敵将の首が宙に舞った。
さすがは、と「彼」は笑った。彼の兄が刎ね飛ばしたのだ。やさしく、まじめで、何をやっても優れている兄だ。子にも恵まれ、成長を楽しみにしていた。幸せになるべきだったのに。
そんな兄の身体に、何本もの矢が突き刺さっていく。何竿もの槍が刺し貫いていく。
許しがたく思った。この多勢に無勢という状況は、兄のせいではないからだ。愚かな君主の身代わりなのだ、兄は。囮として駆けさせたのは父だ。立派に死ねという命令だった。
父にとって、軍人とはそういうものなのだろう。しかし、兄にとってはどうなのか。
今、貫かれ持ち上げられて、兄の眼差しはひどく遠い。その諦観が、その悔悟が、兄という男の最期をみじめなものとしている。ああ、目が閉じられた。兄が、あの兄が逝ってしまった。
理不尽だ、これは。
彼は憎む。君主の愚昧を、友軍の惰弱を、父の頑固を……そして何よりも、己の無力を。
後悔が、潰された片目から血涙となって流れ出た。真剣に考えも、必死に鍛えもしてこなかった。本気で生きてこなかったということだ。頼れる兄弟や強大な父に囲まれて、多くのことを誰かに任せてしまって、適当に楽をしてきた。
つまるところが、兄の後ろに安住していたのだ。だからこんな今を迎えた。
「おおおおっ!!」
吠えて、突っ込んだ。
兄の首級を獲らんとする数騎を切り捨てたところで、馬上より叩き落された。刃に刺され、蹄に踏まれ、何もかもがわからなくなって……奇妙な音を聞いた。涼やかな鈴の音だった。
◇◇◇
鈴が鳴る。
誰にも聞こえない、彼の耳にしか届かない、夢幻のような音色だ。聞けば顔も知らない亡母は風鈴を好んだという。その残響なのかもしれない。それを聞きながら、彼は生まれ育った。
以前はそうではなかった、という気がしていた。
他の誰にも理解されない違和感だ。鈴の音の他にもある。目だ。彼は生まれついての隻眼だが、両目で物を見た覚えがあるのだ。また、既視感もあった。父を、兄を、生まれてくる弟妹たちを、あらかじめ知っていたような気分になるのだ。
戸惑うたびに、強く鈴が鳴る。聞くたびに焦燥に駆られた。
たまらない思いで剣を手に取り、馬に跨った。己をいじめ抜いた。調錬に明け暮れて初めて息がつけた。叱咤するような鈴の音色が、その時ばかりは激励するように響く。
己を鍛え、兵を鍛え、共に鍛えられて……そして彼は今日も戦場へやって来た。
北漢の南東部、沢州である。
来襲した宋軍は六万。堅陣を組み、じりじりと前進しているが。
「羊の群れだ、あんなものは」
一笑に付し、馬を駆った。率いるのは軽騎兵のみで五百。敵の兵站を脅かすべく戦場を迂回した部隊だ。そう志願し、認められてここにいるものの。
「鋭をもって鈍を衝く。いいか。狙うはあの旗……後軍にあって贅肉のごとき『潘』の字だ」
敵からすれば降って湧いたような五百騎だろう。まだ距離があるというのにすでにして動揺している。指図して旗を掲げさせると、いよいよ混乱が広がった。
五百騎の頭上にはためくのは「三」の字の戦旗。
楊家の独眼鬼、三郎延輝の旗である。
慌てたように動き始めた敵騎兵を待たず、彼は―――三郎は突入した。戸惑う徒歩兵らを、斬るというよりは蹴り退けた。斬るまでもないということだ。敵が分かれるに任せて突進し、声を上げる敵将校だけは斬り捨てた。首級を獲る労も惜しんで、奥へ。先へ。
見える。「潘」の旗の下に百騎ほどが集っている。動きの拙さは哀れなほどだ。
主将はまだしもとして、副将らしき若者が足手まといのようだ。この状況で半狂乱になるなど、およそ軍人に向いていない。何かしらの縁故で立場を得た者だろうと思われる。
このままならば、届くが。
三郎は舌打ちした。やはりか援軍が来た。「高」の字が二旗。あれらはそこそこにやる軍だ。猛々しい兵気でそれとわかるばかりでなく、どうしてか手強いと知っている己がいるのだ。鈴の音が密やかに鳴っている。
馬首を返した。旗本らには殺気だけを吹き付けて、敵の群れから脱した。そこへ敵軍全体を揺るがすような衝撃が来た。味方の本隊がぶつかったのだ。楊家軍二万の攻勢である。
屋台骨にヒビが入ったところを強く押したのだから、あとは崩れるばかりだ。
潰走する敵を、三郎は追いはしなかった。雑兵首を一千二千と転がしたところで、総勢数十万という宋軍には痛痒ともならない。さりとて敵将の護りは硬く、仕留めきれそうもない。宋将の生き意地のしぶとさについては妙な確信があった。
勇将もいる。離脱させじと迫る三百騎は「呼延」の旗を掲げている。前軍であったろうにと、三郎は感心すらした。尻拭いもいいところの猛攻だからだ。
三郎は激突を避けた。そういう事情の敵とは当たりたくないと思う。
やがて戦場は膠着した。むしろ劣勢を嫌って引き返すこととなった。大きく後退した宋軍が、後詰め数万と合流したからである。六万を崩したとはいえこちらの兵数は二万余りのあるきりで、再三の要請にも関わらず太原府からの援兵はやってくる気配もない。
本陣に帰るや、三郎は父・楊業の静かな怒気に晒された。
「果敢と無茶をはき違えるな、三郎。お前は必要のない危険を冒した。本隊が押さねば孤立し殲滅されていたのだ。しかも、勝ち過ぎた。その結果として更なる危機を招き寄せた。十万将兵ともなれば、宋軍は一挙に北進を始めかねん」
なるほど、軍略である。しかし盤面上に限る正論だと三郎は思った。
もしも己が仕掛けなければ、楊家軍は三倍の数の宋軍と対峙し続けたろう。援兵がなければ攻めきれない兵力差であり、どだい正攻法には無理があるのだ。兵を退く機会を探るより他にどうしようもなくなる。あるいは廷臣らは軍閥たる楊家軍の消耗を期待しているのかもしれない。
父は清廉な軍人だ。理想的にすぎるほどだ。それゆえに廷臣らの思惑を認めない。後方とはこうあるべきだと決めてかかったものの見方をする。潔癖を押し通す。
不利を招こうとも頑なに美しく在ろうとする―――その生き様が、三郎にはひどく厭わしい。
「……血気に逸り、浅墓な戦いをしました」
「良かれ悪しかれだが、誰にでもできることではなかった。そこは誇っていい。要望の出ていた騎馬隊拡充についても進めよう」
肩を叩かれた。熱い血潮が感じられた。それは兄弟にも宿り、それぞれに巡っている。
幕舎から出るなり、呼び止められた。楊兄弟の長男、延平である。父を同じくする九人の中で、延平だけが三郎と同母である。
「叱られたろう。わかっているとは思うが、お前に期待すればこそだぞ」
「そんなことを言うために、わざわざ待っていたのですか」
「憎まれ口をたたく割りには嬉しそうじゃないか」
「いや、まあ、騎馬隊の増強が叶うようなので」
「ほう、それは。ますます頼もしくなるな」
三郎は口元を手で覆った。いよいよ頬が緩みきってしまいそうだからだ。
この人を死なせてはならないと、三郎は考えている。物心ついた頃からずっとだ。そのために強くなるのだと、ごく自然と思い定めていた。
鈴が鳴る。風が吹かずとも、鳴り響く。
風雲急を告げるかのように。壮絶な戦いの日々を予告するかのように。