ノアと416、G36だけの執務室。差し込む西日を嫌って閉めたカーテンからは、差し込む橙色は既に無い。
旅行代理店の安全保障計画書に目を通しながら、ノアは訊ねた。
「そういえば、昨日。初めての孤児院訪問はどうだった?」
「まぁ、有意義だったわ」
街の警備のシフトを組む416は、どこかおかしそうに目を細める。何か面白いことでもあったのだろうか。
疑問を口にすると、416はいよいよ笑顔で肯定した。
「そうなのよ。45のヤツ、昨日はなんだか機嫌が悪かったんだけど。
子供たちと顔を合わせた途端、男の子たちに跳び付かれてね」
「あぁ、想像できるよ。
ルーカスあたりが『何その腕カッケー!』とか言ってたでしょ?」
ノアが少年の物真似をしてみせると、416がやや食い気味に手を叩く。
「そうなの!
アイツったら、目を丸くしてされるがままだったんだから!」
416は笑いを堪えられない様子で、口元を隠してくつくつと笑った。彼女がここまで破顔することは珍しい‥‥というか、声を上げて笑う彼女など初めて見た気がする。そのときの45は余程意外な姿を晒したのだろう。少し見てみたかった。
後ろに控えていたG36が、腕時計を一瞥してから口を開く。
「416、そろそろ時間ですよ」
「あら、本当。
でも、行く前にこれだけ終わらせるわ」
そういえば今朝、416が何人かの人形から誘いを受けているのを見た。
相手は確か‥‥
「
あの二人は、“猫の鼻”における宝塚系イケメン――こう表現して伝わる相手は、もうほとんどいないけれど――の筆頭だ。ノアから見てもカッコいいのだから、もうどうしようもない。実際、ここの人形の中には本気で彼女たちに惚れている子もいるはずだ。
彼女たちと416が揃ってグラスを傾ける図は、さぞかし絵になることだろう。
「えぇ。飲みに誘われたわ。Springfieldのバーでね。
指揮官もどう?」
ノアは一瞬頷きかけたが、大切な用事を思い出して首を振った。
「ごめん、今日は先約があってさ。
また機会があれば誘って」
「あら。残念だけど、そうするわ」
トントン、と書類の角を揃える。クリップで留めたその束を手渡して、416は部屋を辞した。
安全保障計画書の不備があった箇所に蛍光ペンで線を引いて、ペラリとその紙を脇へ置けば、残る業務は一つだけ。
「さーて、こっちもさっさと終わらせないと」
「お手伝いいたしましょうか?」
G36の申し出は遠慮した。
リベロールとG11から頼み込まれて、明日からG11にも日々の業務を少し任せることになった。そのために、まずは彼女に頼める仕事のリストアップから始めたのだ。
G36はあまり彼女と接したことが無いはずだから、任せるわけにもいかないだろう。
そう伝えると、彼女は目を伏せた。
「かしこまりました。申し訳ありません、差し出がましいことを」
「いやいや、申し出自体は有難かったから。また今度、何かお願いするね。
けど今日のところは他にすることも無いし、休んで大丈夫だよ」
その言葉を受けて、G36も執務室のドアへ向かう。が、そこで足が止まる。
「‥‥ご主人様」
言おうか言うまいか、躊躇うような呼吸が入る。
やがてこちらを振り返った凛とした顔立ちには、何かを慮る影が差していた。
「どうしたの?」
「‥‥僭越ながら申し上げます。
ご無理をなさってはいませんか?」
思ってもみない質問だった。
しかしG36の視線には、確信めいたものがある。
ノアは目を瞬かせて首を傾げた。
「無理なんてしてないよ。
それはキミが一番よく知ってるんじゃない?僕の着任以来、ずっと近くで見てくれてるんだからさ。
でも、心配してくれてありがとね」
「‥‥感謝など、私にはもったいないお言葉です。
それでは、失礼いたします。ご主人様も、あまり遅くならない内にお休みください」
メイド服の背中が、惜しむような速度でドアの向こうに消えた。
ノアは深い溜息を吐いて、デスクの引き出しから手鏡を取り出した。目の下の隈がきちんと隠れているか確かめる。
‥‥問題なし。やはり、Five-sevenお勧めのリップチークとAA-12御用達のコンシーラーは信頼できる。
「目がいいのは416だけじゃないか‥‥振る舞いの方にも気を付けないと。
声のトーンが落ちてたか?調整しなきゃ‥‥」
反省終了。彼女が来る前に、G11の仕事一覧を作っておかなければ。
ノアは明後日以降に取り掛かるつもりだった業務を思い出して、急がないものから順に書き留め始めた。