ホッブズの辺獄へやってきて、胸中を埋める疑問と問答を続けながら進むことしばし。暗い灰色の煉瓦が作る壁の間を走り抜けながら、幽者達を切って捨てを繰り返している内に、煉瓦の色が僅かに異なる広場へと辿り着いた。
僅かに体が重く感じる。単なる疲労というのはそうだろうが、いつも以上に幽者や幽鬼を相手にするのに時間がかかった気がするが故に、疲れもまた重く感じてしまう。
「……着きましたね」
「ええ。今回は間に合った、みたいだけど」
神妙な表情で周囲を窺うちー姉ぇ。前回、つまり久遠さんが4つ目の
今回は、奥にある鉄格子の向こうから、濃密な気配を感じる。邪悪さ、と形容すべき害意が、特別気配と言った概念に敏感ではない私でも容易に感じられるほど溢れてきていた。
ホッブズ。戸増 恐介の、幽鬼としての名。獄中で死んだと、無味乾燥な新聞の記事で知った因縁の男。既に死んだ相手への復讐というのは妙な話だが、放置すれば奴は無辜の人々の魂さえも集めてヨミガエリしてしまう。それだけは、許せない。許さない。
戸増という男への憎しみは、きっと当時幼かった私よりもちー姉ぇの方が深いと思う。けれど、ちー姉ぇは先程から鉄格子の向こうを睨むだけで、怒りに我を忘れると言った様子は見せていない。むしろ、静まりすぎていて怖いくらい。
「さて……恵羽さんは来ると思う?」
「彼女と繋がれたのであれば、恐らくは。彼女の性格なら、ここを放置することは良しとしませんから」
「随分と信用してるみたいだけど」
「そうですね……前回の記憶で、最後に見たのは彼女の顔でしたから」
恵羽さんを待つ間に、ふと思い出したのは、
私は、久遠さん視点で
最初に私とちー姉ぇがこの辺獄を訪れた時、ここはホッブズが討たれた後の、もぬけの殻だった。思念の残滓とも言えるものが残っていて、そこから恵羽さんがホッブズを、戸増を討ったと知った。
復讐の対象がするりと手の上から抜け落ちたと知ったちー姉ぇは、張り詰めていた糸が切れてしまったかのように座り込んだかと思うと、心神喪失状態に陥っていた。要は、魂が抜けてしまったかのように動かなくなった。
座り込んだちー姉ぇの尻を蹴ったのは、前回は一緒にいた天音さんだ。胸倉を掴んで立たせたかと思うと、頬に一発振り抜いたのを記憶として覚えている。
それで多少は目を醒ましたらしいちー姉ぇだったけれど、彼女の心は薪を取り上げられたに等しかった。結局、その後黒幕たる悪魔達を倒そうと動き出した直後、彼女は心を閉ざしたことで自意識を保てなくなり、辺獄という特殊環境下の中で呆気なく死んだ。
いや、正確にはもう一度、私が彼女にトドメを刺した。
遺体の残らない辺獄でちー姉ぇを弔うことも出来ず、私達は悪魔達の討伐に乗り出した。辺獄という、向こうにとってのホームであり私達にとってのアウェーのフィールドではあるが、それでもこの拳は既に振り上げられていた。
そして私達を襲ったのは、二度目の喪失感だ。悪魔達は、恵羽さんが属する、私達から見たもう一つの代行者グループによって討たれていた。私達は、またも間に合わなかった。振り上げたこぶしだけが、握りしめられたままだった。
悪魔が討たれたことを知った時、同時に天音さんの仇である幽鬼の姫もまた、ヨミガエリを諦めて再生の歯車へ自ら踏み入れたことを知った。犯罪者が自首あるいは出頭をした上で、手の届かない所へ行ってしまった。
復讐の対象も、辺獄でのシレンを強要する悪魔もいなくなってしまった私達は、ただ途方に暮れるしかなかった。握りしめた拳の中で手のひらに食い込む爪の痛みだけが、私達の間に残った。
結局のところ、悪魔達さえも居なくなったと知った天音さんは、それで気力が擦り切れてしまったのだろう。パッタリと辺獄からは姿を消し、その後どうなったのかは私も知らない。
私も、姉を再び喪った挙句恩人にあたる天音さんまでいなくなり、当然久遠さんも姿を見せなかった状況が祟り、我ながらまともな精神状態では無かった。
結果、八つ当たりだと自分で分かりながらも、私の拳は恵羽さんへと振りかざされた。
恵羽さんは、それをいなすことだって出来たはずだった。けど私に真正面から向き合って、真正面から打ち勝った。彼女が持つ正義で、貫いてくれた。
勿論、私が素面だったとしても、経験に勝る恵羽さんに勝てる道理はない。けど、その戦いは強いて言うならば儀式のように、私の心を覆っていた燻ぶりの殻を砕いてくれた。
『……そうか。今まで辛かったな。ゆっくりと、休め』
私を、恐らく介錯をしたであろう恵羽さんの顔を、
そんな恵羽さんと、彼女が持つ正義感を軸にした性格だからこそ、彼女はきっとここへ来る。来てくれる。そう考えている。勿論、この世界において私と恵羽さんの記憶が繋がっている、という前提が満たされていれば、だが。
思い返してみると、本当に恵羽さんには頭が上がらない。もっと言うと、その性格を利用してここで待っている自分が恥ずかしくなってくる。手段を選ぶ余裕が無いのでどうしようもないけれど……
それと、ちょっとだけ迷っていることがもうひとつ。多分、この記憶がちー姉ぇにあまり細かくは伝わっていないということだ。
ホッブズがここにいる、ということや、前回それを自らの手で討つことは叶わなかったことは把握しているだろうが、以降の記憶は恐らく把握していないと思われる。
何故そう思うのか、というと確証はないが、全て把握した後のちー姉ぇならこんなに落ち着いてはいないと思ったから、だ。根拠らしい根拠と言えば、姉に対する私のイメージ位のものだけど。
だから、私は迷いをひとつ打ち消すために、姉の献身に向き合うために。私の愚行を含めた、前回の世界で見た顛末を、余すことなく伝えることにした。
「ちー姉ぇ。恵羽さんが来る前に、話しておきます。前回の記憶の話です」
「……分かった。遠慮はいらないから、何でも言って」
私の表情から、少なくとも心構えの必要な話だと悟ったらしいちー姉ぇは、しかし即座に続きを促してきた。首肯だけ返して、私は回想していたことを、言葉にする。ぼやかすことも、隠すこともしないで、素直に正直に。
話が進む度に、ちー姉ぇの顔は険しくなった。怒りというよりは無力感とかもどかしさとか、そういう感情による歪みだと思う。心配してくれるのは嬉しいけれど、力足らずだったが故の話なので申し訳なさが強い。
一通り話し終わると、ちー姉ぇは瞼を閉じて俯き気味に、何かを考えるような姿勢になっていた。反応を窺うように視線を彷徨わせていると、ゆっくりと瞳を開いたちー姉ぇがこちらへ歩み寄ってくる。
「ごめんね……また辛い思いをさせたみたい」
「っ!? い、いえ……ちー姉ぇが悪い訳では。それと、その、
ぎゅう、と強く抱きしめられること自体は、正直嬉しい。人肌恋しい時期の長い人生だったこともあって殊更に。ただ、その、背後に1人、人の気配があるので気恥ずかしいのだ。
「あら……ごめんなさい、普段なら人の気配なんて真っ先に分かるものなんだけど」
「んんっ……いや、あたしもタイミングが悪かった。謝罪させてほしい」
黒を基調に金を差し色とした装束に身を包む、黒髪をポニーテールにした代行者の少女。前回の記憶と違わぬ、左側の肩をマントで覆った二刀流の剣士の姿。恵羽 千さんその人が、そこにいた。