悪魔のジレンマ-1
「もう1回……言ってもらえますか? よく……聞き、とれなかったので……」
『……まあ、お主の心情が全く推察できないわけではないが。よいか、お主の姉、千暁は死んだ。老衰というと語弊があるが……寿命をすり減らし続けた結果じゃな』
死んだ。誰が?
一緒にいるって約束してくれたのに。
寿命? 分からない。だってちー姉ぇはまだおばあちゃんなんて歳じゃない。
『事情としては、ワシらよりも天音から聞く方が受け入れやすかろう。色々と状況が変わったことは承知しておるが、心境の整理は単調な作業をしながらの方がやりやすいじゃろう。シレンの準備は整っておる。待っておるぞ』
携帯からメフィスの声が聞こえているが、内容はよくわからなかった。気付けば、画面は通話終了を知らせる画面が黒く映っていた。天井を見上げる。何の飾り気もない天井を、ただぼんやりと見ていた。
熱でも出してしまっただろうか。思考が全然回らない。目に入るものも、今日の予定も全然頭に入ってこない。何かを考えたくない。ああ、でも天音さんに会えとか言ってたっけ。
自分でもわかるくらいのっそりと立ち上がって、とりあえず顔を洗おうと洗面台へ向かう。鏡で見た自分の顔は、いつもの目つきの悪さを踏まえても数段酷い顔色だった。自分でそう思うってことは、相当なんだと思う。
冷水を顔に叩きつけると、少しは頭が冷えたのかマシな気分になった。そのまま、考え込んでまた動きを止めてしまう前に、勢いに任せて身支度を整える。髪を整える時はちょっと危なかったけど。
姿見の前に立ち、深呼吸を挟んでから脇腹の代行者の印を指で切る。ここに印が出来た意味が、ようやく分かった。ここは私が刃物で刺された場所。記憶は書き換えられたけど、きっと体が覚えていて無意識にトラウマになっていたんだ。
ふわりと身体が浮く様な、いつもの感覚が終わるのを感じて瞳を開く。これは……デパートか何か、だろうか。あるいはショッピングモールか。とにかく、いつも通り歪ではあるが、商業施設を参考にしたと思しき見た目だった。天井は見当たらないが。
「天音さんはまだ来ていませんよ」
「久遠さん……おはようございます」
「おはようございます。大丈夫ですか? 顔色が優れないようですが」
「そう、ですね……どうにか、します」
久遠さんは悪魔の2人にも存在を知られていない。故に、まだちー姉ぇのことを聞いていないのだろう。私から告げるべきか、天音さんとの合流を待ってからにするべきか。告げない、のは事実上不可能だ。合流せずに出発する理由を問われるのだから。
言いたくない、というのが本音だ。言ってしまえば、認めてしまうことになる。自分でもまだ、頭が追い付いていないというのに、他人にどうやって説明しろというのか。どうやって、向き合って受け入れればいいのか――――
「……何かあった、のは分かりました。貴女が悩んでいることも。無理に聞くつもりはありませんが、辺獄の探索は一度休んだ方がいいのでは?」
「それがそういうわけにもいかねぇんだよな」
「天音さん……」
背後から聞こえた声に振り返ると、そこにはいつも通り肩に戦鎚を担いだ天音さんが立っていた。苦虫を噛み潰したよう、としか言いようのない苦々しい表情を貼り付けて。
「シレンってのは、まあアイツらとの契約の一環だ。アイツらは悪魔だ。自称でもな。で、悪魔にとって契約ってのは……」
「……契約を結んだ、というのが重要な意味合い。そういうわけですね」
天音さんの言から最も重要と思われるポイントを抜き出して、久遠さんが確認を取る。首肯した天音さんはそのまま続けた。
「辺獄で精神が重視されるのと同じように、アイツらにとっちゃ契約ってのはかなりの重要事項だ。前に、シレンをいつまでも突破する気を見せねぇ奴を見たことがあるんだが……まあ、死ぬ方が楽だったかもな」
「契約の不履行は、あの2人にとってはそれくらい私刑を行う口実になる……そういうことですか」
「腹立たしいことだが、そういうこった」
天音さんと久遠さんの会話に、私は何のリアクションも返せなかった。何を話しているのか、意味としては理解できる。が、どこか頭に入ってこないような感覚が、今日はずっと続いている。
「とにかく、アタシから言えるのはシレンは続ける方が身のためだってことと、何かやってた方が拗れた考えになりにくいってことだ。小夜、お前自身の為にも」
「私、ですか……?」
「……話はアタシもアイツらから聞いた。アタシだって信じたくはないけどさ……ただまあ、アタシは初めてじゃない。お前に背中を見せてやるくらいはしなきゃな」
くしゃり、と私の頭を撫でた……撫でた? 天音さんは、そのまま私に背を向けて歩き出す。文字通り背中を見せる形だけれど、物理的にそうする事を宣言したかったわけではあるまい。
天音さんの「初めてじゃない」という言については、十中八九空音さんのことだろう。言わんとする事を理解して、改めて天音さんの背を見る。哀愁と力強さとが同居した背中に、自分の中で何かこみ上げてくる熱いものを感じた。今まで堰に食い止められていたものが、溢れる様に自分の中で溢れていく。
「小夜さん? 大丈夫ですか?」
「え……あれ……? 大丈夫、大丈夫です……」
こちらをチラリと見た久遠さんが、一瞬だけ目を見開いたかと思えば気遣うような問いかけをしてきた。それで初めて、私は自分の頬を涙が伝っていることに気づいて、その熱を感じるようになった。
涙が突然出てきた理由は分からない。分からないけど、きっと自分が、千暁さんのことを受け入れる準備が出来たんだと、そう思う。根拠はない。けど、この涙にはきっと意味がある。
だから私は、自分の口でこの
「久遠さん。今日、千暁さんはここに来ないので、先へ進みましょう」
「ここに来ない、とは?」
「千暁さんは……亡くなりました。老衰、と悪魔達は言っていましたが、どこまで本当なのかは分かりません」
「……成程。理解しました、貴女の様子がおかしかったのはそういうことですか」
私の告白を受けた答えの後、目を閉じて少しばかり考える素振りを見せる久遠さん。先程までの、私の態度が原因であっただろう戸惑い混じりの瞳ではなく、何らかの決意を伴う強い瞳がトパーズのような輝きと共に姿を見せた。
「私も覚悟を……人を残して逝く覚悟を、決めねばならないようですね」
「それは、どういう……?」
「そのままの意味ですよ。私は、厳密には異なるとはいえ辿る運命は幽鬼とほぼ同じ。そして、私には会わなければいけない人がここにいる。それだけの話です」
それは、例え十全に理解できない内容だったとしても。誰かと別れを告げることが分かっているのだと、そういう意味だということは理解できる覚悟だった。