは重い瞼がいとも簡単に開き、視界が暗闇から色鮮やかなものへと変化する。
仰向けの状態から体を起こしながら、ぐっと体を伸ばす。それから脱力すると筋肉がほぐれる心地よい感覚が走り、軽く声が漏れる。
こんな快適に目を覚ましたのなんて何年ぶりだろう。子供の頃は朝になるとすぐに目が覚めたのに、いつの間にかすっかり起きられなくなってしまった。たぶん疲れを回復し切れなくなってきたんだろう。
でもこんな風に起きられるなら自分はまだまだ若い。なんて、年寄りぶったことを思ってみる。本当のお年寄りが聞いたら苦笑しそうだ。
……さて。
つらつらと益体もないことを考えていたが、そろそろ現実と向き合わねばなるまい。正直なところ、気持ちよい目覚めだとか少年老いやすくだとか、そんなことを考えている余裕など無いのだ。
だって――
「ここどこ?」
こんな草原の真っ只中で無防備に寝ていたなんて、どう考えても異常事態だろう。
思わずこぼれた問い。もちろん答える者がいるはずもなく、そのまま青い空へと消えていった。
遭難した時は無闇に動き回ってはいけないらしい。
だからというわけでもないが、ひとまず大自然のベッドに再び身を横たえることにした。
こういう時にすべきことと言ったら、状態や状況の確認が定番だろうか。
「とは言っても、全然思い出せないんだよなぁ」
だが、今の自分にとってはそんな初歩的なことさえもかなりの難題だった。
まず分かったのは以前の記憶がろくに思い出せないことだ。
どんな感じかというと……。
――自分は日本人である。以上。
まともに思い出す気が無いとかではなく、本当にこれだけしか確信が持てないのだ。
住んでいた場所、人間関係、どのように生活していたのかなどを思い出そうとすると、途端に思考は濃霧に包まれたようになってしまい、確かなことを1つも拾い上げられなくなってしまう。
正確に言えば濃霧に包まれたと表現するのも違うのだが……まあ、今はそんなことはいい。もっと重要なことがある。
「あ、あ、あ――やっぱり」
狙ったわけではないが独り言を口に出していたおかげで違和感に気がつけた。
喉をさすりながら、マイクチェックをするかのように特に意味の無い音を発してみて確信する。
最初は調子が悪いだけなのかとも思ったが、どうにもその程度ではない。
というか。
「どう考えても他人の、それも女の子の声だよな……あ、俺男だったのか?」
期せずして自分の性別を思い出し? ながら、そんなことを独り言ちる。
少なくとも俺の声は、こんな可愛らしい感じではなかったはずだ。もっとこう、なんと言おうか。パッとしないというか、そんな声の人よくいるよねというか、とにかく地味でこんな個性的ではなかったはずだ。
ああ、そうだ。性別のことが分かったついでに確かめてみるか。
「うん、ついてない」
声同様にこれまた個性的な服着てるなぁ。それに視界の端に映る髪がピンク色で派手だ。
そんなことを思いながらさっさと上体を起こし、見える範囲で体を眺めてみたり、某野菜人が幼少期にやっていた方法でチェックしてみたりして確信する。
今の俺、女だ。
……うん、分かりきってるのは分かっている。わざわざそんな念入りに確かめなくても肉体が女性のそれであるということくらい分かるだろうと。全く間抜けなことをした。
ただ解せないことが一つ。
「なんか……聞き覚えあるような」
人間関係を思い出せないのに覚えがある声とはどういうことだろう。無意識にでも覚えていそうとなると、親しい誰かの声か。それが肉親なのか、愛を誓った相手なのか、友人なのかは分からないが。
もしそうなら自分の体は今その相手の体だということになる。……急に申し訳ないというか、居たたまれないというか、何とも言えない気分になってきた。
「うん? でも、もしそうならそれはそれで結構なヒントになるんじゃないか?」
もし思い出せないだけで本当は見知っている誰かの体だというのなら、その顔は当人のものであるはずだ。鏡か何かでそれを認識すれば記憶が蘇るかもしれない。
「問題は、鏡なんてこの辺りには無さそうなところか」
今時、こんな大自然なんて日本じゃ北海道にあるかどうかというぐらいの草原だ。見渡せる範囲では民家どころか人工物すらも無い。見えるものと言えば遠くに森が広がっているくらいだ。
……改めて考えると、だいぶまずい状況じゃないかこれ?
さっきのボディチェックの時に分かったが、今の自分はまさしく着の身着のままだ。
服にはポケットがついていないし、何かしらの手荷物が周囲に転がっているとかもない。ましてや服の下に何かを隠し持っているとかでもない。
となれば携帯電話という文明の利器を持っているはずもなく、ちょっと誰かに連絡して助けてもらうとか現在地を調べてみるとかも出来ない。
要するに、今の俺は死にたくなければサバイバルをしなければならない。鏡どころの話ではなかった。
「冗談じゃない……!」
どこか楽観的に構えていた意識が血の気と共に引いていくのが分かる。
このまま訳の分からないまま飢えたり渇いたりして死ぬなんてごめんだ。
居ても立ってもいられなくなり、俺は立ち上がると草むらをかき分けながら、あてもなく歩き出した。
そして、10秒後には勢いよく大きな水溜まりに落下した。
「えっ、ちょ、うわ――」
草で隠れていて見えなかったが、どうやら地面に穴が空いていたらしい。
地面にそのままぶつかるよりはマシだった、なんてこと考える余裕もなく俺は溺れかけた。
幸いにも底に足がついたのでげほげほと咳き込みながら、何とか立つ。
「全く、こんな時に……さっさと上がらないと――」
見上げて言葉を失った。
高い。崖という程ではないがそれでも登るにはキツい土の壁がそこには立ちはだかっていた。
道具か何かがあれば登れるかもしれないが、あいにくと素手だ。
それにフリークライミングに初挑戦といこうにも、人工で造成したのではないかと思うくらいでっぱりがない。絶壁だった。
ここで終わりなのか。この水牢みたいな穴の中で死ぬのか。
「――ふざけるなっ!」
気がつけば俯きながら、目の前の土壁に拳を何度も何度も打ち付けていた。
完全に八つ当たりだった。
起きた時はあんなに快適な目覚めだったのに、それが1時間もしないうちに命の危機だ。
焦り、怒り、不安。そういった諸々の感情がまぜこぜになって、抑えようがなかった。
なかったのだが、その感情は瞬く間に驚愕に取って代わられることとなる。
「ふざけ――え」
急に壁を叩く感触が消えた。
それまでの怒りが拍子抜けするように消えて、思わず間抜けな声を出してしまう。
顔を上げると、そこには空間があった。土があったはずのその場所はちょうど1メートルくらいの立方体に切り取られたようになっていたのである。
どういうことかと困惑して、ふといつの間にか右手に何か持っていることに気づく。
それはちょうど四角く切り取られた手のひらサイズの土に見えた。
「…………」
ふと1つ思いついた。
そんな馬鹿な、という思考が湧き起こるのを感じつつも右手の土の直方体をその空間に置くように意識する。
――次の瞬間、そこには先ほどと同じような土壁があった。
「あっマインクラフトだこれ」
自分のものでないはずの声で出たその言葉は、しかし確かに自分の口調だった。
そのまま無言で、今度は先ほどよりも静かにトントンと壁を叩く。土がサイコロ状に消滅し、手元に手のひらサイズで現われる。
今度は頭上の若干手の届かない、浮いている土に叩く動作をしてみる。消滅して手元の土が増えた。
そんなことを繰り返すうちに地形が階段のように削れたので、半ば放心状態で水から上がり、ぺたりと座り込む。
訳が分からなかった。分からないが、とにかくちょっと落ち着いたら喉が渇いた。
そういえばちょうど水があるな。さっき落ちたばかりだし、生水だが、まあマインクラフトなら大丈夫だな。良かった、とりあえず水問題は解決だ。
支離滅裂な思考になっているのをどこかで自覚しながら、とりあえず水を手に汲もうと水溜まりに身を乗り出す。
水面に、自分の姿が映った。
「――琴葉、茜」
思わずその名を呼んだ。
別に『本物』に出会ったことがあるわけではない。
それでも水鏡に映し出された姿は、紛れもなく彼女だった。
「嘘だろ」
感情の抜け落ちた顔で『彼女』の唇は俺が発したのと同じ言葉を紡いだ。