永劫回帰の否定-1
夜が明けた。瞼の裏に差し込む僅かな光でそう感じて、微睡の海を浮上する。久々に、フラットで穏やかな目覚めだ。辺獄に行くようになって、悪夢を見る確率が極めて高かったこともあり、何でもないことの筈なのにひどく幸運なことに思える。
あるいは、何でもないことを幸運なことなのだ、と思えるようになったという方が正しいのかもしれない。なんせ、物理法則からして「当たり前」と真逆の場所に向かい、命の不可逆性に真っ向から喧嘩を売っているのだから。
「馬鹿なことを考えてる場合じゃなかったですね」
鏡に映る自分へ言い聞かせるように呟いて、さっさと身支度を整えていく。軽めの朝食と洗顔、歯磨き、そして着替え。1つ1つこなしていく度に眠気が身体から抜けていくような、この感覚は嫌いじゃない。
「そう言えば、ここ最近新聞がただの資源ゴミに……」
ポストから抜き取り、いつもなら朝食後と寝る前とに読んでいた新聞紙。しかし、このところ代行者活動で疲れているのか、どうにも朝の時間的余裕が少なく、夜も気力が尽きすぐに寝てしまうような日々が続いていた。
久遠さんの力で、別の可能性を秘めた世界に辿り着いた今は――新聞に書かれている内容も、私にとっては過去のものになっているが、結局のところ今回も読めていない日が続いていた。
今日はここ最近では余裕がある方だったので、ざっと1面2面程に目を通し、資源ゴミとして出すまでのストックに重ねる。時間が取れればこのストック分を遡って読みたいが、如何せん当日分すら読めていないのが現実だった。
「あれ、着信……?」
ローテーブルの上に置かれた板が、沈黙を破るようにバイブレート音を鳴らし画面を点灯させる。そこに表示された白い文字の内容が読めずとも、状況はある程度把握できた。
端末に近づき、画面の文字が「恵羽 千」であることを認識するとほぼ同時。手に取った端末を操作し、通話に応答する。
「千さん?」
「小夜の電話で間違いないようだな。待たせたな、見つかったぞ」
何が、とは言わなかった。それは必要ないと思ってのことであろうし、事実必要はなかった。なんせ、見つけるよう動いてもらっていたものはひとつしかない。
「こちらはすぐにでも向かえる。他の面々と段取りが付いたら連絡してくれ」
「分かりました。なるべく早く連絡します」
幽鬼の姫、
逸る気持ちを押さえながら、ちー姉ぇと天音さんに辺獄の特定ができた旨を伝え、集合を打ち合わせる。とんとん拍子に決まった筈なのに、待ち焦がれるような焦りを必死に抑えていた。
「……よし。行きましょう」
最後の最後、部屋の電気や戸締りを含めた身の回りの確認を済ませ、姿見の前へ立つ。数度は、小さな区切りを迎えて休息や補給で戻ってくるかもしれない。けれど、大きな区切りで言えば、きっとこれが最後の出発になる。
一度、深く息を吸い、一拍の後にゆっくりと吐き出す。少しだけ服を捲り上げ、
「おや、早かったな」
「お願いした身で遅刻はシャレになりませんから……」
視界が切り替わり辺獄に到着した直後。傍で待機していたらしい千さんが私に声をかけてきていた。彼女だけは真っ先に辺獄に来て私達を誘導する必要があるが、それを除けば確かに私は一番乗りだった。
「それに、気持ちが前のめりになっている自覚は、まあ、あります。やっとここまで来たわけですから」
「気持ちはわかるよ。でなければ、あの時のあたしもきっと、お前の介錯はしなかった。お前と真っ向からぶつかり合うことは、多分しなかった」
字面で言えば相当物騒な話ではあったが、千さんの表情は柔らかなものだった。私もまた、そこに悪意を感じることは無かった。そこにあったのは、事実と誠意だったと言える。
「まあ、
答えに窮した私の表情を見たからか、千さんはそんな風に会話を一度打ち切った。会話を続けるべきか、それとなく沈黙を貫くべきか、そんなことを考える間もなく背後に誰かの気配が現れた。まあ、誰か、と言っても2人に1人だが。
「あら、私が最後か」
「タッチの差ですよ」
「む、ぅ……」
ほんの僅かに先に辺獄へ到着した天音さんに挨拶を投げかけようとした瞬間、最後の1人ことちー姉ぇがやってきた。私のフォローは、嫌いな(と言い張っている)相手に僅かな差を付けられたのが悔しかったのか逆効果だったようだ。
「はは、過度に緊張していないのは良いことだ。さて、貴女が小夜の言っていた?」
「ああ、哀川 天音だ。天音で良い。そっちが……」
「恵羽 千。こちらも千で。短い旅路だろうが、よろしく」
「世話になるよ。思ってたより気が合いそうな奴で良かった。少なくとも
私とちー姉ぇの合流の裏で、天音さんと千さんも自己紹介をしていたようで、なんとも気の抜けるやり取りが聞こえてきた。
「さて、各々把握していると思うが、この辺獄は私の幽鬼の姫……幡田 みらいとの因縁を辿る層だ。
「だからこそこの中で最も因縁が強固、というわけでお願いすることになりました。そして、これを糸口に、私にとっての因縁……院長先生、もとい
幽鬼の姫もまた、私達にとっては因縁の相手。しかし、幽鬼の姫を生み出した
「6年……気づけば、6年も代行者をやっていた。ようやく決着が付くと思うと、ちょっと感慨深いね」
「アタシはちっと短いが、それでもお互い長かったな。
「今更だが、本当に大丈夫なのか? 知ってることと対策が出来ていることは全くの別物だ」
「問題ありません。トラウマになった要因……私は
悪魔達が手札にしている"罠"。代行者の印が、トラウマに紐づく場所に現れる事を利用して、そのトラウマで代行者の身動きを"縛る"という手段だ。
縛ると言うのは文字通りの意味で、正常にその罠が作動すれば代行者は物理的に身動きを取ることが出来なくなる。どころか、悪魔達の意のままに身体を動かされるという。
結論だけ見れば、千さん達一行はこの罠を乗り越えた。
その罠を打ち破る一助となったのが、
事実、私やちー姉ぇはそこまで幽鬼の姫と深い因縁があるわけではない。天音さんにとっての幽鬼の姫が、私達にとっては戸増や院長先生というだけの話だ。だから、それをブン殴るにせよ放免するにせよ、私達は天音さんの決定になるべく口を出したくなかった。
「さて。ここから先は、私達が経験してきた中でも最も強い幽鬼や幽者達が集うはずだ。普段訪れていた辺獄とは異なる仕組みで生まれた場所だからな。準備は良いか?」
「ええ、いつでも。道案内、お願いします、千さん」
「任された。では行こう」
千さんを先頭に進む、この特殊な辺獄は……今まで通ってきた辺獄と比べると、特に不気味な空間だった。今までは「正体や意図が分からない」ことによる不安感が主体だったと思う。けれど、この層はもっと直接的な「害意を感じる」ことによる恐怖感が原因だろう。
刃物や鈍器から、具体的な使い方がよく分からない凶器。そういったものが、全て空中から私達を向き続けている。加えて十字架に磔にされた、赤い何かで塗れたマネキン達がそこかしこに打ち立てられている。
「ここまで直接的だと、逆に裏を疑わざるを得ないな」
「同感だ。あたしの知る限り、奴はむしろ狡猾に
そう訝しむのは、幽鬼の姫に深い因縁のある天音さんと千さんだ。多少なりとも幽鬼の姫の性格を知る2人は、このあからさまな害意に違和感を覚えると言う。
彼を知り、己を知れば百戦危うからず、と言うように、性格であれ手札であれ、戦う相手を知ることは大きな意味を持つ。そして、少なからず相手を知る人が違和感を覚えるなら、きっと無意味なことでは無いはずだ。
「何らかの変化があった訳でなければ……罠、でしょうか」
「多分、遠からずと言ったところだろうな。一定のルートだけ、妙に幽者達が少ないのも併せて、どこかへ誘導しようとしている……と、見せかける為だろう」
「誘導が本懐じゃない、ってこと? であれば……」
「覚悟の上で踏み倒す。これに尽きるということですね」
千さんを除いた私達3人が頷き合う。千さんも、唐突な踏み倒し宣言に驚きはしたようだが、一拍置いて納得したのか苦笑い気味ながらも同意の姿勢を見せてくれた。
「まあ、効果的なのは確かだと思う。あれこれ悩んで見当違いのことをしたり、騙される隙を作ったりするよりよっぽど良い」
幽者達の不自然に少ないルート。その方角を見つめて、私達は今一度頷き合い、覚悟と共にその足を踏み込んだ。