これはぼくの物語だ。
誰にも語れらなかったぼくの物語をきみに捧げる。
ありがとうミァハ。

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あなたにおくるキズのものがたり

 ぼくという存在がなくなってしまう前に、ぼくの物語をここに残しておこうと思う。

 

 そうだ。これは遺書だ。ぼくという存在がこの世界にいたんだという傷跡をぼくは記そうと思う。

 

 それがどんな傷跡なのかと聞かれれば、それは優しさへの反抗で、ぼくの孕んだ憎しみの叫びで。だけど飾らずに言うのなら、それはぼくが好きだった女の子のハジメテを奪って傷物にした、そんな取り返しのつかない傷の話だ。

 

 ぼくと御冷ミァハの傷にまつわる五年にも満たない短い話だ。

 

 これを読んでいるきみがどういう人でどんな立場にいるのかぼくは知らない。だけどもし心なんてものがあって、きみのその場所にゆとりがあるなら、そのすみっこにぼくらの墓標を建ててほしい。

 

 

 

 

 

 ●

 

 

 

 ぼくはそんなに友達のいる子じゃなかった。うんと小さい頃、ぼくの一日はもっぱら本を読むことが全てだった。電子書籍がほとんどの世間で、父親が小説家という理由で、家に書斎なんて前時代的なものがある家に生まれたぼくにとって、世間で少年がシューズを履いて駆け回る前から、紙に書かれた文字を読むことがぼくの世界の全てだった。

 

 父さんは小説家で、一年中忙しそうにしていた。本を執筆するのも家の外だし、ほとんど取材だと言って家を開けていることが多かった。思えばぼくの身勝手さはそういう父さんからの遺伝なんだろう。

 

 だから家にはいつもぼくと母さんがいた。母さんはそういう父さんに時々小言を漏らしていたけれど、ぼくは別に悪いことだとは思わなかった。初めからそういう家だったというのもあったし、家には紙の本がいくつも、それこそ結局読み切れなかったくらいにはあって、その動かない紙の山脈が父さんの代わりで、父さんそのものだった。

 

 本を読めばいつでも父さんに会えた。その思考に、意見に、体験に、ぼくは母さん以上に父さんと幾つもの何かを共有していた。だから寂しさなんてなくて、むしろいつでも父さんはぼくと一緒にいると思っていた。

 

 そう考えるぼくを母さんはあまりよく思っていなかった。いや、こういう言い方は適切じゃない。ただ親切心から、この世界の誰もが持たされている優しさだとか思いやりだとかを原動にして善意で母さんはぼくを友達の輪に入れようとしていた。小学校、その前の幼稚園でもそうだった。友達には優しくしましょう、思いやりを持ちましょう。呪いの童歌のように揃いも揃って同じことを言いながら、みんなが優しい笑みを浮かべてぼくを友達の一員に、仲間にしようとやって来ていた。

 

 良い迷惑だとずっと思っていた。別に友達を作るのが嫌だとか思ったことはない。ただぼくは父さんが残してくれた紙の本が読むのが好きだったんだ。友達を作ることよりも、本を読むことの優先度が高かっただけ。ただそれだけの話だったんだ。

 

 だから優しさそのものにそこまで思うところはなかった。だけど次第にそういう優しさが嫌いになった。誰も彼もがみんなの為と優しさを振りまいていく。だけどそれは本質的には優しさの押し売りだ。ぼくがどう思っているのかよりも、優しさが社会に浸透されていることが優先されているだけの話だ。

 

 そう気づいた時、ぼくはその生きている社会が憎いと思った。憎いと思うこと、それはすごく難しいことだ。優しさに満ち溢れたこの世界で、何か、誰かを憎むことが出来る人はいないのかもしれない。憎しみを抱いても、優しさに飽和する世界に当てられて、絆され違和感を感じる程度に終わって、どうして憎しみを持ったのかさえ忘れ、そしてその人自身も社会の共感に飲み込まれて優しさを振りまく一部に成り果ててしまう。

 

 だけど幸運なことにぼくが憎しみを抱いていたのはそういう優しい世界そのものだった。ぼくが持つ憎しみを絆そうと優しい世界がよってこれば来るほど、ぼくの中の憎しみはより鋭敏さを尖らせていった。だからぼくはぼくの憎しみを持ち続けることができた。

 

 だけどそれだけだった。ぼくは世界を憎んではいても、その世界に何かをしたいとは考えていなかった。振りまかれる優しさに吐きそうでも、その花を渡そうとする人の手を跳ね除けるだけで、消してしまおうとはしなかった。出来なかった。だってその人にぼくは何の感情も抱いていないのだから当然の帰結だった。だからぼくは勝手に社会を憎んで、勝手に一人でいようとして、ただ身勝手に自分の孤立を守ってただけだった。だから優しさに満ち溢れた社会、この世界にぼくの居場所はどこにもなかった。ないはずだった。

 

 

 

 ●

 

 

 

 そんなぼくに転機が現れたのは8歳の時、ちょうどキルケゴールの本が理解できはじめていた時期だった。隣に住んでいた御冷さんの家に女の子がやってきた。養子だと聞いた。それがミァハだった。

 

 ぼくが傷つけたミァハは出会った時、何と言うか普通の女の子じゃなかった。普通じゃないところはいくつもあった。話し方。どこかたどたどしく、多分彼女はもともと別の言葉を喋っていたのだとすぐ気がついた。連想するように彼女がぼくとは違う国の生まれだ思った。顔立ちは日本人によく似ていたけれど、よく良く見るとどこかエキゾチックな雰囲気を持っていて、美人だからそう思うんだと言われてしまえば納得してしまうくらい、彼女は綺麗な顔をしていた。

 

 しかしぼくの中にあったのはそんな呑気な考えよりも、遠いどこかからやって来た異物が隣の家というとんでもなく近い場所にいきなり生えて来たことへの危機感だった。しかも御冷さん、この場合はミァハのお母さんだが、が娘と仲良くしてほしいと言うのだ。

 

 ぼくはよく彼女からお菓子を恵んでもらっていて、そういう近所付き合いから生まれる個人的な借りがあった。まさかこんな形でその返済を求められるとは思わず、ぼくは過去の自分を殺したくなった。

 

 おまけに母さんもそれは良いと、友達の少ないぼくには良いきっかけになると大賛成だと喜んでいた。ぼくやミァハの意見や、やりたいことなどお構いなしに全てが優しさの名の下に決まっていった。

 

 そんな前後から挟まれたぼくは、本を読むという孤独な時間を明け渡して、異物を受け入れることを強いられることになる。

 

 ぼくとミァハの遊び場はもっぱら、ぼくの孤独な読書のための場所、父さんの書斎だった。書斎の中で一緒に、ぼくらは何もしなかった。ぼくは同世代の子どもたちがどんな遊びをしているか、それのどこが楽しいのかを知らないし、よく分からないものを人に薦めることもしなかった。だから二人だというのに、ぼくはミァハの存在を半ば無視するように手元の本に目線を落としていた。

 

 ぼくらの間にただ沈黙が重くのしかかる。そんな沈黙を破ったのはミァハだった。彼女は黙ったままこちらへ寄り、気がつくと鼻息が互いにかかってしまうような近さにいた。彼女は四つん這いになってぼくの肩に額を乗せながら、ぼくの手に持った紙の本を覗き込んでいた。

 

「ねぇ、これは何。これは、……文字」

 

 不思議そうな声で彼女はそう言って、ぼくの手からそっと本を持ち上げると触ってみたり、表紙を撫でたり、降ってみせたり、ページをパラパラとめくったりして紙の本を観察していた。それこそ、初めて火に触れた人類の遠い祖先のように、その存在を理解しようと一生懸命になっていた。

 

「……それは本だよ。文字が書いてあって読むんだ」

 

「これが本なの。でも前見た本はもっと薄い板で、電気で動いていた」

 

「それは電気で動くやつ。これは紙の本。本当の本はこういうものなんだ」

 

「でも板の方が軽い」

 

「紙だって良いところはある。持久力って点なら本はどんなものよりも頑丈だよ」

 

「持久力。何の」

 

「孤独の」

 

 そういうとミァハは不思議そうにぼくを、本を交互に何度も見た。

 

「きみは本が好きなんだね」

 

「好きだよ」

 

 多分ぼくは微笑んでいる。だって自分から孤独でいようとして、それに優しさで否定されず、ただ好きなのかと確認されたのは初めてのことで、自分の魂が初めて誰かに観測されたような喜びがあった。

 

「ねえ、これはどういう内容なの。なんて書いてあるの」

 

 ぼくから奪っていた本を返して、彼女はその表紙に書かれた文字を指差した。

 

「死に至る病」

 

 ぼくはそこに書かれた文字をゆっくりと読み上げた。ミァハは不思議そうだ。

 

「病で死んじゃうの。WatchMeがあるのに」

 

 ぼくは首を振って違うと言った。

 

「この病は病気のことじゃないよ。絶望が人を殺してしまうんだって、これを書いた人は言いたかったんだ」

 

「自分で自分を殺してしまうの。痛かったり怖かったりするのに」

 

 自殺をしてしまう。そんなこと、かけらも理解できないと言わんばかりにミァハはとても懐疑的な表情を見せた。

 

「心があるから人は死んでしまう。心がないと人は自殺できないんだ。そういう人には優しさはかえって毒になるって」

 

 ミァハは大きく目を開いて、驚いたように表情を硬らせ、動かなくなった。そして硬直が溶けると彼女はぼくの手と『死に至る病』を強く握りしめて、ぼくを見た。

 

「ねえ、教えて」

 

「何を」

 

「いろんなこと、わたしの知らないこと、このたくさんの本に書いてあること」

 

 周囲に積まれた本の山を見回し、彼女は深刻そうな上目遣いでぼくを見た。

 

「わたしにきみの知っていることを教えて」

 

 

 

 ●

 

 

 

 ぼくとミァハの遊びというものは子どもの遊びらしいものではなかった。ぼくらは父さんの書斎に閉じこもり、二人して別々の本を読んでいた。ミァハはまだ日本語の読み書きと話すことが上手くできないから、もうちょっと幼い子ども向けの教材を解いて、そのあとに読めそうな本を頑張って読んでいた。

 

 そして時折その本の中でよく分からない箇所を見つける度に、ぼくに質問をするために寄ってきた。だけどそれは、ぼくはあまり好きじゃなかった。

 

「ねぇ、きみ。どうしてカエルになった王子様にお姫様がキスをしたら魔法が解けるの」

 

「さぁ、僕らが知らないだけでこの本の書かれた地域にはそういう風習があったんじゃない。それが当たり前だと書いた人が思ってそう書いたんじゃないかな」

 

「そっか」

 

 そう聞くとミァハは愛おしそうに、絵本に描かれた幸せに暮らす王子様とお姫様の絵を撫でていた。どんな答えでもミァハは満足してくれた。そして彼女の疑問に答えるたび、ぼくの中で小さな満足感が確かに満たされてる。だけど問題は彼女の姿勢だ。ミァハはぼくの背後によりかかり、両腕を首に回して、一緒に本を読むようにしていた。必要以上に、ぼくとミァハがくっついていない場所の方が少ない体勢だった。

 

 ミァハはこういうスキンシップがいささか過剰だった。むしろそれが当たり前のように振る舞っていた。もしかしてミァハにとって、他人との距離感はこれが当たり前なんだろうかと思うと頭が痛くなる。

 

 ぼくの体とは違う、ミァハの柔らかさや甘い匂いは、いっそ毒物だと言われた方が納得がいくくらいに魅力的だった。そう思うから、ぼくは彼女をぼくから強く引き離せなかった。気がつけばミァハの好きなようにさせていた。ミァハの好きなようにさせて、ぼくはそれに合わせる。それが僕たちのちょうど良い距離感の掴み方だった。

 

 いくつも本を読む中で、ミァハは社会だとか魂だとかいうものに強い興味を示した。

 

 それは11歳の夏、ミァハの両親とキャンプに出かけた時のことだった。ミァハの両親のいるテントの隣で、天井の開くテントの中でぼくとミァハは寝そべって空を見上げていた。手元には暗闇でぼんやりと光る星空図鑑を持って、ぼくたちはあの星はどの星座の一部だ、と星空に注釈を入れていた。

 

 視界に映る星をあらかた区別し終わって、ミァハが呟いた。

 

「人は死んだら天国に行くって言うのに、その天国の想像が共通していないなんて変な話」

 

「死んだ後にどこかに行けるならそれでいいんでしょ。でもぼくが天国には行きたくないな」

 

「人が大勢いそうだから」

 

「うん」

 

 ミァハはやっぱりだと言いたげに微笑んでいた。そして暗闇の中、手探りにぼくの手を見つけ出し、離さないように指を絡めた。

 

「なら、きみはどこへ行きたいの」

 

 行きたい場所、魂を落ち着かせる宿木。そんなものがぼくにあるのだろうか。

 

「どこでも良い。ただ人がいなくて、静かで、本が読めるなら。誰かに気を使われないで、ぼくがぼくでいることを許されるなら、それ以上はない」

 

「そっか。うん、そうかもね」

 

 御冷ミァハはぼくの理解者ではなかったかもしれないけど、ミァハはぼくの肯定者だった。孤独でいたいと言うぼくに優しさを振りまかず、ただ用のある時にだけ話しかけ、満足したら去る。彼女はぼくにとって理想の隣人だった。

 

 ある意味、御冷さんの家にミァハが貰われたのは運命だと言えるかもしれない。養子になる候補は他にも大勢いたとミァハは言っていた。その大勢の中でミァハが無作為に選ばれ、ぼくの友達になってくれたことにどうして偶然を超えた運命を感じないでいられよう。

 

 ミァハはぼくの運命だった。

 

 そして運命は劇的であるように、ミァハの顔をしてぼくを殺しにやってきた。

 

 

 

 ●

 

 

 

 12歳になった誕生日のことだった。ミァハはぼくにキスをした。

 

 その日はぼくの誕生日だったけど、特に例年と何か変わることもなかった。ただお昼のおやつが苺の乗ったショートケーキに変わるくらい。

 

 夕飯には大きいホールケーキが机に並んで、時間があればミァハの両親と一緒に食べる。ミァハの誕生日もそうだった。これまで六回はそうして、今年も同じだと思っていた。その矢先のことだった。書斎でいつものように本を読んでいたら、ミァハがぼくを押し倒した。

 

 ぼくを押し倒したミァハはついばむように自分の唇とぼくの唇を合わせた。それは絵本で見たような優しいそれとは違って、ただ性欲を満たすための貪るような行為だった。ただ不思議なことにミァハからはそういう欲求は感じられず、行為そのものを再現する無機質さが際立って、訳が分からずされるがままのぼくは時間を数えるのも馬鹿らしくなり、抵抗するのもやめて、ミァハのすることをを他人事のように眺めてされるがままになった。

 

 長い口吸いが終わり、二人の息が乱れて、そのままミァハは着ていたワンピースを脱ぎ、そのままぼくの着ていたTシャツに手をかけたところでぼくは我に返った。ミァハの手を掴み、彼女に待ったをかけた。裸体を晒してぼくの上に馬乗りになったミァハは無表情にぼくを見下ろしている。

 

「ミァハ何をしているの」

 

「セックス。知っているでしょ」

 

「どうして、こんな急に」

 

「だって今日はきみの誕生日でしょう。いつもはお母さんは何か用意しているから、今年はわたしがきみに何かあげたくて。男の人はこういうのが好きでしょ」

 

 その一言と口振りが、ミァハがぼくに語っていなかった彼女の過去のあらましを伝えていた。たかだか友達の誕生日に体を簡単に明け渡してしまうミァハが無性に悲しくなって、ぼくは優しく彼女を押しのけると脱ぎ散らかした彼女のワンピースを押しつけ、読書に戻った。

 

「もう良いよ。もう、満足した。本を読むから静かにしていて」

 

 首を傾げたまま訳が分からないというミァハを、ぼくは初めて無視することにした。そのあとの夕飯ではミァハは普通にしていて、それが余計に彼女にとってあれは特別なことでは無いのだと分かってしまった。

 

 本当に恐ろしかったのはその晩のことだった。ミァハが帰った後ぼくは父さんの書斎でまだ本を読んでいた。いつもならとっくに寝ている時間にしかし、ぼくは本を読もうとしていた。それは本が読みたいからではなく、体がどうにも疼いてしまって、他の何かで気を紛らわせたかったからだ。

 

 初めて感じるむず痒さ、特に股間に集中するそれはどこか人をそわそわさせるもので、柄にもなく貧乏ゆすりをしていた。そしてその小さな摩擦を幾度か繰り返して、不意に尿意とは関係なく、温かい何かが体から漏れ出ていく感覚に読書の手が止まった。

 

 まさかこの年になって漏らしたのかと動揺してズボンを下ろすと、白い粘液がこびりついていた。ズボンを下ろしたことで外気にその栗の花のような匂いが鼻をかすめた。

 

 その日ぼくは初めて射精というものを体験した。精通したと言い換えても良い。そしてこれがぼくが死ぬことを選んだきっかけだった。

 

 自分が射精をしたと気付いてからのぼくの行動は早かった。すぐに自分の部屋に戻り、別のパンツを履いて精液のついた古いものは紙袋に入れ、それをビニール袋を使って密閉し、家を飛び出して近くの公園の燃えるゴミ箱に叩き込んだ。

 

 十分にも満たない犯行に、母さんは外出したことにすら気付いた様子もない。そして吐きそうになる気持ちを我慢して、ぼくは布団にくるまってじっとしていた。恐ろしかった。精通したことにではない。それがミァハによって、もたらされたことにでもない。

 

 ただ自分の体が少しづつ大人になっているという当たり前の事実を突きつけられて、ぼくは酷く動揺していた。失念していた。誰だっていつかは大人になる。当たり前のことすぎて忘れていたそれは、この社会において、僕にとっては死活問題として君臨していた。

 

 子どもと大人の違い。それは生物的な成長以外に、特にこの社会においては体にWatchMeが導入されている点で大きく隔てられている。WatchMeを入れられるともうその体はぼくだけのものとは言えなくなる。あらゆる情報が数値化され、それを見ず知らずの他人に管理される。否が応でもぼくは生命主義の社会の中に組み込まれることになる。

 

 ふざけるなと言いたい。お前たちの優しい社会に、そっちの都合で勝手に巻き込まないでほしい。ぼくの体はぼくだけのものだ。そう思うほど、ぼくの中の憎悪は叫びへと変わった。

 

 もう我慢ならない。優しい生き方を強いて、ぼくをしめつける生命主義の世界なんてもうたくさんだ。必要以上の優しさなんてクソ食らえと叫んでやる。

 

 このぼくの体は、ぼくだけのもの何だって、お優しい社会に突きつけてやりたい。そしてその方法を考えて、考えて、考えて、そしてぼくは自殺という手段にたどり着いた。自殺をしようと決めて、その道のりはすぐに整った。

 

 次の朝にはもう準備は終わっていて、部屋の中に自殺セットを置いていること以外はいつも通りに過ごしていた。父さんの書斎でいつものように本を読んでいるとミァハがやってきた。

 

 鍵はかけていないから、何も言わずに入ってきた彼女は、昨日のうちに読もうと決めていたらしい本を取って書斎の一角に座り込んだ。

 

「今日、自殺をすることにしたんだ」

 

 ぼくがそう言うと、ミァハは読んでいた本から顔を上げ、ぼくの顔を見て、そしてまた視線を本に戻した。読書に意識を割いたまま、ミァハが口を開いた。

 

「そうなんだ。自殺するんだ。でもどうして」

 

「この社会に、ぼくみたいなやつの居場所はどこにもないんだ。だから、お前の気遣いなんて要らないんだって、ぼくの憎悪を叩きつけてやるんだ」

 

「この社会が憎いから自殺をするの」

 

「そうだよ。お互いを思いやることを強いる調和の社会を、ぼくの身勝手な感情で否定する」

 

「それが自殺」

 

「そうだ。ぼくは、ぼくだけの痛みを抱えながら、ぼくを自分だけのものにする」

 

「そう……なんだ」

 

 そしてそれっきりミァハは何も言わなかった。そして今日という日が終わった。読んでいた本を読み切り、家に帰るためにミァハは立ち上がった。

 

 いつも通り何もいわず部屋を出ようとして、扉を開けたところでミァハは足を止め踵をかえして、いつかそうしたように、後ろからぼくに体を預けるようにしてよりかかった。

 

「きみが死んだら、明日からどうやって本を読もう」

 

「印刷会社に頼むと良いよ。遺書に父さんがよく使ってたところを書いておくよ」

 

「ここの本はだめなの」

 

「できたら、きみから母さんに燃やしておいてくれって伝えて欲しい。心残りがあったら、ぼくは地上に縛られてしまうかもしれない」

 

「分かった。そうお願いしておくね」

 

 そして彼女はぼくを後ろに倒して、一度だけ唇をそっと重ねた。性欲を満たすのとは違う、甘くて優しい口づけだった。すごく嬉しい。ぼくは笑った。

 

「ありがとう、ミァハ」

 

「それは何へのお礼」

 

「いろんなもの。ぼくの友達になってくれて。本を好きになってくれて。ぼくをただ肯定してくれて」

 

「うん」

 

「きみが御冷ミァハで良かった」

 

「わたしもきみがきみで良かった。わたしの初めての王子様」

 

「じゃあきみはぼくのお姫様」

 

 ぼくがそう疑問を呈すとミァハはもう一度唇を落としてぼくのと重ねた。彼女は微笑んでいた。

 

「魔法、解けないね」

 

「今かかったから」

 

 そしてその言葉を最後にミァハはぼくの前から立ち去った。ぼくは読んでいた本を綺麗に戻してから自分の部屋に来た。キャンプでテントを固定するのに使った丈夫な紐を天井の出っ張りに引っ掛け、椅子の上に立った。天井からぶら下がった紐を結んで輪を作り、その中にのぼくの首を通して、緩みがないくらいに絞めた。最後に漏れたのは苦悶の声ではなく、祈りだった。

 

「さよならミァハ。どうかぼくが好きだったきみのままでいないで、きみが望むままに生きて」

 

 そして椅子を蹴って、ぼくの体は宙ぶらりんになった。思っていた通り、すぐには死ねなかった。体重が軽いから椅子から退いた衝撃で首の骨が折れなくて、ゆっくりと首に紐が食い込んでいく。

 

 苦しい。息ができない。もうすぐ自分が死ぬことを冷静に予感しながら、ぼくの体はなんとか助かろうともがいていた。でも事前に深爪にした指先はツルツルした紐を空く滑り、無意味だった。

 

 そうだ、それでいい。ぼくは自分の体をたたえた。ぼくの体、もっと痛みを感じろ。ぼくだけの痛みを。社会がぼくから取り上げようとしている、ぼくだけのものを感じろ。それこそが生きている実感だ。ぼくの自由だ。

 

 ああ、ぼくは幸せだ。

 

 そしてぼくの意思はそこで途絶えた。

 

 

 

 ●

 

 

 

 全てが終わって、気がつくと、ぼくはどこかにいた。静かで、何もなくて、本があるばかりだった。そこにあったのはぼくの本だった。父さんの書斎にあったぼくの本だった。

 

 ぼくは何もせず、ただ本を読んで、時間を過ごした。一人だけの時間、ぼくが求めたものだった。それなのに、望んでいたものだったはずなのに、どうしてか本を読んでも満たされなかった。そして気がつくとぼくはただ体を伸ばし、何もない何処かを眺めていた。

 

 数えるのもバカらしいくらいの時間が流れ、ある時、幾つもの人が登っていくのが見えた。その時だけ、幾つもの魂が天にある明るい星を目指して登っていく。

 

 それは予兆、で予感だった。そしてぼくはこうして書きはじめた。ぼくのものがたりを。きみに見て欲しいものがたりを。

 

「ああ、きみもここにいたんだ」

 

 ここまでやっと書き上げて、後ろにきみがいた。きみは最後にあった時よりも大人になっていて、綺麗になっていた。

 

「ごめんね、きみの本、全部は燃やせなかった。でもやっと最後に、本当に全部燃えてなくなったよ。きみがわたしに残した傷を、わたしは社会に突きつけられた」

 

 きみは十数年ぶりだというのに、いつもと変わらない調子でいた。ただぼくが残した傷跡がきみの中に残って、ぼくのかけらをきみは少し覗かせていた。後悔もないもないという晴れやかな顔できみがぼくに笑いかける。

 

 ぼくは立ち上がって、書いていたものをきみに手渡す。

 

「ありがとうミァハ。きみの祈りは確かに届いていた。ありがとう、ぼくの運命」

 

 書き記したぼくの物語をきみに手渡す。きみはぼくの好きだったミァハの姿で、でも魂はきみの望みのままに変わっていた。

 

 僕らは手を取り合い、ほかの光がそうするように、天の星に向かって登り出した。止まっていた時間が終わりはじめたんだ。

 

「ここ、暖かいね」

 

 僕らは手を取り合い、僕らの魂を色づかせて、僕らは飛び去った。

 

 そして僕らの意識は地上から去った。ずっと、永延に。僕らは自由な幸福を見つけた。

 

 




夭折した伊藤計劃に出会えたこと、その著作に最上の感謝と敬意を表します。

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