霧中の妥当性-1
枕元に置いていた充電中のスマートフォンが、不在着信があったことを示す青いLED灯を点滅させていた。非通知着信だが、メッセージが残されている。
『しくしく……出てくれないなんて小夜ちゃんはいけずだなぁ。次のシレンの用意が整ったよ、早くおいでよ』
誰のメッセージかと思えば、フェレスの間延びした声だった。わざとらしい泣き真似のおまけ付きで。どうやらシャワーを浴びていたタイミングと重なってしまったらしい。
部屋の隅に佇む姿見の前に立つ。乾かして整えたばかりの、弱めにレイヤーをかけた僅かに青さを含む黒髪。眼鏡の奥に見える、ド近眼によって生まれた目付きの悪い顔。
辺獄へ赴くには、この自分の顔とご挨拶させられた後に、身体に刻まれた印を指で切らねばならない。いつか鏡面に拳を叩きつけないようにしたいけれど。
「おはよう、小夜。昨日は眠れた?」
「おはようございます。昨日は……いえ、少し妙な夢を見てしまって、あまり」
そう。今でもまだ覚えているほど、強烈にこびりついた夢。どう考えたって、辺獄での活動が原因だ。
「……私の居た施設と、私が今住んでいる家。その両方に、昨日見た記憶の子達が押し掛けてくる夢でした。最後には、燃え落ちる施設の中にいる夢でしたけど」
どう見積もっても良い夢ではない。炎に包まれた建物の中で、たった独りで死んでいった院長先生を見せつけられたせいで、最悪な目覚めだったのだ。
「そう……なら、今日は気をつけて。そういう心の不安定なタイミングは、幽鬼の思念に囚われやすくなるから」
ゆっくりと、気を引き締めながら首肯する。無理をするな、なんてことは言われなかった。それはあの時、引き返すつもりがないと答えたのが理由なのだろう。
短い会話を終わらせて辺りを見回す。前回探索した都会のような景色からうって変わって、今度は木々の生い茂る山の中のような風景だった。
「やあ小夜ちゃん、千暁ちゃん。順調そうでなによりだよ」
最初に降り立った広間を抜けようとした途端、目の前にフェレスが姿を見せた。今度はメフィスが天音さんの方に向かったみたいだ。
「君達に伝えなきゃいけないことがあってね。幽鬼の姫、って千暁ちゃんは覚えてるかな?」
「……ええ。3年前、天音達を襲った幽鬼ね」
かつて天音さんとその大切な人を辺獄に引きずり込み、弄び、踏みにじったという、悪辣な自称姫。
「その幽鬼の姫が、また辺獄に現れたみたいなんだよね。モチロン、またヨミガエリを企んで」
「それって……ヨミガエリを果たした結果また死んで、更に生き返ろうとしてるってことですよね」
「そういうことだね」
「……これ、天音にも伝えたの?」
私の質問に答えたフェレスに、苦虫を噛み潰したような顔で千暁さんは訊いた。その質問の意図を掴みあぐねていたのか、それともどう返すべきか迷ったのか。メフィスはしばらく声も表情も時を止めたように間を置く。
「……勿論、メフィスは伝えるよ」
「……っ、そう。そう、よね……」
そうして出された返答は、結局いつも通りの笑みを浮かべながらの短いものだった。
しかし千暁さんの表情は当然優れない。天音さんがこの話を聞いてどうするか、私にも容易に想像がつくのだから。しかし止めに行こうにも、天音さんの所在は不明、メフィスへの連絡手段は目の前にいるフェレスだけ。
「……貴女にメフィスを止めろと言っても無駄でしょうね」
「ボクとしても、天音ちゃんには知ってほしいからね」
要は止めるつもりがない、と言われた千暁さんは、握りこんだ拳を震えさせていた。怒り、というよりは焦りや不安が強いのか、悪魔達と会話するときの千暁さんから普段感じるプレッシャーは感じることができない。
「でも千暁ちゃん、考えてみてよ。これで天音ちゃんの復讐も、終われるかもしれないんだよ」
それはきっと、正しく悪魔の囁きなのだろう。心の傷を癒すと嘯き、つけ入るための。だけれど、私も側で聞いていただけではあったが、振り払うことが出来なかった。
恐らくは私の反応まで含めて、目の前の悪魔にとっては掌の上なのだろう。千暁さんが今までに見せたことがない、葛藤の表に出た表情が、殊更にそう思わせる。
「君も……心配だったんだよね? 天音ちゃんが復讐しか見えなくなっていくのが。でも、復讐相手を自分で倒すことが出来たら?」
相変わらずの間延びした声が、しかしいつもより心に楔のように深く打ち込まれる。これはまるで、幽鬼の思念が入り込んでくるかのように────
「入って……来ないで……!」
そうだ。思念のように入り込んでくるならば、追い出せる。閉めさせまいとドアに挟み込まれた足を蹴り出し、ドアを引き閉めて鍵をかける。
すると、執拗に入り込もうとする思念の時と異なり、こちらの様子を認めるなりフェレスはあっさりと出ていく。
「……やっぱり小夜ちゃんは凄いねぇ。もう思念の締め出し方、理解してるんだ」
肩で息をする私を、いつもの不気味な薄ら笑いと共に褒めてきたフェレス。千暁さんからも退いたらしく、いくらか顔色が元に戻ってきた。
「全然嬉しくありません……それに、天音さんに伝えようということは変わらないのでしょう」
「ボク達も、幽鬼の姫は警戒しなきゃ危ないからね。当然、強力な幽鬼の活動は小夜ちゃん達代行者にも知らせなきゃ。君達が死んじゃうと悲しくて泣いちゃうかも」
確かに、その理屈には理がある。筋が通ってしまう。どうせ、本心が別のところにあるとしても。
「でも、ボクが言えるのは……幽鬼の姫が活動を再開したことと、それでも小夜ちゃんには時間がないことだけだよ」
そう……その通りだ。天音さんのことも、天音さんと千暁さんの関係も、出来るなら解決に協力したい。けれど残された時間も分からない今は、それができない。
今は、天音さんのことを信じるしかない。まだ彼女のことをよく知る訳ではないけれど、それでも強い人だとは思う。だから、今は信じて……機会が来るその時まで、信じるしかない。
「ごめんね、小夜。取り乱してしまって……」
「いいえ。正直私も心配ではあります。むしろ私に付き合わせている訳ですし……」
時間がないことを告げたあと、フェレスは姿を消した。それを見届けて、 千暁さんが珍しく落ち込んだ様子で私に謝ってきたのだ。
千暁さんはそもそも、あまり感情の揺れを見せることがほとんど無いように思う。喜怒哀楽を溢れないようにコントロールしている、と言うべきか。
だから、今回ほど表に感情を出しているのは、少し意外だった。それだけ天音さんのことを大切に思っている、ということなのだろうか。
……何故か少し、悔しさを覚える。別に私は
気を取り直すように、改めて周りを見渡す。日の当たりが悪い薄暗い山の中に、以前までの層で見かけたような材質で色が土色になっただけのタイル床。
言ってしまえば自然の中に人工感溢れる床がある状況で、不気味というよりは不自然な景色だ。
続けて記憶を軽く漁ってみても、山での思い出というのはあまりない。施設の遠足で山に登ったことはあれど、こんなに薄暗い山は記憶に無かった。
「相変わらず、この山の景色に見覚えはないみたいね。と言うことは、小夜の知り合いだけが見た景色かもしれないけど」
「うーん……前回の幽鬼の子達も覚えがないので、何とも……やることに変わりがある訳ではないんですけど、こうも千暁さんの経験則から外れると不気味ですね」
「私も自分の観測した範囲でしか識らないから、ね……」
景色が変わると言えど、辺獄に幽鬼と幽者が彷徨いていることに変わりはない。たどり着いた広間では、数体の幽者と1体の幽鬼が漂っている。しかし。
「……数が少ないですね」
「広さの割にはそうね。さして珍しい話でもないけれど」
幽者は隠れてでもいなければ3体しかいなかった。ゴリラ型の幽者がいると幽者の数は少ない傾向にあったが、ここには頭巾の幽者と幽鬼しかいない。
「……兎に角、幽者を倒してから考えるしかないか」
自分に言い聞かせるように呟いて、私はハルバードを手に最も近くにいた幽者に斬りかかる。
小さく振るった袈裟斬りの手応えが硬い。僅かな、しかし無視のできない違いがある。2層目までよりも敵がタフになってきたのだ、という考えに辿り着くと同時に、ならばとばかりに鉤刃で振り返すように斬りつける。
手応えの悪さと他の敵との位置関係の変化から少し後ろへ飛び退いた私は、しばし計を練る。
やること自体はシンプルだ。魔力を使った強力な攻撃でダメージを稼ぎ、合間にハルバードで攻撃を加えて魔力を確保しつつ細かくダメージを重ねる。
しかしタイミングや攻撃の選択は複雑だ。幽者達の行動がそこまで複雑ではないのが救いだけれど、万が一当たればどのくらいのダメージなのか、まだこの層では分からない。
緩慢だが確実に迫る幽者に意を決し、行動に移す。
「燃えろ!」
縦列を描き寄ってくる幽者の先頭に、
「逃がさない!」
魔力的に、まだ行けると確信があった。強化した脚力で空へ跳ぶ。前方へ大きく弧を描きその頂点で、手にしたハルバードの穂先をターゲットにした幽者へむける。
「やあぁぁっ!!」
エアリアルストライク。魔力を纏った鋭利な穂先が幽者を貫き、衝撃波が周りもろとも揺さぶる。突き刺さった穂先を幽者を蹴り飛ばす勢いで引き抜き、地へ足を着けた。
立て続けに魔力を込めた攻撃を受け、列の2番目だった幽者が煙として消え行くのを認めながら、後ろにいる先頭だった幽者を斬りつけつつ横へ離脱した。
距離を取るまでの流れは概ね成功と言えるだろう。もう少し消耗した魔力を回復したかったが、残りの幽者は2体、なおかつ内1体は既に死に体。
「……
誰にともなくに呟いて、改めてハルバードを構える。当然、最初の標的は決まっている。瞬きするより短く膝をたわめ、地を蹴って突撃する。
「どいて!」
小さく鋭く、水平に斧刃を薙ぐ。人で言えば腹部の辺りを切り裂き、血飛沫の代わりに煙が吹き出し瀕死だった幽者は消滅する。
続けざま、僅かに開いた距離を詰める中でハルバードを思い切り突き出す。当然穂先が勢いよく幽者を襲い、幽鬼の後方へと吹き飛んだ。
幽鬼がこちらを射程に捉えるより速くハルバードを手元に手繰り寄せて、次の一手を打つ。袈裟斬りと逆袈裟斬りを両の刃で立て続けに、そのまま流れるように右から左へと薙ぎ払いへ刃を運ぶ。
「くっ!」
順調にダメージは与えたが、幽鬼とてやられ放題ではない。薙いだハルバードが穂先で食らいつくより速く、頭部が後ろへ反り振り下ろされる。
頭突きを間一髪で避ける。反撃と天秤にかけ、よろめくように後ろへ距離を離す。
油断していた訳ではない。予想もしていた。だからすぐに体勢は立て直せたが、幽鬼へのダメージは芳しくないようだ。逸る心を深呼吸で落ち着かせる。既に突き飛ばした幽者も起き上がり、幽鬼と同じ速さで歩み寄ってきていた。
もうひとつだけ深く呼吸をしてから、再び地を蹴る。幽鬼へ再び袈裟斬りから逆袈裟、横薙ぎに斬りつけ、更に脳天へ斧刃を振り下ろす。地面に着く前に刃を引き、腕を突きだして後ろの幽者諸とも穂先で貫いた。2つの煙の塊が溢れ、吹き消えていく。
「終わった……」
私自身、今までよりも攻撃毎のダメージが上がった自覚はある。しかしそれを上回るタフネスの伸びは、この層を進む上での壁になりそうだ。
そして当然、戦闘が終わった、厳密には幽鬼を倒したことで、思念が私の中へ入り込もうとしてくる。
「貴方に構っては……いられない!」
扉を叩く音に構うことなく、鍵をかけて追い返す。漏れ聞こえてくる幽鬼の記憶に揺さぶられてはいけない。
『子供が中に! 助けて、誰か!!』
火事になった我が家の前で、母親が叫んでいた。周りの制止を振り払って、愛しの我が子を救うべく焼け落ちていく中へ飛び込んでいく。
当然そんなことをして、助かる筈はなかった。ベビーベッドに取り残された次男に辿り着くことなく、その身を炎が包んでしまう。
その熱さ、後悔、無念が幽鬼となった。愛しの夫と、愛しの2人息子と、まだ幸せな暮らしを続けたかった。
それでも、声に耳は貸さない。漏れ聞こえてくる声が、今までの幽鬼よりはっきりと聞こえてくるけれど。同情を示し鍵を開けてしまえば、私は私ではなくなりかねない。
ようやく、幽鬼の思念が形を保つことが出来なくなって、声が聞こえなくなった。肩と膝から力が抜けて、思わず座り込みそうになる。
今までより、幽鬼達が強力になってきたことを、こんな形でも認識させられるとは……呼吸を落ち着けながら、私は改めて気合いを入れ直さねばならないようだ。