頭蓋の内側で重金属が振動しているような鈍痛。ベッドごとグルグル回っているような感覚が内臓を揺さぶる。体の奥がシンと冷えて、関節がギシリと音を立てた。
まるで流感にでも罹ったような心地だが、流感ではない。ノア=クランプスが毎朝味わう、寝起きの感覚。
覚醒というプロセスを通じて、自分がきちんと睡眠できていたことを確認する。
それと同時に、すぐ傍に彼女がいることを認めた。
「起きた?おはよう指揮官。まだ時間はあるから、無理せずゆっくり起きて」
眼底の痛みを無視して瞼を開く。少し前に鉄血の工廠で出会った戦術人形であり、今はノアの副官であるHK416が、カーテンの隙間から差し込む光を遮るようにこちらの顔を覗き込んでいた。
纏わりつく吐き気を堪えながら身を捻り、片肘を頼りに力を籠める。その意図を察して、416がすっと背に手を回した。甲斐甲斐しい副官に抱き起こされる。
これじゃあまるで要介護の高齢者だなぁ、と内心で自嘲した。
ほんの数時間使わないでいただけで動かし方を忘れてしまったように、喉が上手く開かない。こひゅ、という喘鳴を何度か繰り返してから、ようやくその言葉を口にできた。
「‥‥おはよ。ありがと」
「お礼はいいから。シャワーを浴びてきなさい。着替えは脱衣所に置いてあるから」
手を引かれて立ち上がった。貧血でふらつきながら、そのまま脱衣所まで曳航される。近頃既にルーティンとなってしまったが、未だに恥ずかしさが拭えない。
シャワーを浴びれば体調は八割方快復した。
「体温の低下って恐ろしいなぁ」
他人事のような口ぶりである。
髪を乾かしてダイニングへ戻ると、椅子に腰かけて本を読んでいた416が顔を上げた。初日こそ部屋を見回しては俯くの繰り返しだったが、もうすっかり勝手知ったる佇まい。流石戦術人形、適応力の化身だと感心する。
「すっきりした?待っていて、すぐにご飯を持ってくるから」
「手伝うよ」
「いいから座ってなさい。ヘアゴムはそこに置いてあるわ」
座れと言われたら座るしかない。髪を縛る。高いところで一つに括るだけなので、一瞬で終わった。
手持無沙汰になって、ニュースを聞き流しながら416の動きを眺める。
キッチンをくるくると移動しながら二人分の朝食を整える彼女に少し遅れて、まとめた長髪がふわりと泳ぐ。何だか面白い。
(戦場では縛らないのに)
小さなトレイを持ってこちらへやってくる416が、目をぱちくりさせて首を傾げる。
「どうかした?私に何かついてる?」
キミの髪先を追っていた、と正直に答えるのは気恥ずかしかったので、
「ぼーっとしてた。大丈夫、いつも通り416は可愛いよ」
そう笑って誤魔化した。
「‥‥っ!あのねぇ‥‥」
416は赤くなって眉を吊り上げた。彼女からしてみれば一々コアが加熱されて大変だろうが、この赤面癖は見ていて楽しい。白い手からテーブルの上に並べられたのは、デニッシュブレッドとハムエッグにトマトサラダ、そしてホットココア。416も同じメニューだが、飲み物はカフェオレ。
デニッシュを齧る。サクッという食感が聴覚を、バターの風味が呼吸器を一瞬にして占領する。包囲占領、大脳が白旗を揚げた。
ノアは今、腑抜けた表情をしていることを自覚していた。
「‥‥駄目人間になっちゃいそうだなぁ」
「なっちゃえばいいじゃない。私がいるから大丈夫よ」
「何ソレ、プロポーズ?」
笑顔でハムエッグを口に運んでいた416が、ノアの一言で派手に噎せる。顔を真っ赤にしながらカフェオレで喉をリセットする様子を眺めていると、思わず素の笑みが零れた。
彼女の甲斐甲斐しさは、ボランティアに精を出す女子大生――そんなものはもう見かけなくなってしまったが――のソレと似たようなものだろう。G36のような、己の誇りと存在意義をかけて
テレビでは、G&Kと鉄血の戦況が報じられている。ノアは他の地域の状況に微塵も興味が無いため、ほとんど真面目に聞いていないが。
そんなノアとは対照的に、416の視線はノアと画面を七:三くらいの割合で移ろっている。
「何か気になることがあるの?」
「私たちが今捜査している事件のこと、全然報道されないわよね。何かしたの?」
「隠蔽工作の賜物だね。今まではたまに漏れることもあったけど、45が手伝ってくれるようになってからはそれもない」
「ふぅん‥‥」
416の目が一段階冷えた。なんで。
ノアは「それは置いといて」と仕草で示し、
「今日はどうする?一襲の出撃予定は無いけど」
「そうね‥‥午前中は事務作業と事件の捜査をしたいわ。午後に訓練、付き合ってくれる?
早く“絶火”をものにしたいわ」
416がそう答えるのは予想できていた――彼女は真面目だから。しかし、出撃のない日まで彼女に大きな負担を強いるのは心苦しい。
ちょっと眉間に皺を寄せ、カップを傾ける。
「いいけど、捜査大変でしょ。些事は僕に任せてくれていいんだよ?」
「それはこっちの台詞よ。貴方だって孤児院を作るために色々忙しいんだから。
大変なのはお互い様なのだし、負担は半分こしましょ」
そう言って416はパンを千切った。
正直、彼女たちを自分の都合で引っ張り回すのは気が引ける。しかし本人に「その気遣いは屈辱」とまで言われてしまっては、大人しく迷惑をかけるしかないだろう。
――416は今まで、他の人形と比べてもかなり厳しい環境にあったはずなのだ。彼女が身を置いていた404小隊とは、並の部隊では対応できない作戦に駆り出される部隊なのだから。だからこそ、この“猫の鼻”ではしたいことをしていてほしいものだが。
「こら。食事中に考え事をしないの」
微笑む416に額をつつかれた。
(まぁ、少なくとも辛そうではないし、今はこれでいっか)
ノアは「ごめん」と笑って、デニッシュの最後の一欠片を口に放り込んだ。