琴葉茜とは音声読み上げソフトVOICEROIDシリーズの製品の1つであり、またそのイメージキャラクターである。セットになっている妹の琴葉葵曰く「少し天然」、関西に住んでいた影響で関西弁風の喋り方をする。ピンクの髪に黒い服装、赤い髪留めが妹と対になっている。
その彼女が、目の前にいる。いや、正確には水面に映っている。そして映っているのは俺自身だ。
「……ああ、そうか」
呆けたままそれを眺めていた俺だったが、あることに気がつく。
そうだ、なんでこんな簡単なことに気がつかなかったんだろう。
あり得ない出来事の連続、記憶の断絶。そういったことが起きる状況なんて決まっているじゃないか。
これ、夢か。俺は頬に手をやり、勢いよくつねった。
「痛い痛い痛い!」
激痛が走った。痛い。ものすごく痛い。
万力のような、とは言い過ぎだがそれでも結構本気で力を入れたのだ。
さすがに水面だと分からないけど、たぶんちょっと赤くなってるだろう。
「夢じゃ、ない」
だが、おかげで少し頭は冷えたように思う。よし、今一度冷静になって考えてみよう。
ここまでの出来事で何が分かった?
「まず、ここではマインクラフトのように物を壊したり置いたり出来る」
サンドボックスゲームの金字塔マインクラフト。このゲームは大雑把に説明すれば、世界を構成する様々な種類のブロックを壊したり設置したりして思い思いの建築を楽しむという内容のゲームだ。モンスターと戦ったり作物や動物を繁殖させたりといった要素もあるが、今はそれは置いておこう。
俺はそのゲームと同じようなことが出来るようだ。土や木を何度か叩くとその部分がブロックごと消え、アイテムとして得られる。さっきの感じだとゲーム同様、2~3人くらい離れていても届く。
この世界の法則なのかもしれないが、ともかく今は俺にはそれが出来るということが重要だ。とはいってもまだ土で試してみただけだ。木でも出来るか確かめてみないと。
何もかもがゲーム通りというわけではないようだしな。
空を見上げる。太陽の位置はさっきとほとんど一緒で昼下がりくらいだろうか。もしもこれがゲームだったら10分くらいで陽が沈む。ゲームだから気にならなかったけど、あれが現実だったら時間感覚がとんでもないことになるだろう。
もっとも地形が四角かったり土が宙に浮いたりしているのを見るに、ゲームの法則と現実的な物理法則とがごっちゃになっているのかもしれない。今の段階では何もかも推測にしかならないが。
「次に、俺は今琴葉茜の姿になっている」
そして、個人的にはそれ以上に衝撃だったのがこれだ。
絵で見るのと比べればもちろん違いはあるが、それでもこの姿はまさしく琴葉茜だ。
ピンク色の長髪、特徴的な髪飾り、黒を基調としたワンピース、妹と同じ赤い瞳。髪飾りやワンピースはともかく、髪や瞳の感じはウィッグやカラーコンタクトでは再現出来ないだろう。それだけの説得力があった。
しかし、琴葉茜か。
記憶が曖昧なのに不思議な話ではあるが、俺は別に彼女のことが嫌いなわけではない。むしろとても好みのキャラクターだ。公式設定は先ほど思い出した程度のものしかないから、彼女が出てくるストーリーなんてのは基本的に二次創作しかないが、それでも妹の葵共々大好きだった。
男だったはずなのに女になっているとか、架空の人物になっているとかに思うことはあるが、大好きなキャラになっているのだ。別に悪い気はしない。
しかし、そうなるとこれは異世界転生か何かだろうか?
現代社会の人間が何かしらの理由によって死んでしまい、別の世界に生まれ変わって大活躍する。別の世界は主にRPGのようなファンタジーのことが多いが、異なる歴史を辿った現代社会だったりSFチックだったりすることもある。でも俺は既存のキャラクターの姿で既存のゲームの世界だからな。さしずめ二次創作か。
……ふと、自分は今さっき誕生したばかりなのではないかという思いが脳裏を掠めた。つまり俺は転生どころか前世すらない、本当は存在しない人間なんじゃないかと。
まあ、考えても仕方ないことなのだが。
そんなのは卵が先か、鶏が先かと問うようなものだ。それに第四の壁の超越も証明も土台不可能な話である。
堂々巡りになってキリがない。思考を早々に打ち切ることにする。
「こんなところか」
完全ではないが、自分の状態と今置かれている状況は把握出来た。
となれば早速試すことがある。
俺は立ち上がると、先ほど削った地面を登ることにした。
「おっ、すごい」
登りやすくなったとはいえ、土は1メートルぐらいの高さがある。
しかし、俺はそれを難なくすいすいと登っていくことが出来た。間違いなく身体能力が上がっている。常人の、それも女性の体でこんなことをやろうとしたらそれなりに負担がかかるはずだ。
考えてみれば先ほど穴に落ちた時だって、水があったとはいえさほどの衝撃が無かった。
パニックで溺れかけたし、ゲームみたいに1マスの水なら心配ないというわけにもいかないが。
それでも間違いなくこれは朗報だった。
「家を建てる時は天井の高さに気をつけなくちゃな」
ちょっとジャンプしてみると案の定腰より高いところまで跳び上がった。ゲームみたいに意味も無くぴょんぴょん跳ねるつもりはないが、それでも閉所では気をつける必要があるだろう。天井に頭をぶつけて痛い思いを、なんてしたくない。
さて、穴から出た俺は今度は遠くに見える森の方へと向かう。今度は落下しないように足下に気をつけながらだ。ついでに途中で草むらを殴る動作をしたら一瞬で草が飛び散り、いくつかの種も手に入っていた。成長速度がどんなものかは分からないが、農耕は出来そうだ。
それなりに距離があったが何事も無く、やがて森の端っこに辿り着いた。とりあえず手近なオークの木に近づき、土の時と同じように軽く何度か殴ってみる。
「まずは、よし」
木がアイテムとして手元に収まっているのを見て安心する。
しかし、これはあくまで第一段階だ。もしもこの世界がマインクラフトに準じているというのなら、必須の要素がある。
俺は手元の木をじっと眺める。そしてそれが加工されるのを意識した。
すると脳裏に4つの枠と、そのうちの1つに手元の原木が置かれるイメージが出てきた。俺はその状態をさらに進めるイメージを持った。
「よし、よしっ!」
手元の原木が4つの木ブロックとなったのを見て喝采を上げる。クラフト機能はしっかり存在するようだ。ゲームだと完全に前提の能力だからな。もしこれが出来ないとなると、生存難易度が跳ね上がるところだった。
俺はそのまま出来上がった4つの木ブロックを、再び4つの枠に当てはめるイメージをする。すると今度は上面に格子状の模様、そして側面に道具類が吊り下げられたブロックが手元に現われた。
作業台だ。マインクラフトのアイテムの大半はこの作業台を通して作成される。これが無くなったらほとんどのものが作れない。作成難易度は低いがクラフター……マインクラフトのプレイヤーにとっては必需品だ。
早速作業台をその辺に設置する。その後、さっきの木の残った部分も回収してしまうとまずは全てを木ブロックに、その後一部を木の棒へと加工し、木の斧を作成した。
斧はそこそこの重さがあったが、十分振るうことが出来そうだ。たださすがにゲームみたいに振り回すのは無理だった。
ついでにアイテム化したものをインベントリに格納出来るのも確認する。限度がどのくらいかは分からない。普段画面の下に表示される種類ぐらいは持てるといいのだが。
「さて、斧だとどのくらい早くなるかな」
斧を使った経験などないが、マインクラフト通りだったら倒木や正しい打ち込み方の心配も無いだろう。足に落っことしたり自分にぶつけたりについては気をつける必要があるだろうが、まあそれは現実世界通りだ。
ゲームとは違っていかにも木に打ち込んでいるという音が響く。それが何度目かに達した瞬間、手応えが変わった。
「やっぱり素手より早いんだ、なっ!?」
俺は目を瞠った。
素手より早いのはいい。想定内だし、そうじゃないと斧を作った甲斐がない。
問題は木の消え方だった。本来マインクラフトにおいては素手による回収でも各種ツールを使った回収でも、目標の1ブロックだけが対象となるはずだ。
ところが今のは……。
「一括破壊……」
PCゲームにおいては、しばしばMODの存在が挙げられる。一口に言ってしまえば、MODとは有志のプレイヤーがゲームの要素を改変、あるいは拡張するために開発したプログラムのことである。
MODは単なるバグ取りからゲーム性が変わってしまうものまで多種多様だ。世界的な人気を誇るマインクラフトにも当然MODは多数存在する。
その中でも有名なのが一括破壊系MOD。本来は1つ1つ破壊する必要のあるブロックを、1カ所を破壊するだけで指定した範囲内の同じブロックをまるごと破壊出来るのだ。
大きな時間短縮になるので重宝される一方、醍醐味が無くなるという声もあるくらい便利なMODだ。
しかし、MODがこの世界に適用されているとなるとある心配が浮かび上がってくる。
「世界崩壊系とかインフレした強さの敵追加とかないだろうな……死ぬなんて試せないぞ」
一括破壊は、まあこの状況下においてはとても役立つし問題ない。試しに一括破壊しないのを意識してみれば、ちゃんと1カ所だけ破壊することも出来た。
問題は一括破壊系MOD以外にどんなMODがこの世界に適用されているかということだ。便利な機能やアイテムが追加されるくらいならいい。むしろ大歓迎だ。
しかし、MODの中にはまともにプレイするのが厳しくなるような強力な縛りや敵を追加するようなものもある。それこそ死ぬのを前提にしたものも。ゲームだったら問題無かった。何度でもリスポーンして攻略するなり最悪詰んでもバックアップや別のワールドでやり直したりも出来たからだ。
だが、ここはマインクラフトと酷似した世界であって、決してゲームではない。もちろん仮想空間でも、遊びでもないだろう。ここにおけるクラフターの能力にはたして生き返りが含まれているのか。とても試す気にはなれなかった。
……そんなことを考え込んでいたら、ふと顔に木の影が差す。見上げてみれば陽が沈みつつある。日暮れだ。昼の青が僅かに残ってはいるものの、空は茜色に移り変わりつつある。
そう遠くないうちに日没になるだろう。
ん? 日没?
「……まずいっ!」
直前までの思考をかなぐり捨てて、俺は斧を片手に次の木へと向かった。
夜になればモンスターが出現する。
正しくは一定以下の明るさになるとモンスターが発生する可能性が出てくるのであって、昼でも出る時は出る。それでも基本的に野外では夜になるとモンスターが出てくるのだと認識していいだろう。
ゲームならベッドで寝てしまえば一瞬で朝になったし、そうでなくとも土なり崖なりに穴を掘って隠れたりといった手もあった。
しかし、今の俺はベッドなんて持ってないし、時間の法則が現実通りになっているこの世界で一瞬で朝になるとは思えなかった。そして俺は今、ちゃんと呼吸をしている。水中でだけ酸素ゲージが出るというわけではないのだ。
だから即刻簡易的なセーフハウスを建てる必要があり、俺はその建材として木を集めるのに奔走するのであった。
……後から考えれば、ここでシャベルを作り地面に広めの穴を掘って隠れるのでもよかったと思う。というかその方が時間もかからなかった。
しかし、なんだかんだでこの時の俺はとても疲れて混乱していたし、宙に浮いた土がゲーム通り落ちてこないということも信じ切れていなかったのだった。それに分かりやすく壁に囲まれていた方が安心出来るというのもあっただろう。
かくして、俺はヘトヘトになりながらも簡単な家1軒分の木ブロックを入手したのであった。