湯船に張られた湯がザブリと音を立てて割れ、その熱を身体に伝えてくる。ここのところ激戦続きで疲労を訴え続けていた身体が解され、安堵の吐息がそれを持ち主へと伝えてきた。
「……随分と、立て続けに色々あった気がする……」
いや、多分気のせいではないのだろうが。その関係か、天音さんには辺獄から帰還する時、今日はシャワーで済ませるんじゃねぇぞと脅迫めいて念押しされた。疲れやら何やらが、そこまで顔に出てしまっていただろうか。
足を伸ばせる程には広くない湯船だが、張られた湯の熱は確実に私の身体を解し、心地良さを感じさせる。辺獄へ足を運ぶようになってから、こうして湯船に浸かる回数は増えた。以前は圧倒的にシャワーだけで済ませることが多かったけれど。
そして、湯船に浸かる回数が増えると、それだけ思索や回想に耽る時間が増えるんだと最近気づいた。辺獄に足を運ぶとどうしても、思い返すことの方が多いけれど。そして、今頭に浮かぶこと、考える事は――――
「っ、ぐすっ」
もう、会えないと思っていた。奇跡が起きたと思った。
けど、奇跡は長続きしないから奇跡と言うのだろう。
奇跡は流星の様に私を照らし、そして燃え尽きて消えた。
ただ奇跡と言う存在を信じさせ、そして姿を消した。
奇跡と言う希望をチラつかせ、取り上げる。それは、思いのほか私の心に深い傷をつけていたようだった。
頬を伝うのが、汗でも風呂の湯でもないことがはっきりと分かる。次第に、嗚咽が止まらなくなってしまった。
もう一度。せめてもう一度、会って話をしたい。
けれど、その機会は辺獄であってもなお、もう掴めない。その機会は、紛れもなく私自身が砕いてしまった。私が、彼女を殺した。
ああするしかなかった。そう言われれば、それは事実だ。彼女を救うには、最善手だった。それも、事実だ。
だけど、殺した。これもまた、どうしようもない事実だ。もう会えない。これは覆しようのない――本当のことだ。
会いたい。会えない。生きてた。殺した。そうせざるを得なかった。そうすることを選んだ。
涙も嗚咽も、湯船へ溶け浴室に反響して、泣き止まなければという意思を削っていった。
「ふーっ、はーっ……」
のぼせる寸前――いや、多分大分のぼせてしまったと思うタイミングで、ようやく私は浴室を出ていた。ピッチャーに入れて冷やしてあった1リットルの水はあっという間に無くなり、折角流したばかりの汗が体中から吹き出ていた。
「あー、もう……シャワーもう一度浴びた方がいいかな」
夕刊を団扇代わりにしながら、時計を見やる。夕飯を先に済ませて、胃を落ち着かせたら汗をもう一度流そう。寝るまでのタイミングを考えても、それが一番良いと思う。
夕飯である野菜炒めをフライパンで作っていると、不意に再び涙がこぼれそうになった。風呂の中でのぼせ上がる程泣いたのになお、また泣きそうになっていた。
それはそうだ、という思いと、いつまで泣き続けるつもりだ、という思いが葛藤として胸中でぶつかる。泣き腫らして、ある程度気持ちの整理がついたと思っていたが、どうにもそうではなかったらしい。
『で。今は大丈夫なのか?』
「それが何とも……すみません、夜も遅いのに」
『あー……まあ、アタシは天辺越えが当たり前だからそこは全然……それよりも小夜、お前もう少し自分を大事にしろよな』
夕飯を終え、シャワーで汗を流し身体から火照りが抜けるまでの間、私は天音さんに電話をかけていた。実際にはその前にメッセージアプリで通話してよいかと確認したら、すぐに向こうから電話がかかってきたのだが。
曰く、もし私から連絡があったらすぐにでも対応できるようにしてあった、らしい。自分で言うのもおかしいけれど、温かな心配をかけてくれているんだな、と感じた。
『お前も
「う……それは、その。有難いことではあるんですが、そんなに顔に出てましたか……」
『隠そうとしてるのが分かるってこたぁ、言い換えりゃバレバレだっての。前にも言ったけど、お前ら割と顔に出るぞ』
そんなにだろうか……でも確かに、久遠さんにも心配されたわけだし……
『まあ、お前からアタシに電話してきた訳だし、最悪の想定は外れたから良かったよ』
「最悪、ですか」
『他人に頼る事も、自分でどうにかしようとも思えない程まで行っちまうと、こっちも無理やりどうにかするしかないからな……アイツ曰く、だが。アタシもまあ、気持ちは分かるつもりだよ』
アイツ、というのが千暁さんのことを指しているのは想像に難くない。天音さんもまた、親友である空音さんを喪っているわけだから、確かに境遇としては近しいものがある。多分、その時に千暁さんに「無理やりどうにか」されたのだろう。
「……ちなみに、無理やりどうにか、というのは?」
『あー……家を調べられて、押しかけられた。辺獄に行く気力も無かったから、結果論的には助けられたんだが……』
スピーカー越しながら、ものすごく複雑な表情を浮かべたことがありありと分かる声色だった。態度だけで言えば不倶戴天の敵同士、という2人だが、実際には素直になれないライバル同士、といったところだろうか。
思ったよりも遥かに強引だった手段に若干引きつつも、それだけのことをさせた天音さんが、少し羨ましかった。
ああ、そう言えば。以前にも、天音さんに嫉妬に似た、あるいは嫉妬そのものと言える感情を持ったことがある。その時は、自分が同性愛の気があるのかもと思ったが。
なんてことは無い。あの時私は、無意識にちー姉ぇと千暁さんを同一視していたということだろう。つまるところ、慕っている姉を取られた妹としての嫉妬だった、というわけだ。
「あ゛ー……」
『うぉっ、なんだいきなり』
「いえ。ちょっと過去の痛い記憶が……」
『お、おう、そうか……まあ何だ、多分久遠の奴も心配してるだろうし、明日は顔だけでも見せに来てくれよ。それも辛そうなら、また電話してこい。アタシも他人事って知らんぷりするにゃ、お前に似た境遇過ぎるからな』
そんな一言を最後に、天音さんとの通話が終わった。ぶっきらぼうな口調ながら温かな声色で、いかにも天音さんの優しさを感じたひと時に、ほんの少し心が晴れたような気分になる。
熱めに設定したシャワーを浴びながら、頬を伝う涙の跡を指でなぞる。
これは、決意だ。
今日、泣いたことを決して忘れない。
今日、流した涙を無駄にはしない。
今日、溢れた本音を嘘にはしない。
きっと、今日を過ぎても私は幾度となく涙を流す。けど、今日流した涙とは、今日限りで決別の時だ。
さようなら、ちー姉ぇ。きっと地獄の底で会う、その時まで。