エルロイド教授の妖精的事件簿   作:高田正人

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 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 死の床にあった老人は、ふと目を開いた。

 

「……誰です?」

 

 乾ききった唇が動き、囁きとも呻きともつかない声がもれる。ここはどこなのか、今が何時なのか、果ては自分が誰なのかも曖昧だ。けれども、徐々に頭の中に霧が立ちこめているような状態が薄れていく。すべては、ベッドに横たわる自分の近くに、ひしひしと何者かの気配を感じるからだ。

 

 老衰によってすっかりかすんだドリズンの目が、辛うじて焦点を結ぶ。恐らく昼間なのだが、室内は灰色にくすんでいる。ドアの付近に、何者かが立っていた。

 

「そうですか……」

 

 改めて口からため息がもれる。その中に安堵が混じっていることに、ドリズン自身かすかに驚く。どうやら、時が来たようだ。すべての生者に定められた、寿命という時が。

 

(エルロイド君ならば、『自分が死ぬときこのような現象が起こるのか!』と目を輝かせそうなものだね)

 

 心の内で、彼は自分の教え子の一人の顔を思い浮かべる。あの歩く唯我独尊とでも言うべき人間が、まさかうら若い女性を助手に連れて自分のところに来るとは思わなかった。かなり性格が丸くなっていたのは、あの女性のおかげだろうか。

 

 ゆっくりと、その人影らしきものはこちらに近づいてくる。

 

(死を告げる天使、というわけですか)

 

 ドリズンはふと、自分の人生を振り返る。決して自分は信心深い方ではなかった。しかし、そんな不心得者のところにも、主宰の限りなき無辺の慈愛は及ぶようだ。

 

「生前ろくに教会にも行かなかった不信心な者ですが、どうぞお連れ下さい」

 

 相手は神の使いだ。決してこの老いた哀れな魂を、むげに扱うことはないだろう。そう願いつつ目を閉じたドリズンだったが、思いもよらないことが起こる。

 

「――私は貴様たちの崇める神とは異なる」

 

 その声は、五感すべてが衰えたドリズンの意識が覚醒するほどの、異様な魅力に満ちていた。声という形の、それは魅了そのものだ。

 

「いや、その千変万化なる姿の一。かつてこの国に住まう定命の者は、私をこう呼んだ」

 

 見開かれたドリズンの視線が、声の主へと向けられる。

 

「妖精の王、アルヌェン、と」

 

 そこに立っていたのは、古風な衣に身を包んだ美貌の青年だった。腰まである長髪は乳白色、そしてドリズンを見下ろす双眸は鮮血よりもなお紅い赤色だ。

 

「あなたが……」

 

 白皙の美青年を前にして、ドリズンは言葉を失う。その人間離れした美貌のみならず、まとっている雰囲気そのものが、彼をこの世のものではない存在であると主張していた。それまで曖昧だったのを忘れたかのようにして、彼の脳が働く。アルヌェン。妖精の王。妖精郷の支配者。影の国の王。死と冥府の領主。そして何よりも……。

 

「貴様の庭、なかなかよいものだったぞ。私の庭園から逃げ出した庭師どもが、あれこれと手伝いたくなるのもうなずける」

 

 何よりも彼は、青きバラが咲き乱れる庭園の主人だ。アルヌェンは当惑するドリズンをよそに、テーブルにあった花瓶からそっと一輪のバラを抜く。白骨のような長い指に挟まれたバラの花は、見る見るうちに青く染まっていく。

 

「ああ、だからバラは青くなったのですね……」

「そうだ。これは私の花、私のバラ、そして私のもの」

 

 幻想と化した青いバラを手に、アルヌェンは死の床につく老人に告げる。

 

「故に、ここのバラの持ち主であった貴様もまた、今から私のものだ」

 

 それと同じ言葉が、かつて英雄の魂を冥府へと連れ去っていく時、幾度となく発せられたのだろう。

 

「生から死への刹那を悠久に引き伸ばし、影ノ館にて私の庭を整える役目を貴様に与えよう。役を終えたとき、今度こそ貴様は貴様の奉ずる神の元へと行くがよい」

 

 アルヌェンは冥府の王。彼に仕えるということは因果の理をはずれ、生者でもなく死者でもない状態に移行することだ。たとえ死後の安寧を約束するとはいえ、あまりにも大きな変化だ。

 

 恐れと戸惑いに満ちたドリズンを見て、アルヌェンは薄氷のような笑みを浮かべる。

 

「どうだ? 拒むのならば、それもまたよし」

 

 問答無用で連れて行くつもりはないようで、ドリズンは少し落ち着く。と同時に、どっと疲れが押し寄せてきた。所詮は、燃え尽きるろうそくが最後の一瞬光を放っただけのようだ。

 

「私のバラは……美しかったですか」

 

 もはや呼吸することさえ疲れた様子で、彼は尋ねる。

 

「もちろんだ。人の身で、よくぞここまで花を慈しんだ。花たちの喜びが私の耳にも伝わる」

 

 妖精王のその一言。手放しで彼とその心血を注いだバラを誉める言葉。それを聞いて、乾いたドリズンの肌を一筋の涙が伝う。ならばもう、思い残すことはない。

 

「それでしたら……」

 

 自分のバラは、妖精王の心をも動かしたのだ。こんな喜びがどこにあるだろうか。死を前にして、これほどの祝福が与えられるなど、考えもしなかった。思えば、自分がバラを育ててきたのも、それを見る人の心を喜ばせたかったのではないだろうか。ならば自分の努力と情熱と精根のすべては、今この時のためにあったのかもしれない。

 

「どうぞ連れて行って下さい。あなたの花園に」

 

 震えるやせ細った手を、ドリズンはアルヌェンに向かって伸ばす。彼の手を、慈しむかのように美しく整った手が握りしめる。

 

「よかろう。来るがよい」

 

 ――――その日、一人の老人がこの世を去ったかに見えた。だが、彼は妖精王の庭園に招かれたのだ。その、バラに傾けた深い深い、ひたむきな愛故に。

 

 

 ◆◇◆◇◆◇

 

 

 


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