休息無しの辺獄探索を始めさせられて、体感的にはそろそろ陽が傾き空が朱色に染まっていようかという頃。代行者としての恩恵があってなお、歩き続けた私の脚は疲労を訴え棒になったかのような感覚を覚えていた。
自分の姿をした敵を倒してからも、相変わらず幽鬼や幽者の姿は見えない。一向に動く気配のない状況に、正直苛立ちが募っていた。向こうからはアクションを起こせるくせにその気配は見せないし、私からは状況を変える手段を持っていない。苛立たない方がおかしいとも思う。
「そもそも、この層広すぎない……? こんなに歩き回っても、まだ踏破できないし」
踏破できないどころか、どこまで広がっているのかすら推測がつかない。代行者の恩恵の一つに、通った場所は大体覚えていられる記憶力の増強がある。それを以てしても、四角形の辺一つにすら辿り着けていないような感覚だった。
「携帯持ってきてないし、持ってきても使えそうにないし……!」
階段を足音を立てて登りながら、さっきから愚痴ばかりがこぼれるのを自覚する。そんな私の怒りが通じたのか知らないが、階段を上った先にはようやく「変化」を見せた。2桁を超える広場を通り過ぎて、ようやくだ。
周囲の景色が、硝子の割れるような音と共に崩れていく。比喩表現などではなく、本当に割れて崩れていった。足元に心許ない面積のタイルだけを残して、一切が光も底もないどこかへ落ちていく。不思議と、自分の足元だけは崩れないという確信はあった。そして、もう一か所崩れない場所があるはずだとも。
「かくれんぼも間違い探しも、もうお終いですか?」
「そうだね、ちょっと疲れちゃったし……あはっ、小夜姉ぇちゃん、本を読むのもいいけどもう少し身体も動かした方がいいんじゃない?」
「ッ!? なんで、私の名前……」
目の前に現れたのは、宝箱の幽鬼。ここまでは、想像通りだった。けど、目の前の幽鬼は私の名前も、私の活動傾向も知っている……私を知っている人が、目の前の幽鬼?
「他の子とも遊んでたからしょうがないかー……ま、いいや。ね、小夜姉ぇちゃん。もっと遊んでくれるよね?」
目の前の悍ましさを覚える見てくれの幽鬼から聞こえてくるのは、まるで無邪気で小さな子供のような声色。その声色のせいか、目の前の幽鬼はまるで小さな少女のようにも見え――いや、実際に少女の姿をとって見せていた。
「ここなら誰も邪魔できない。邪魔させない。独り占め……ふたり占めかな? いっぱい遊んで、いっぱい壊して、いっぱい笑って……いっぱいいっぱい楽しもうよ!」
言うが早いか、真っ赤なワンピースドレスの少女へと姿を変えた幽鬼は、狂気の笑みと共に足場を蹴って突っ込んでくる。回避が出来ない状態で、狭い足場を目一杯に踏みしめ柄で攻撃を逸らす。
金属同士がぶつかり合ったかのような甲高い音と共に、振るわれた幽鬼の腕とハルバードを持った私の腕とが互いに跳ね上がる。跳ね上がったハルバードを構え直す前に、咄嗟に短く保持した斧刃を袈裟懸けに振りぬく。初撃で使わなかった左腕であっさりと防がれはしたものの、私への追撃を防げたということにもなる。
幽鬼は器用に後ろへ飛び退くと、先程とは異なる位置に着地した。タイルが新たに出現した、と言うべきだろうか。
「随分扱いに慣れてきたみたい。いったい、どれだけ幽鬼や幽者を壊してきたの?」
「幽鬼である貴方が問う質問ではないでしょう。問答に付き合うつもりはありません」
滑らせるように柄を握る距離を変え、身体を軸に回転させるように斧刃を全力で振るう。今度は両腕を使わせた。先程より大きな甲高い音と、僅かとは言えない量の火花を散らしてぶつかり合う。膂力は向こうが上だ、と察して、押し合うより先に後ろへ一歩下がる。
たった2度、刃を打ち合わせただけだが……私は彼我の能力差というものを見せつけられた。膂力も速力も、向こうが段違いに上。力任せな戦法であることだけが、私のつけ入る「隙」だ。意識的に大きく息を吐いて、頭の中をクリアにしていく。ミスひとつで、私は死にかねない。そんな状況にいる恐怖心を振り払うように。
「じゃあ次はこれ!」
飛び掛かることなく、幽鬼が両腕をそれぞれ横薙ぎに振るったのを見て、ハルバードの柄をぐるりと回す様に何度か振り回す。僅かな火花と共に弾かれたのは、今投げつけられたナイフ数本だ。驚きはしない。あの姿見に擬態していた時から使ってきていたのだから。
どちらかと言えば、的確にナイフを弾けたことの方がびっくりだ。代行者の身体能力補正がここまで高いとは……ナイフが「見えて」それに対処できる。突然身体能力――偏に視力が良くなることは考えにくいし、集中力が高まっているのだろう。深呼吸を1つ挟み、目の前の敵をしっかりと見据える。
「燃えッ崩れろ!」
魔力を炎に変換し、2枚の刃と穂先に纏わせて斬りつける。ただの刃と炎ではないと直感的に理解したのか、立て続けに振るわれる斧刃と鉤刃を下がって躱し、穂先による刺突をナイフを使って逸らされる。ゾワリと底冷えするような悪寒が背中を走った。
あの「黒い少女」の姿をした幽鬼くらいしか、こちらの攻撃を「防御・回避しよう」と動く幽鬼は見たことが無い。攻撃と相打ちになって、結果として防御されたときはある。偶然、敵の移動で攻撃を回避されたことはある。だが、攻撃に対してアクションを起こされたことは、なかった。
「ほらこっちこっち!」
「っ!?」
意識が逸れたことを知らせるかのように、幽鬼の楽し気な声が聞こえた。考えるより早くハルバードの柄を声がした方向にかざし、次の瞬間に来るであろう衝撃に少しでも備える。三度、甲高い音が鳴り響く。何度目か分からない身体が宙に浮く感覚を覚えて、しかしそうなると分かっていた以上比較的落ち着いて着地へ備えることが出来た。
「次行くよー?」
体勢を整えるより先に迫る攻撃の気配。無茶な体勢だとか、どこから攻撃が来るのかとか、そんなことを考える暇もなくただその場から転がるように飛び退く。背中を鋭い何かが掠めていく気配を感じて、跳び上がるように体勢を立て直して通り過ぎて行った気配の方を見る。
強い。ただ単純に、そんな感想を持った。力が強い。瞬発力が高い。そういう身体能力だけの話じゃなくて、今までの幽鬼が見せなかった行動パターン……攻撃を避けようとしたり、こちらの虚を突いた攻撃をしようとしたり。そういう思考能力の「人間っぽさ」に、そう感じざるを得ない。
黒い少女の幽鬼との戦闘が頭をよぎる。私が何をしようと、それをあしらうようにあっさりと打ち砕き叩きのめしてきた、あの幽鬼。ぐ、とハルバードを握る両手に力が入る。
あの幽鬼程じゃない。ただ、狂気的な言動の割に行動はひどく理性的な相手を前に、緊張せざるを得ない。負けるかもしれない、という恐怖を振り払うように、目の前で笑う幽鬼を睨む。
「やっ!」
「あはっ、やっと本気になった?」
小さく眼前を薙ぐように、ハルバードの鉤刃を振る。振りぬいた勢いをそのまま再現するかのように、更に斧刃で斬りつける。いずれも軽やかなステップに躱されるが、私も別に当てられると思って振った攻撃じゃない。当てるつもりではいたけれど。
2回の刃を躱した幽鬼が、反撃に出る。手にしたナイフを突き出すような攻撃。これは「見える」攻撃だ。ハルバードの柄で腕を受け流し、背中を取った。でも、この幽鬼はそれだけで終わることはない。きっと――――
「うわわっ!?」
前に転がるように、背中を取られた直後に来る攻撃に備えた幽鬼。でも、それは想定内。背中を取った時には攻撃せず、魔力を編み上げる時間に充てていた。
「潰れろ!」
「むぎゅう!?」
「あはっ……あははっ! すごいすごい! やっぱりすごいなぁ、小夜姉ぇちゃん。次は私の番だよね?」
「う、ぐっ……!?」
ハルバードが地面を叩き、視界の外からの衝撃に肺から空気が押し出された。地面に食い込んだハルバードを咄嗟に握りこんで、身体が吹き飛ぶのは堪える。今のは「見える」攻撃じゃなかった。これがこの幽鬼の本気なのだとしたら、今までの「見えた」攻撃は本気ではなかった?
「遊んでるってこと? クソッ!」
悪態を漏らしながら、先程までとは比べ物にならない速さで突き出されたナイフを躱す。目の前を過った昏く光を反射する刃物は、何者かの血で汚れている。それが一層、私の背筋を冷やした。
距離を取ろうとすれば、今の幽鬼にとっては隙を見せることにしかなるまい。ならば、と未だ地面に食い込むハルバードを支えの一つに、ナイフが突っ込んできた方へ向けて思い切り足を突き出す。確かな手応えとわずかな呻き声に、蹴りが幽鬼を捉えたことを確信する。
「……あはっ。やっぱり小夜姉ぇちゃんはすごいや」
瞳に湛えた狂気をより色濃くしながら、幽鬼が嗤う。まだ上のギアがあるのか、と背中を這いまわる悪寒が強くなるのを感じながら、どうにかハルバードを構え直し戦闘態勢をとる。
僅かに腕を動かした幽鬼に、半歩前に出した右足に力を入れて備える。視界から消えたかのように思えるほど、動き出しが速い。でも、注意深く見ていれば決して追い切れない程ではない。回り込むように動いた幽鬼の方向へ、逆袈裟に刃を振り迎撃する。
「くっ、やっぱり無理か!」
「あはっ、腕相撲でもしてみる? 負けないよー?」
迎撃の刃はあっさりと跳ね上げて無力化される。技量も何もない純粋な力のみで,
壁をこじ開けるかのようにハルバードを跳ねのけられた。幸いにも、跳ね上げる動作のせいでほんの僅かな間ながら攻撃は止まった。その隙に飛び退いてどうにか追撃は回避する。
掴みかかるかのような更なる追撃を回り込んで躱すと、反撃のハルバードを柄を掴んで止めてきた。嘘でしょ、と思う。そんな方法を幽鬼が使うなんて、これっぽっちも思っていなかった。いや、そもそも正気の人間相手でもそんなことをされると思わないでしょ。
幽鬼の言うところの「腕相撲」とやらに持ち込まれて、私の足が地面を滑っていく。ハルバードの柄を掴まれているせいで、下手に離れることもできない……!
「っ、これなら!」
「わわわっ!?」
地面に向いた穂先から
「もー、無茶するなぁ。小夜姉ぇちゃん、ゲームで負けそうになると電源引っこ抜くタイプだったっけ? 正々堂々とか名誉ある戦いとか無縁そうだよね。外に出ないから性格も捻じ曲がっちゃった?」
「幽鬼に説かれたくはない話ですね……」
反抗心を覚え始めた子供、位の口調で楽しそうに喋る幽鬼に息を切らしながら応える。内心、随分と馴れ馴れしいなと感じる。やはり私のことを……それも施設にいた頃の私を知っている。大分仲が良かった子……なのだろうか。いや、子供だったかすら幽鬼としての性格と一致しなければ確定ではないけれど。
「貴女……一体誰なんですか?」
「えー、分かってくれてなかったの!? ちょっとショック……うーん、でも生きてた時の名前は私もまだ思い出せないんだよね」
お互い一息に詰められる間合いのまま、腕まで組んで考え込み始める幽鬼。あからさまな隙を見せてはいるものの、こちらから踏み込めるほど無防備ではない。むしろ罠のようにさえ感じる態度だ。
距離を保ち構えを維持したまま、施設にいた頃の記憶を手繰る。少女のような外見は一切アテにできない。性格は……遊ぶのが好きな子は年齢を考えると該当が多すぎる。辺獄に浮かぶ玩具から見える、狂気のような部分は手掛かりになるだろうか。
「ミシェル」
「え?」
「ここでの名前。今度は覚えておいてくれると嬉しいかな?」
ふと思いついた、とでも言うように口を開いた目の前の幽鬼に、思わず呆気にとられてしまう。ミシェル……外国の人名だから詳しくはないけど、男性名でもあり女性名でもあったと思う。綴りが分かれば判断がつくらしいけど、私はそこまでは知らないし、正直どうでもいい。
幽鬼としての名前を知ったところで、情が移ることも過去の正体に近づけることもない。思考から振るい落として、目の前の幽鬼を睨む。向こうも会話は終わりだと言わんばかりに、にやけた表情は変えずに戦闘態勢をとった。
「遊びは終わりです。お片付けの時間ですよ」
「あはっ、まだまだ遊び足りないよ。小夜姉ぇちゃん、お片付け任せた!」
互いに、ハルバードの穂先と鋭利な爪を刺突する構えで対峙する。点同士のぶつかり合いならば、どちらも致命的な攻撃を与え得る。向こうも先程と比べると、笑みこそ浮かべているが張り詰めた視線が私を射貫いている。
円を描くように、互いに着かず離れずの距離を保ち、必殺の機を伺う。たった一瞬のタイミングを誤れば、私はここで死ぬだろう。それは向こうも同じで、この一撃で決着が着く。
2歩、3歩と牛歩の如き歩みを進める度に、ハルバードを取り落としそうになる。脂汗が頬を伝うのを拭う暇もなく、心臓のリズムは乱れ呼吸すら意識しないと止まりそうになる。脚が重い。腕も、思考も。
そして、その瞬間はやってきた。