「小夜! 戻ってこい!」
不意に、肩を揺すられる感覚と呼びかける声に気づいて意識が切り替わった。暗かった視界が一気に開け、眼前には天音さんの顔があった。
「悪ぃ。気持ちは痛いほど分かるんだが、踏み込みすぎるとお前も道連れになるからな」
「……いえ、ありがとうございます。戻ってこれなくなるのは、多分ちー姉ぇも望んでいませんから」
目元を拭って、どうにか立ち上がる。妹に向けた姉の後悔を知った。今は、きっとそれで十分だ。幽鬼としての彼女を倒して、消滅させてしまった以上――彼女のヨミガエリを望むことは出来ないけれど。それでも、きっと。
「最後の最後に、姉の思いを理解できたことは……きっととても幸運なことなんだと思います。だから、私にはきっと、それを受け継ぐ義務がある」
この後どうしようとか、そういうことはまだ決められていない。シレンを継続する事にはなるだろうけれど……既にヨミガエリさせるべき相手もいなくなってしまった。
「……なあ。アイツ、最後にお前に伝えたのって、どんなことだったんだ」
「私と一緒にいられない理由を、教えてくれました。私の希望は通らなかったわけですが」
敢えて質問する、というのは天音さんなりの気遣いなんだろう。だから私はそれに素直に答える。不思議と爽やかな気分で、涙は流れてこなかった。
「それにしても、これからどうするべきでしょう。最初にヨミガエリさせたかった相手は黒幕で、ちー姉ぇは幽鬼としての魂まで消滅させてしまいました」
「……そうですね。知りたいこと、はありますか?」
「知りたいこと……」
少しだけ時間を置いてから、今後どうするべきかという疑問が大きくなってきた。どこかに行くべきところがあるというわけではない現状もあって、誰にというわけでもなく呟く。
反応してくれたのは久遠さんだった。知りたいこと。要は、私が巻き込まれたこの一件について、ということか。確かに、分からない事は多い。
何故、院長先生やちー姉ぇは辺獄を知ることが出来たのか。
これらを追い求める縁があるのなら、それを辿って真相を突き止める、というのも悪くない気がしてきた。そして、久遠さんがそれを提案してきたのは、彼女自身にもメリットがあるのが理由だろうと思う。
「幽鬼の姫。唯一私に心当たりのある縁……それを追う、ということですね」
「私にとって利益なのは勿論です。そこは隠すつもりはありませんが、貴女にとっても悪い話ではないと思います」
元々、久遠さんは
もっとも、私にとっても悪い話ではないのも確かだ。誰かに気を遣うがあまり、口下手になる。私達の一行は、誰も彼もそんなきらいがあった。私も、もしかしたらそうかもしれない。
「ほう。幽鬼の姫を追うと?」
「彼女が、今の私にとって真相を解明する唯一の糸口です。そこから、更に別の存在へ繋がると思うので」
「ふぅん? まあ、僕たちとしては面白い発想だとは思うよ」
この辺獄の層が見つかって以来の、メフィスとフェレスとの会話だった。この層が見つかったときは、ショックでちょっとそれどころじゃなかったし、携帯電話を介してだったから、顔を合わせての会話はかなり久々だ。
まあ、
兎も角、悪魔2人にとっても幽鬼の姫というのは目の上のたん瘤らしく、私が幽鬼の姫を追うことに対しては賛成の意向という様子。
「しかし難しい題目じゃな。幽鬼の姫は、ワシらも長いこと追っておるが……」
「向こうもこっちを認識してるみたいで。なんて言うのかな、避けられてる?」
「まあ、貴女達が目を付けたというのは、幽鬼にとっては存在を消されるにイコールなのでしょうし」
だから久遠さんにも隠れてもらっているし、とは心の中だけで呟いた。
その後話し合いの末、一先ず幽鬼の姫を追うということを当面の目標に設定、皆がそれに同意した。天音さんも元々半分くらいは幽鬼の姫を追っていた人なので、反対する理由がある人がいない、というのが正確か。
「まあ、幽鬼の姫は多分、もう再生の歯車まで潜り込んでるだろうけどね」
「……何故、そう判断を?」
「どうにも、奴にも何らかの目的があるようでな。それと、もう1組代行者のグループがおるが、そ奴らも幽鬼の姫に遭遇しておる」
「2組の代行者グループと、幽鬼の姫の目撃証言。ここからどこへ向かっているのかは割り出せたんだよ」
目的は不明。しかし目的地は分かっている。とすれば、向こうもこちらを認識している以上待ち伏せや罠を警戒すべきではあるのだろうが。
「ま、シンプルな話だな。罠だろーと何だろーと真っ向からブッ潰す。だろ?」
「いえ、まあ、そうなんですけど。久々に天音さんの天音さんらしいところを見た気がします」
じっとりした視線を送りながら呟くと、んだよ、とやっぱりぶっきらぼうな声が帰ってきた。この刺々しいところが私にとっての天音さんの第一印象だからか、すごく懐かしく感じる。贅沢な話だな、本当に。
「そう言えば、ここの
ふと、気になったことが逡巡する間もなく口をつく。辺獄は、区切りごとに姿見を象ったゴール地点がある、はずだ。今までの層では全てそうだったし、恐らく他の層でもそれは変わらないはず。
ということは、まだ区切りへ辿り着いていないということに他ならない。まあ、幽鬼を1人倒しただけ、という言い方もできる現状では、地点としての区切りに到達していない、ということになっていてもおかしくはないのかもしれない。
「歩いてりゃその内に見つかるか……ヒントくらいはあんだろ。案外近くにあるかもしれねぇしな」
「まあ、それはそうですけど……そろそろ久遠さんも戻ってくる頃ですかね」
「お待たせしました」
噂をすれば影がさす、という言葉さえ置き去りにするようなタイミングで、久遠さんが目の前に飛び降りてきた。あんまりにもあんまりなタイミングで、心臓が止まるかと思う程ビックリして言葉も出ない。
「それで、どうでしたか?」
「えっ!? あ、ああ、そうですね。とりあえず、悪魔2人も幽鬼の姫を追う動向については賛同のようです。彼女らも悩まされているようですから」
「で、その為にはとりあえず再生の歯車へ向かう必要がありそうだ、ってとこまでは情報がまとまった。お前さん、大丈夫か?」
「ええ、まあ、恐らくは」
天音さんが久遠さんに問いかけたのは、以前にも似たような内容で問いかけた内容だった。それだけ心配というか、戦力としてカウントしているんだと思う。前も思ったが、天音さんは随分と久遠さんのことを認めているらしい。
「少なくとも、私には未練と呼べるものはありません。そういう意味では、再生の歯車に抗う力というのは弱いでしょう。しかし、やるべきことが明確にあります。であれば、私も幽鬼の姫も、再生の歯車から受ける影響は小さいでしょう」
久遠さんが、どこか決意のようなものを伴った目つきで、半ば宣言の様に教えてくれた。
再生の歯車、というものを実際に見たことがある天音さんでも、その本質は理解出来ないらしい。
敵味方共に、あまり影響を受けないであろうことが予想される、辺獄最深部での戦い。熾烈な戦いが、もう一度始まろうとしている。ちー姉ぇのことも、まだ心の整理が追い付かない中で、それでも。
「小夜さん、大丈夫ですか?」
「えっと……?」
「いえ、顔色が悪いので……それも当然でしょうが。もはやここに来て無理をするな、と言うつもりもありませんが、次の区切りを越えたら1度休む方が良いのでは?」
「アタシも、それは賛成だな。ここまでの攻略自体、結構な弾丸ペースだ。何か作業をしてた方が落ち着くっても、限度があるからな」
確かに、2人の言うことは尤もだった。ここのところ激戦続きで肉体的な疲労も溜まっているし、油断が即命の危機に繋がる場所にいることもそうだ。
ただ……もう1区切りくらいはつけないと、次に立ち上がれるのがいつになるか分からない。そんな不安がある事も、また確かだった。それに、語弊を恐れず言うならば、先が気になるというのも、またある。
「私は……もう少しだけ、先に進みたいと思います。勢いを止めたくありませんし、答えを知りたいという好奇心だってある。だから、まだ止まりたくない、です」
私の宣誓にも似たそれを聞いて、2人は僅かに目を見開いた……ように見えた。切れ目の天音さんは分かりにくいし、久遠さんはかなりのポーカーフェイスだから、確信はないけれど。
驚いたように見えた後、すぐに納得したような視線に変わった。
「小夜さんがそう決めたのなら、私からは特に言うことはありません」
「右に同じ。言っても曲げない程度には頑固だってのも知ってるしな」
「えっ、私頑固だって思われてたんですか……?」
「
天音さんの評に、無表情のままながらも明らかな同意の頷きを見せる久遠さん。自認と異なる他者からの評価に、ちょっとヘコみそうになる。なんというか、締まらないなぁ。