僅かな浮遊感を感じ、辺獄へ降り立つ。そんないつも通りのプロセスとも言えないプロセスを経て、黄と橙が混じったタイルのような床を踏む。特に好調でも不調でもない体調にどこか安堵を覚えながら、合流するべき人達がいないか視界を巡らせる。
こちらに背を向け、伸びをしている人影がいた。天音さんだと気づいて、足音を心持ち大きく立てる様に近づいていく。実際経験がある訳ではないが、足音を殺して近づいたら驚かれるより早く私は打ちのめされそうだ、という予感があった。多分あってると思う。
「天音さん。おはようございます」
「おう、おはようさん。千暁はまだ来てないな」
「そうですか……久遠さんは?」
「あそこにいるよ。縁に腰かけてる」
天音さんが親指で示した方向を見ると、確かにこちらに背を向けて空を眺める様に座る久遠さんがいた。夕焼けのような明かりに照らされ、朱色に染まる景色の中に佇む黒い衣服。ただ夕暮れに喪服を着て佇んだとしても、あそこまでクッキリと存在を主張することは無いだろう。
「久遠さん、おはようございます」
「おはようございます。あと1人来るまで、といったところですか」
私が声をかけたのに返してくれた後、チラリと後ろを振り返って久遠さんが呟く。こちらに視線を戻すと、話しておきたいことがあると声を潜めた。
「天音さんの様子なのですが」
「前回の探索以降、ということですか?」
「ええ。やはり空音さんのことを気にされているようで。本人は気にしないようにというか、空元気を出しているようですが」
「……とすると、私達が何か言っても逆効果でしょうか? 私の方でも意識を向けておきます」
久遠さんと天音さんは、奇妙な関係性の上に比較的良好な関係を築いている、と言えるだろう。
久遠さんは私達それぞれに特段拘りがない。好感度で言えば3人横並びだろう。幽鬼によくある、仇敵とか親友や家族とか、そういう特別な関係への執着は私達に対しては向いていない。
天音さんからの感情の方はかなり特殊と言っていいだろう。天音さんにとって幽鬼とは、その全てが倒すべき仇敵だ。その考えの是非は兎も角、気持ちが分からないわけじゃない。
しかし久遠さんは、今のところ例外に分類されている。純粋な幽鬼じゃないというのものあるだろうし、空音さんと同じ読みの名前というのも無関係じゃないだろう。他の幽鬼に対しては相変わらずの無慈悲さだが、久遠さんとはむしろ千暁さんより気軽に話している気さえする。
千暁さんと天音さんは、本音をぶつけ合える戦友兼悪友といった間柄なのだろう。それに対して、久遠さんと天音さんはと言えば、ビジネスパートナーと言ったところだろうか。信頼はさておき信用はする。だからこその気安さ。そんな風に感じた。
その、絶妙な綱渡りの先に築いた関係の上で、久遠さんは天音さんのメンタルの解れに気づき、こうして私に声をかけてきた。久遠さんからの私達3人に対する好感度は掴みあぐねているところはあるが、決して害意があってそうしている訳ではない事は分かる。
だから、久遠さんの推測に私は耳を傾け、受け入れることに決めた。天音さんにはお世話になっていることもあって、返せる恩は返したい。単純に、目の前で誰かを喪うのが嫌だということもあって、久遠さんと私は天音さんの様子を気にかけておく協力体制を敷くこととした。
「遅くなったみたい。ごめんなさいね」
「おはようございます。集合時間よりは早いので」
体をほぐす為に軽く動かしていると、少し慌てた様子の千暁さんがやってきた。確かに彼女が一番最後に来てはいるが、集合予定よりは5分程早い。何というか、時間にルーズな人はこの場に1人もいないのが災いしたというべきだろう。
「少し早いですが、問題無ければ出発したいです。よろしいですか?」
千暁さんが僅かな時間で呼吸を整えたのを見て、提案を投げる。異論が返ってくることもなく、いつも通り辺獄の探索はスタートと相成った。
この辺獄の層も既に新鮮味はなく、刺すような斜陽を思わせる光に気を配りながら姿見か核となる幽鬼を目指す。幽鬼や幽者に遭遇すれば掃討し、幽鬼から零れる思念を自らの内に導いてやる。
相変わらず、幽鬼達の未練となる出来事は悲劇にあふれている。愛し合っていたはずの人に刃を突き立てられた女性。ドナーが見つかる直前に発作を起こし亡くなった少年。夢を追い続けた結果疎まれて孤独に生きた男性。愛していた人を仕事の為に裏切らなければいけなかった男性。
どの記憶も、やはりまるで自分のことのように私に訴えかけてくる。そのたびに朝食べたものを戻しそうになりながら、どうにか自分の糧として心の内へ収めていく。未だに慣れないし、多分この先も慣れるとは思えない。
くるり、と回す様に柄の位置を整えて地面に石突を立て、楽な体勢を取る。物理法則など関係ないと言わんばかりに軽く、また扱いにも慣れてきたこともあって殆ど負担には感じないが、武器を持つということは精神的な重量を感じる。
ふぅ、と自然に息が漏れた。広場の掃討と思念の処理が終わって、一区切り。まだ辺獄の探索は始まったばかりだが、だからこそ肩の力を抜ける時には抜かなければ最後まで続かないことも、よくよく理解してきた。
「一先ずお疲れ様。後は――――そこの陰で身を潜めてるつもりの幽鬼だけ」
私が千暁さんの発言の意味を理解するより早く、魔力で編まれたナイフが私の背後を射貫く。慌ててステップを交えて体勢を立て直しながら、ナイフが投擲された方へハルバードの柄を翳す。
「よく気付く。流石は歴戦の代行者と言ったところか?」
ガァン、と重量物同士がぶつかり合うような音は、私の隣から、つまり千暁さんが立っていた位置から響いた。
チャーマーズが魔力で編み上げた斧を叩きつけ、それを千暁さんが迎え撃ったのだと気づくのに一拍。援護の為に魔力を練りハルバードが炎を纏うまでにもう一拍。最速の攻撃手段である突きをねじ込むには、準備に時間がかかりすぎた。
「気配を隠すつもりもなく、よくもまあ口が回る」
鍔ぜり合ったのはほんのわずかな時間だった。ハルバードの穂先を回避するべく飛び退いたチャーマーズを、千暁さんが瞬く間に詰めて逆手に構えた合口を振るう。
今度はチャーマーズが斧の面を向けて受け止める番だった。反撃が間に合わないと咄嗟に防御に向いた体勢をとれる辺り、あの幽鬼も今まで見てきた幽鬼とは別格なのは確かだろう。
「そろそろかと思ってな。もう気づいているんじゃないか? あるいは知ることに踏み出せないか?」
「何、を……」
心臓が悪寒に高鳴り、ハルバードを取り落としそうになる。戦況として不利なのは向こうのはずだ。なのにその余裕は何だ。何を知っているのか、何を手札として抱えているのか。
違う。本当は、見当が付いている。ここまでタイミング
だって。それが本当なら。
「やはり……貴方は。貴方が、院長先生、なんですね……」
私はどうして、辺獄でシレンに挑んできたのだろう。
私は彼を。倒すべきなのだろうか、それとも救うべきなのだろうか――――