肉塊の幽鬼が倒れ伏した土煙が晴れたとき、まだ相手が健在ならば余力のない私にはどうしようもない。千暁さんと天音さんもいるが、それは生き残れると言うだけで、私の負けということに変わりはない。
立ち上がり後退しようと試みるもその元気すら残っていない私には、ただ祈るように視界が晴れるのを待つしかなかった。
土煙が収まろうとした直前、土煙を上回る量の紫色の煙が吹き上がる。幽者や幽鬼を倒したときと同じ色の煙だ。ということは……
「倒し、た……?」
煙が晴れた場所には、バレーボールくらいの大きさの黒と紫のいり混じった塊だけが落ちていた。あの塊が幽鬼の残した思念であると認識して、ようやく倒したことに確信を持つ。
思わず安堵から力が抜け、辛うじて立てていた片膝も倒れそうになる。けど、気を抜くのは誤りだったと、後になって気づく。
「うぐっ……待っ、て、入ってこない、で……!」
すっかり気を抜いてしまったところに、近くに転がり落ちた思念が私に吸い込まれるように入り込んでくる。
ただでさえ緩んだ心持ちのところへ、今までに経験したことがない強烈な意思を持った思念が心を抉じ開けようとする。止めきれない……!!
『い、嫌! 離して! ひっ、嫌、嫌あぁぁ!!』
『痛い! 痛い痛い痛い!! 許しっああぁぁぁぁっ!!』
『やだ……やだ、もう許してください……楽に……』
閉め出しきれず流れ込んでくるのは、私とそう年の変わらない男女の、様々な惨い記憶──望まぬ男女の営みの強制、麻酔も無しに臓器を切り取られる痛み、得体の知れない薬と病への恐怖……
そしてその何れもが、私と同じく児童養護施設で育った子供達の行き着いた地獄だった。
頼る親がいない、足場のあやふやさを盾にとられた子供達。そんな彼ら彼女らを食い物にした大人達。ある者は慰みものとして。ある者は移植用の臓器として。またある者は人体実験の贄として。
ヒビを入れられた心の扉から流れ込み続ける記憶の奔流は、両手の指の数を超える人数分流れ続けてくる。
何れも嫌悪感や恐怖、痛みで心が磨耗し、次第に反抗したり許しを乞うたりする気力すら削がれ用が済めば人知れず処理される。
私は何も悪くないのに。僕は一生懸命生きてきたのに。俺は何でこんなに痛めつけられるんだ。あたしがこんなに虐げられなきゃいけないのは何故だ。なんで。どうして。辛い。助けて。苦しい。いっそ、もう……
あの幽鬼ヴィルヘルムを構成していた彼らは、そういった人身売買の被害に遭った施設出身者の魂達の集合体だった。
私もそうなっていたかもしれない末路を辿った怨嗟が、悲鳴が、流れ込み続けてくる。理不尽への恐怖、苦痛、恨み……全てが、誰のものだったか分からなくなってきた。自らを含めて混じりあい、1つの渦になり、そして戻ってくる。そんな感覚。
分かってる。これは私の記憶じゃない。分からない。これは本当に私以外の記憶? 分からない。苦しい。悲しい。痛い。辛い。辛い、辛い、辛い────
「……夜! 追っちゃ駄目、戻ってきて! 小夜、小夜!!」
「……っ! あ、私、私は……違う、あれは私じゃない……!!」
いつから声をかけてくれてたんだろう。千暁さんの声が聞こえて、踞っていた私ははっと意識を浮上させる。
まだ頭の中で、ヴィルヘルムの魂達が喚く。やめろ、やめろ、やめろ! 私の中で、私の声で、私じゃない奴が話すな!! お前は私じゃない、私はお前達じゃない!!
今までのように追い出すことができない声と記憶。なまじ「児童養護施設にいた」ことが共通点になっているからなのか、未だに私のものじゃないはずの記憶が、本当に私のものじゃないのか分からない。
冷静に記憶を整理して自分に言い聞かせようとする度に、頭の中で私の声が悲鳴や呪詛で喚き散らす。その度に頭がぐちゃぐちゃにかき混ぜられるような感覚が襲って、思考を奪っていく。
「落ち着いて、私の声を聞いて。深呼吸して、ゆっくりと」
私の身体を優しく包み込んで、ゆっくりと語りかける声が聞こえた。よく馴染み、落ち着く優しい声。
声に従って深く息を吸い、吐き出す。もう一度、またもう一度。繰り返すごとに呼吸は深く、しかし緩やかになっていく。自然と頭の中で響く声が、自分と同じ声色の別の声として聞こえてきた。
「……大したもんだな、よくもまあそこまで的確に人を落ち着かせる」
「小夜にこうするのは、初めてじゃないもの。小さな子が泣き止まないときと同じ、寄り添って支えてあげればいいのよ」
傍らに腕を組んで立つ天音さんの声も聞こえてきた。ちょっと千暁さんの理論に物申したさはあるけれど、それで助けられているので何とも言えない。
「……すみません。お手間をとらせて」
「ううん。放っておく方が夢見も悪いし、私にとっては当たり前のことをしただけ」
「それより、まだ思念の声は聞こえるのか? ならアタシらの目は気にしなくていいんだぞ」
……そう。幽鬼の思念を押し出し、浄化する最も確実な方法は泣くことだと教わった。天音さんはつまるところ、泣けと言っている。
いや、気にしなくていいと言われましてもね。
そんな風に思ってみても。やっぱり、千暁さんと会った時のように。私の唇は、喉は、肺は、涙腺は。私の知らない感情に動かされて、私の言うことを聞いてはくれなくなってしまった。
理不尽への怒りや悲しみ、痛みへの辛さや苦しみ、その全てが混じり同時に私を伝い溢れてゆく。
今は、私の感情として。私の身体を使って哭いて、泣いて、思いを全部涙にして。声をあげて、鼻水をすすって、止められない涙を流し続ける。
ごめん、ごめんね。私も貴方達も、きっと同じように施設で育ってきたのに。私は貴方達の魂を殺すことでしか、助けてあげられないから。
同じ施設だったら、平和におしゃべりできたのかな。悩みを相談しあえたのかな。一緒に笑って、一緒に泣いて、こんな結果にはならなかったのかな。
ごめんね。ごめんなさい。どうか、安らかに────
「……これは」
泣き続けてようやく落ち着いてきた私の目の前に、小さな結晶が落ちていた。色もなく透き通り、同時に鮮やかな色彩を放つ。
「
「……そう、かもしれません。院長先生の下でなければ、私もこうなっていたかもしれないから」
今は感情ではなく記憶として覚えている、ヴィルヘルムを構成していたもの。思い返しても、小さくない怒りが湧いてくる。
児童養護施設には当然、何らかの事情──現代は虐待や経済面などで引き取られる子が多いらしい──で親と引き離された子供が集まる。つまり施設の大人達が頼るべき最後の砦になるんだ。
しかしその最後の砦をチラつかせて、その心身を傷付けられたのがヴィルヘルムになった子供達。外道や下衆という言葉すら生温い、そんな大人達の毒牙にかかったのが彼らだ。
私は……きっと運が良かった。院長先生は里親を探すにしても自立の道を探すにしても親身になってくれた。きっと彼の下で共に暮らせていれば、良い友達になれただろう。
同時に、私がもし彼らと同じ施設の子供であったなら。そう考えるととても他人事と思えず、つい感情がより引っ張られたのかもしれない。
「……とは言え、お陰でヨミガエリの対価をひとつ、手に入れることができました。彼らのためにも、きっと無駄にしません」
落として失くさないように、胸へ
「そいつは良いがな。あまり忘れることを恐れるんじゃねぇぞ。まいいや、アタシはそろそろ行くよ、じゃあな」
意味深なことを言い残して立ち去ろうとする天音さん。呼び止めたけど、千暁さんの方をチラっと見て、無言で立ち去ってしまった。
やっぱり、天音さんは千暁さんのことを快くは思っていないみたいだ。恨んでいる、みたいな様子ではないみたいだけど。
「2つ目の
天音さんが立ち去ったすぐ後。背後から唐突にメフィスが現れ、話しかけてきた。相変わらず心臓によろしくない。あと趣味が悪い。
「メフィス……そういえばアンタ、小夜に
「んん? おお、すまんすまん。あんなに分かりやすい物を見落とすと思っておらんかった」
怒気を孕んだ千暁さんの苦情を飄々と受け止めたメフィス。違和感を覚えた私は、その正体に辿り着く。
「そういえば今回は、フェレスと一緒ではないんですね」
「うむ。あやつには天音の方に言ってもらった。今回の話はそれぞれ伝えた方がいいじゃろうからな。前に話した、黒い少女の幽鬼の件じゃ」
黒い少女の幽鬼。私達が以前出会い、交戦した後に逃げられた幽鬼。私は手も足も出ず、千暁さんと互角以上の渡り合いを見せて虚を突き突破した恐るべき強さの敵。
そんな強力さながらメフィスらに補足されていなかった、正体不明の幽鬼だ。千暁さんは彼女との交戦の後、ただの幽鬼ではないと判断していた。
「結論から言おう。ワシらでもお主らの言う幽鬼は見つけられなかった」
「既にヨミガエリを果たした可能性は?」
「ヨミガエリを果たしたことはこちらで感知できるが、それも無かった。つまりじゃ」
固唾を呑む。この時ばかりは、僅かばかりか悔しそうな顔に見えた。
「ワシらを出し抜けるほど、幽鬼ながらに強力な力をつけておるか……幽鬼のようで幽鬼ではない者であるか、じゃ」
幽鬼のようで幽鬼ではない、という仮定を提唱したとき、メフィスは間違いなく悔しげであった。辺獄の管理者を自称していた2人のことだ、その力が及ばぬことは想定外なのだろう。
私達にとっても、ショッキングな話ではある。見てくれは確かに幽鬼のものであった。頭の輪が他の存在にも装着されるものでなければ。
「メフィス。貴方達としては、どちらの可能性が高いというんです?」
「正直なところ、幽鬼のままでワシらを出し抜く程力を持つのは不可能じゃ。
「つまり、後者を有力視しているのね。対策はありそうなの?」
私の問いに答えた後、千暁さんの問いかけには首を横に振った。つまり対策も見つかっていないということだ。
「……辺獄の管理者の肩書が泣くわね。で、態々私達に進捗無しを懺悔しに来たわけ?」
相変わらずメフィス達を相手にしたときの千暁さんが怖い。私の前で普段見せる、あの穏やかで和やかで優しい千暁さんと本当に同じ千暁さんなのか。そしてそれをそよ風のように受け止めているメフィスもメフィスで不気味だ。
「対策、という程でもないが……千暁の話を聞くに幽鬼と同じ攻撃方法で対処ができる、というのは確かじゃろう」
「……まあ、攻撃が当たれば倒せる、という意味では確かにそうですね」
物理的に攻撃が効かない訳ではない。つまり腕次第ではあるが倒せはするということだ。それが分かっているだけでも違うだろう。
しかしだ。冷えきった視線が千暁さんからメフィスに向けられているのを、私は果たしてどうすればいいのだろう。
「……この件に関してはワシらの力不足を素直に詫びよう。辺獄そのものの危機も有り得る以上、ワシらは調査を続けるつもりじゃ。他に何か分かれば、その時は伝えよう」
1つため息をついた千暁さんも、流石にこれ以上責めるのは止めたらしい。正直なところ、内心でホッとした。隣にいるだけでプレッシャーが凄いのだ、この状態の千暁さんは。
「ともあれ、このシレンの執行はこれで完了じゃ。またシレンの準備が出来次第連絡するぞ」
そう言い残し、メフィスは姿を消した。この都会染みた辺獄の層ともお別れだ。来ようと思えば来られるようだが、今のところその必要もない。
「……私達も、帰りましょうか」
「そうしようか。お疲れ、小夜」
「お疲れ様でした。またよろしくお願いしますね」
千暁さんがメフィスと同じく姿を消し、現世へと帰還したのを見送って、私もそれに続いて現世へと戻る。
ふと思えば、現世と何とはなしに呼んでいるが……果たして辺獄ではないこの世界は何と呼ぶのが正しいんだろう。
うーん。我ながら、すごくどうでもいい疑問だ。帰り着いた我が城のベッドに座り、疑問を投げ捨てる。
疲れているとどうでもいいことが気になるものだ。さっさとシャワーを浴びてご飯を食べて、ゆっくりと寝てしまおう。そうすればきっと、どうでもいいことは気にならなくなる。
────お休みなさい。