「あなたは覚えてる? 覚えてたら教えてほしいな、誰にも喋れなくなる前に」
「幽鬼……?」
天真爛漫な笑みと、隠す気もない邪悪さを携えて降り立った「それ」は、一見すれば白髪をツインテールに纏めた中学生くらいの可愛らしい女の子だ。
しかし、黒を基調に紅玉を思わせる縁取のドレスは、前面が大胆に肌を露出している上にドレスと同じ色調のマントまで備えている。
そして紅玉を思わせる縁取をより強調する、腹部や胸部、首元にあしらわれた菱形のルビー、あるいはレッドベリルのような宝石が、目の前の存在がただの少女ではないと主張していた。
私の想像を裏付けるように、目の前にいる「それ」の頭上には、黒い輪っかが浮いていた。恐らく少女としての見た目は、現世のものと大差はないのだろう。なんとなく直感で、そう思う。
「うーん。あまり無視はしないでほしいな?」
「っ!?」
目の前にいたと思っていた「それ」が、背後から声をかけてきた。肩に手を乗せながら、まるで仲の良い友人に話しかけるかのように。
しかし携えた悪意は、決して友に向けるものではない。肩に置かれた手が、まるで心臓を握っているようだった。このままでは殺される、そう直感した。
怖い。怖い。怖い、怖い、怖い!
「っ……ヘー、ゲル!!」
「あらら」
前へ倒れ込むように「それ」から距離を取りつつ、彼の名を叫びながら後ろへハルバードの刃を振り抜く。
無理な体勢で振り抜かれたハルバードとヘーゲルの青く透き通った腕は、軽く後ろに下がるだけで回避された。それでも、距離をとれたことに変わりはない。
動悸が治まらない。恐怖という衝動に背中を押されるように、更にハルバードの刃を叩きつける。しかし──
「もー、お話するくらいでそんなに怖がらないでよ? 傷つくなぁ」
ひょいと背伸びして台の上から物をとる、そんな程度の気軽さでハルバードの刃を掴んで止められた。連動するヘーゲルの竜の爪も、押さえつけられているように動かない。
「私はただあなたと会ったことがないかなーって知りたいだけだよ? ついでに言えば、お姉ちゃん見てないかなーって」
「お姉ちゃん……?」
「そう。ここに来たときにはぐれちゃって」
困惑が隠せない私をよそに、目の前の「それ」は刃が目の前にあることを気にしていないように言った。
私の身体能力は、代行者の恩恵でかなり向上している。それこそ、身の丈くらいのハルバードを軽く振るえる程に。しかし全力で刃を押し込んでいるのに「それ」は無邪気にも見える笑顔を浮かべたまま、軽く片手で刃を掴んで止めたままだ。
「まあ……答える気がないか、知らないならいいや。代行者なんて幽鬼と同じで結局邪魔なだけだし」
「あぐっ!?」
肺から空気が押し出される感覚と共に、視界が私の体が吹き飛んでいることを知らせた。地面に叩きつけられる直前に「それ」が見えて、体勢から蹴り飛ばされたことを悟る。
地面に叩きつけられた直後、遅れて腹部に尋常ではない痛みが襲ってきた。ヘーゲルが薄れて消えていくのと同時に、私の体からも力が抜けていくのを感じる。
(ここで……終わりなの……?)
「あれあれー? もしかしてもう終わり、なんて思ってる? あはは! 甘っちょろーい!」
涙で滲むずれた眼鏡越しの視界から「それ」がふっと消えた。次の瞬間、脇腹を鋭い痛みが襲って、私の視界は地面と空を交互に写す。
2、3回ほど私の体は地面を転がって、側臥の状態で止まった。肺が空気を吐き出したせいか、咳が抑えられない。
痛みと恐怖の中、私の頭だけは不気味なくらい冷静になっていた。
「そんな早く終わらせるわけないじゃない。あんた達代行者には散々邪魔されたんだしさぁ?」
「何の……こと……」
「あんたはそれを知ることなく、永遠に死に続けるの。素敵でしょ? あはっ」
そう宣告した「それ」は、見せつけるかのように一歩一歩ゆっくりと歩いてくる。奥歯が噛み合わない。死を告げる足音が迫る。
逃げたい。既に立ち上がるだけの力が入らなかった。足音が迫る。
逃げたい。脇腹を蹴られたときにはハルバードは手元に無かった。足音が迫る。
逃げたい。這って逃げようとしても、体を動かせる腕力は残っていない。足音が迫る。
逃げたい。逃げられない。足音が迫る。足音が迫る。足音が……止まった。目の前に、銀と赤で彩られた靴があった。
その靴が「それ」のものだと認識した瞬間には、小突かれるように蹴られて、私の体は仰向けになる。続けて残忍な笑顔の「それ」と目が合った直後、私は片手で持ち上げられていた。
「じゃあ、ちょっと激しくいくよー?」
万力のように私の首を縛める「それ」が、じゃれる相手に使うような声色でそう告げた。首を掴む左手に更に力が入り、連動するように右拳が握り締められるのを見た。
「っぁ……!」
ふっと首が締め付けていた力から解放され、ほとんど同時に下腹部へ衝撃が走った。心臓を直接殴られたような感覚と共に、私の体は空へ打ち上げられた。
「よっ」
気の抜けた声色と共に繰り出された後ろ回し蹴りが、地面へ落ちそうな私を出迎えた。こんな時に限って、まるでスローモーションのように状況が理解できてしまう。
他人が見ていれば、私の体は恐らく「く」の字に曲がって見えただろう。今までで最も速く、視界が流れ去ってゆく。何度目か分からない地面への激突の痛みが体に走る。
「まだまだ行くよー?」
そんな声が聞こえた気がした。次の瞬間には、何かが私のいる場所へ降り注ぎ爆ぜた。魔力による攻撃だった。焼けるような痛み、と言うよりは本当に体が焼けているのかもしれない。宙を舞う浮遊感を覚えながら、そんな風に感じた。
地面に叩きつけられたと同時に、眼前に黒い布が舞うのを見た。地面を跳ねた体を、強烈な衝撃が上から打ち据える。1度目より遥かに強い痛みが背中から体全体に走る。更にバウンドした体を、再び魔力による爆発が吹き飛ばす。
体は地面を滑ってようやく止まり、おぼろ気な視界がクリーム色の上空と、紅玉色の柱のような杭を映していた。
明確に私を殺す意図を持ったその杭は、私の胸部を貫ける位置にあった。魔力で編まれた杭は、果たして物理的に私の体を貫くのかは知らない。けれど、過程はどうあれ結果は致命的なものだと本能が認識する。そして、ごく当たり前のように、私の体は既に私の言うことを聞いてはくれなかった。
「んー、やっぱりやめとこっかな」
そんな台詞が聞こえたかと思うと、杭は私の体、ではなく体の側へ突き刺さり、小規模な爆発を起こす。爆風に煽られて、私の体は休まることなく地面を転がることになった。
「う、ぁ……」
体がようやく転がるのを止め、ふと左腕に違和感を覚えた。痛む体でどうにか視界をそちらに向けると、左腕は地面に接していなかった。地面の縁、辺獄の底へ向けて、だらりとぶら下がっている。
慌てて引き上げようとするも、そんな腕力すら残っていなかった。再びゆっくりとした足音が迫る。足音が止まると同時に、再び小突くように蹴られて今度はうつ伏せにされた。引き寄せるように蹴られたらしく、腕は縁から離れることができた。
襟首を掴まれる感触と共に上半身が引き起こされ、浮遊感を感じるより先に再び地面に叩きつけられた。
「ひっ……!」
思わず息を飲む。叩きつけられた結果、私は左腕ではなく頭部を、縁から出して落とされたのだ。
文字通り底が見えない辺獄。先程「それ」が言っていた「永遠に死に続けることになる」という言葉と、千暁さんが以前教えてくれた辺獄の底へ落ちたものの末路がフラッシュバックする。
「あはっ、どう? これから起こることが分かったみたいだね」
後ろから声が聞こえて、背中を踏んでいた足に力が入るのを感じる。体が地面と擦れる音が聞こえた。力の入らない両腕で地面を掴み、無力な抵抗をすることしかできない。
「ほらほら、もっと頑張らないと。死ぬよりずっと辛い目にあっちゃうよ?」
「やめ、て……!」
「うーん30点。もっと必死にもがかなきゃ。頑張れー」
足蹴にされる痛みと共に、肩が縁を越えた。本気で私をここから蹴り落とすつもりなのだ、と確信する。
心臓が自分でも聞こえそうなほど強く早く脈打ち、手が滑りそうになるほど汗が滲む。それでも腕は足蹴にする「それ」をはね除けるどころか、体が前に押し出されるのを止める力すら出すことができない。
視界がどれだけ涙で滲もうと、眼下に待ち受ける闇は輪郭がぼやけてはくれない。この先に待ち受けるものが変わらないと思うと、ただただひたすらに恐怖感が強くなっていく。
死にたくない。落ちたくない。殺されたくない。苦しい。痛い。辛い。嫌だ。怖い。恐い。
最早叫ぶ気力もなく、
「離れろクソガキ」
今までの恐怖や絶望すら塗りつぶすほどの怖れを覚えた。女性のものとは思えないほど低く、質量すら感じるほどの重さを孕んだ怒りに満ち満ちた声。そちらを見ずともどこに立っているか分かるほどの気迫が、津波のように場に押し寄せた。
直後、その気配がこちらへ迫ろうとした瞬間。ほんの一瞬だけ背中へかかる力が増えたと思えば、背中は一気に軽くなった。
「ちぇっ、面倒くさいなぁ」
私の上から離れた「それ」が呟くのが聞こえた。その直後に風を切る音と、金属同士がぶつかり合う音が響く。音の大きさから、両者が相当な力で打ち合わせたことは見なくとも分かった。
「逃がすかクソアマ!」
今度は別の声だ。でも、こっちは誰のものかすぐに分かった。天音さんだ。じゃあ、天音さん以上に怒りを孕んでいたさっきの声は一体誰なんだろう。
重圧から解放されたからか、はたまた体が遂に耐えきれなくなったからか、視界がより酷くぼやけはじめた。あたまも、はたらかない……だめ、めが、開けられ……ない…………
「……夜! 小夜、無事!?」
「う、私は……千暁、さん?」
体を揺すられる感覚と、呼び掛ける声。それに引き上げられるように、眠りを覚まされる。まだ少しぼやけ気味の視界には、大きな三つ編みにした深緑の髪が特徴的な千暁さんの顔があった。
私が瞼を開いたのを見て、千暁さんが切羽詰まった表情を安堵に変える。そこまできて、ようやく私は状況を理解した。
「すみません……私、やられたんですね……」
「ううん……私こそごめんなさい。肝心なときに小夜の側にいられなかったなんて……」
使命感の強さで、と言うには少し大袈裟なほど落ち込む千暁さんを見て、身体を起こそうとして走った激痛に思わず声を出してしまった。
そうだった、あのとんでもなく強い幽鬼にひたすらボコボコにやられたんだった……それを見た千暁さんが一層悲痛な面持ちになる。しまった、迂闊が過ぎる行動だったようだ。
「っ、あ、あの! こうなったのは千暁さんのせいじゃないですし、自業自得というか……だから、あまり気にしないで下さい……」
「小夜……ごめんなさい。貴女じゃなければ、そうできたかもしれないけれど」
「え……? それって、どういう……」
「あ、ううん。深い意味じゃないの。忘れていいくらい、どうでも良いような話」
どうにも誤魔化されたように感じるが、詮索する程の理由でもないと思う。藪をつついて蛇が出ても困る。むしろ蛇で済めば良い方な気もする。
ふと、周りを見渡すとここには私と千暁さんしか居ないようだ。話題を変えることも兼ねて、私は千暁さんにその疑問をぶつける。
「天音とあの幽鬼? ああ、うん。幽鬼に逃げられちゃってね。天音はストレス発散も兼ねて、周りの幽者達を倒して安全を確保してくれてる」
「そうですか……ところで、あの幽鬼は……」
「……あれは《幽鬼の姫》と呼ばれる幽鬼よ」
「あれが……あんなに強いなんて思いませんでした……手も足も出ないどころじゃないなんて」
「そこらの幽鬼とは格が違うのは確かね。以前私達が戦ったときより強くなった気もする。異形化すらせずにあれほどの力を持っているなら、かなり厄介ね」
恐らく天音さんが向かっただろう方角を見つめ、千暁さんが複雑な表情を浮かべる。いずれ避けては通れない存在になるかもしれない。そうなったときの様々な懸念が、私達を悩ませていた。