すぅすぅという寝息が隣から、というか耳元から聞こえてくる。
葵だ。瞳を閉じ、安心しきった顔で寝ているが、その静かな寝顔とは裏腹に
「これならベッド持ってくる必要も無かったかなぁ」
マインクラフトにおけるベッドは通常シングルサイズである。さすがに狭かったので彼女の部屋から持ってきて設置したのだ。
最初はそれぞれのベッドで横になっていたが、そのうちもそもそとこっちに寄ってきたと思っていたらすっかりこうなっていた。
一応声はかけてみたが特に反応は返ってこなかったから、多分完全に寝相というか無意識の行動なんだろうな。柔らかいし、良い匂いがするし、温かいし、役得なのはまあ、否定しないが。
「こっちも眠くなってきたな……」
元々、もう少しで眠りそうというところだったのだ。
葵の体温を感じていることもあってか、だんだんぽかぽかしてくる。意識が再び微睡み始め、いつしか俺も眠っていた。
「お姉ちゃん、朝だよ!」
「へっ?」
「早く着替えてご飯食べないと! 学校に遅れるよ!」
突然体を揺さぶられて目が覚めた。
まず、こちらを覗き込んでいる葵の姿が視界に入る。ブレザー姿で髪もちゃんと結んでいる。とっくに準備が済んでいるようだった。
それから白いクロスの貼られた、見慣れた自室の天井。若干色褪せているのは経年劣化によるものだ。物心ついた頃はまだ家も建って数年で白かったのだが、さすがに年季が入ってきた。特に困ってはいないけれど、そのうち気が向いたら変えようかな。貼り直すの面倒だけど。
「あーせやな……え? 学校?」
そんなことを思いながら葵に返事をして、そこで何かが変だと思った。
学校? おかしいな、学校なんてとっくの昔に卒業したはずなんだけど。
いやいやそうじゃない。もっと根本的に、何かが間違っているような。
「何寝ぼけてるの、今日は思いっきり平日だよ!」
葵はそう言いつつ容赦なく布団を捲ると、そのままカーテンも開け放った。
途端に暖かい布団の中の空気が無くなって肌寒さを感じ、思わず身を縮める。
部屋の中に朝日が射し込んできて、寝起きを容赦なく照らし出した。
「ううっ、ウチのお布団が~眩しい~」
「ほら、起きるの!」
急かされて渋々起き上がり、ぐっと伸びをする。
それからクローゼットに向かうと戸を開け、お気に入りの服と並んでかかっている制服一式を取り出した。
姿見の前に立つと、眠たげな顔をしたパジャマ姿の自分が映った。可愛いな。これ大人になってからも、当分はお化粧無しのすっぴんでも充分行けるんじゃないか。
「茜ちゃん可愛い」
「いきなり何を自画自賛してるの……ナルシストにでもなった?」
ぼんやりとした頭でそう呟くと、後ろから葵の呆れた声が聞こえてきた。
「私、先に下降りてご飯食べてるからね。……二度寝しないでよ?」
「分かっとるで~」
部屋を出る前に釘を刺してきた彼女にそう返しながらパジャマを脱ぐ。
衣擦れの音と外から雀の鳴き声だけが部屋の中に響く間もずっと違和感について考えていたが、どうにも答えは思い浮かばなかった。
やがて着替え終わる。畳んだパジャマと机の上に置いてあった通学鞄を手に持つ。
「よし、それじゃあさっさと朝ご飯を食べて――」
『ちゃうやろ』
1階に降りようと扉に手をかけたところで、自分以外誰もいないはずの部屋で声がした。
ハッとして振り返る。特に人影はなく、せいぜいが姿見の中の自分が無表情にこちらを見ている、だけ。
「――え」
『ちゃうやろ』
声の主は、姿見の中の自分だった。
「な、何が違うんや」
『何もかもがや。アンタは――琴葉茜やあらへん』
「あ――」
まるで雷に打たれたかのような衝撃が走った。
ああ、そうだ。なんで忘れていたんだろう。
自分は、俺は琴葉茜じゃない。俺は、俺は――じゃあ、いったい?
鏡の中の茜がぽつぽつと呟くように、だが冷たい口調で言葉を続ける。
『アンタは、葵の姉でもあらへん』
「うわっ!?」
気がつけば、俺は姿見の前に立っていた。
総毛立つような感覚に後ずさろうとし――足がちっとも動かないことに気がついた。
「な、なんで」
『返しぃや』
必死にもがこうと無駄な努力をしている俺に、琴葉茜は幽鬼の如く手を伸ばしてくる。
その腕は鏡がまるでただの窓であるかのように通り抜け、硬直したままの俺の右腕を掴んだ。
とても冷たく、凍りついてしまいそうな手だった。
「ひっ、あっ」
『ウチの体も、葵も』
ぐいっと引き寄せられ、眼前に彼女の無機質な顔が迫る。
赤く透き通っていて綺麗な、しかし感情の抜けたビー玉のような瞳に射抜かれて心臓が早鐘を打つ。
鏡はいつしか部屋を映しておらず、ただどこまでも続く暗闇の世界だけがあった。
『返しぃや』
「ひ、い、嫌、怖い! 許して!」
ずりずりと引きずるかのように、体が鏡に吸い込まれ始めた。
動く上半身で咄嗟に鏡の縁を必死に掴んで抵抗する。
何が何だか分からないまま反射的に取った行動だった。
しかし、それも空しく徐々に体は鏡の向こうへと引き込まれていく。
「お姉ちゃん! 二度寝してるんじゃないよね! 時間無くなる――え?」
突如、扉の向こうから声が聞こえてきて、ドアノブがぐるりと回った。
さっき下に降りていった葵だ。なかなか降りてこないから再度様子を見に来たのだろう。
彼女は眉間に皺を寄せながら入ってきたものの、この突拍子の無い光景に思わず目を丸くしたようだった。
「葵! 助けて!」
「お、お姉ちゃん!?」
俺が葵に助けを求めると、彼女は慌てた様子で駆け寄ってきた。
微かな安堵が胸に広がるも、手が滑りそうになり視線を鏡の縁に向ける。
そろそろ腕も限界が近い。助けて、早く――
「あ、葵!」
「お姉ちゃん――」
『嘘つき』
言葉も無く、俺は葵の顔を見た。
能面のような、一切の温かみを感じられないその表情は鏡の姉そっくりだった。
『嘘つき』
葵がもう一度言った。
怒りが、失望が、軽蔑が入り混ざったその声音を聞いた途端、絶望や諦念が頭を支配してフッと体から力が抜けかける。
そのちょうどのタイミングで、葵は軽くトンと俺の体を押した。
「あ……」
完全に、鏡の縁を掴んでいた手が離れた。
どんどん鏡の奥へ、底へ。葵の姿が遠く、小さくなっていく。
引きずり込まれているようでもあり、沈んでいくようでもあった。
真っ白になった思考の中、耳元で茜が囁く。
『忘れてもうたん? せやったら思い出させたる』
見えずとも彼女の口が弧を描いたのが分かった。
いったい、何を言っているのだろう。
それを問いただそうとしたところで、後ろから彼女に抱きすくめられ、て――
――アスファルトの上に投げ出されていた。
体中が痛く、路面は冷たく固くざらざらとしていた。
――暗い部屋の中、PCのモニターの前で突っ伏していた。
脇に置いてあったスマホが、机の下に落ちていった。
――薬品の臭いに囲まれて、力なくベッドの上に横たわっていた。
イヤホンの音がだんだんと遠くなっていった。
――内臓の浮き上がるような浮遊感を覚えていた。
地面が近くなっていった。
――物憂い人気の無い森の中でぶら下がった。
一瞬息が詰まって、すぐに楽になった。
――振り下ろされた鈍い銀色が街灯に照らされるのを見た。
冷たいはずなのに、熱く灼けるようだった。
他にも、色んな景色の断片があった。
そのどれもが見覚えがあり、同時に見覚えのない光景で。
だが、ただ1つ確かだったことがある。
どの景色の最後にも残ったもの、それは。
――アカネチャンカワイイヤッター……。
「ひっ!?」
目が覚めた。咄嗟に視線を動かして辺りの様子を窺う。
寝る前と同じ、築3日の自宅の自室だった。部屋の中はカーテン越しの朝日ですっかり明るくなっている。
特に、どこにも変わった様子はない。
「……ふぅ」
長い溜息を吐く。
それから起き上がろうとした辺りで体が重いことに気がついた。
「うん?」
視線を下に向ける。
葵だった。あどけない雰囲気さえする表情で、お腹の辺りに抱きついたままぐっすりと寝ている。
それを見て、思わず苦笑する。同時に安心感が体を満たしていくのが分かった。
「ひっどい、夢だったなぁ」
考えてみれば、この世界に来てから初めて見た夢だった。
よもやそれがとんでもない悪夢になるとは思いもしなかったが、まあ色々あったせいだろう。
夢は脳が起きている間の記憶を整理する過程で見るものだと言われている。それは必ずしも順序立てて整然と行なわれるものでもないので、だから支離滅裂だったり不条理だったりするのはよくある。見ている最中は何の違和感もなく、夢特有の謎法則を受け入れることも多いが。今回のも同じ口だろう。
まあ、そのうち忘れるだろう。夢はあくまで一時的なもので、何なら実は寝るたびに見ているが大抵は忘れてしまっているくらいのものらしい。……しばらくは忘れられそうにないけど。
「お姉、ちゃん……?」
「おはようさん」
くっついていた俺が動いたからだろう。
どうやら葵も起きたみたいだ。
「おはよう……何だか変な感じだね」
「どしたん?」
口元に手をやりながら小さく欠伸をする彼女は、何やら不思議そうにしている。
尋ねてみると彼女はああ、と頷いた。
「ん、元の世界に居た時はいつも私がお姉ちゃんを起こしてたから。一回起こしても二度寝しちゃうこともあって大変だったんだよ?」
「せ、せやったんか。寝坊助さんやったんやなぁ、ウチ」
「全くだよ、ふふ」
不意に夢の冒頭を思い出して動揺してしまう。
それを隠そうとしながら相槌を打つ。幸い葵は気づかなかったようだ。
葵はベッドから降りながら言う。
「それじゃあ、私部屋に戻って着替えたら朝ご飯用意するね」
「ん、よろしゅうな」
葵が部屋を出て行く。
昨晩と打って変わって、すっかり元気になった様子だった。良かった。
ああ、そうだ。葵のベッドどうしようか。まあ寝る段になってまた聞けばいいか。
動かす手間なんてあってないようなものだし。
「それじゃ、俺も起きるか……」
――返しぃや。
ビクリと体が跳ね上がり部屋を見渡す。
もちろん誰も居ない。そして、この部屋には姿見もない。
洗面所や風呂場には一応、大きめの鏡は設置してあるが。
ふと机の上の手鏡が目に入り、恐る恐る手に取って自分の顔を映してみる。
強ばった表情の
「……はぁ」
止まっていた呼吸を再開する。ただの、幻聴だった。
ベッドに身を投げ出して脱力する。どうにも夢が尾を引いているみたいだ。
こんなにメンタル打たれ弱いとは、自分でも知らなかったな。震える右腕をさすりながら俺はそう思った。
部屋の前を足音が通っていく。着替え終わった葵が下に降りていったのだろう。
その気配にほっとして今度こそ俺も起き上がるとさっさと服を着替え、そのまま部屋を後にする。
もう声が聞こえたりは、しなかった。