扉を潜ると、薄暗い空間が広がっていた。窓に映る外の闇が無ければ、地下室だと錯覚していたかもしれない。
Springfieldが仕切るバー。昼間はそのままのレイアウトでカフェになっているのだが、淡い照明と流れるジャズだけでも随分と空気が変わるものだ。
416の姿を認めると、先に席についていたコンテンダーとOTs-14が手を上げる。
「ごめんなさい、少し遅れたわ」
「いいのよ、気にしないで。私たちも今来たところだから」
グローザがひらひらと手を振り、コンテンダーは持ったグラスを小さく揺らした。確かに、ウィスキーの量はほとんど減っていなかった。
グローザの手元を見ると、ワインが水面で照明を反射している。銘柄は‥‥詳しくないので分からない。
「いらっしゃい。ご注文は?」
黒いエプロンを掛けて髪を上げたSpringfieldが、グラスを磨きながら訊ねてくる。
416はスコッチを頼んで、グローザの隣に腰掛けた。
「それで?
“猫の鼻”の花形二人が、どうして急に私を誘ったのかしら」
この二人とは、夜間強襲作戦で何度か同じ部隊に編成されたことがある。というかそれが知り合ったきっかけだ。
しかし、一緒に酒を飲むほどの仲ではないと理解していた。
「この基地に来てから、まだ一度もここに入ったことが無いという話でしたから。
指揮官のお陰でいいお酒が手に入るのに、それではあまりに勿体ないでしょう?」
腕のいいバーテンダーもいることですし、とコンテンダーが微笑んでグラスを傾けた。
Springfieldが「恐縮ね」と笑って、スコッチを差し出してくる。
416がそれを受け取ると、グローザが言葉を継いだ。
「今のが一つ目の理由。
もう一つは‥‥単純な好奇心ね」
「好奇心?」
「そう。あの指揮官に、どうやって副官としての採用を認めさせたのか。
この一年と少し、多くの人形が挑戦し続けて、同じ数だけ失敗し続けてきたことなのよ?
貴女には自覚が無いかもしれないけれど」
416は目を瞬かせた。酒で口を湿らせる。
「‥‥思ってた以上に頑固だったのね、彼」
コンテンダーが紫水晶のような瞳をすぅっと細めると、細い針がこちらの内側に痛みもなく挿し込まれるような、そんな心地がした。
「私の計算では、恋愛感情の方から射止めた可能性が高いと読んでいるのですが」
「れっ!?」
予想外の言葉に顔が熱くなる。いや、これは酒のせいだろう。間違いない。
思いついた原因を真実とするために、416はグラスを煽った。
その様子を見て、グローザが笑う。
「だから言ったじゃない。あの指揮官はそんな理由で人形を縛れっこないわ。
そもそも、色恋沙汰とは無縁だし」
「ふむ、計算を誤りましたか‥‥」
コンテンダーが顎に手を添えて首を傾げた。
自分の話からは注意を逸らした方がいい――その合理的判断から、グローザの言葉を拾った。
「ここに来てすぐの頃、副官がいないって話を聞いたときも思ったことだけれど。
やっぱり、なろうとした奴はいるのね」
「そうですね、合計で153人。
ここにいる私も、グローザもその一人です。
結果はご存知の通りですが」
少し疑わしいくらいの数だ。この基地に所属している人形が300人強だから、その半分近くが自分から進んで副官に立候補していたことになる。何それ。
416の困惑は伝わっているのだろう、コンテンダーは苦笑いを浮かべ、グローザは眉尻を下げて嘆息した。
「馬鹿な奴よ。『ただでさえ戦闘を任せているんだから、それ以外の仕事まで任せてたら罰が当たるよ』なんて。
戦闘だって、手が足りないときは自分が出る癖に」
その理由は416も聞いた。しかしその後に彼が言っていたのは――
「他の基地では好みの人形を副官にすることが多いけど、それは自分勝手で嫌だ。
とも言ってたわよ、指揮官」
グローザが目を見開いた。「何よそれ。初めて聞いたわ、そんなの」
「嘘。てっきり全員知ってることだと思ってたんだけど」
コンテンダーに水を向ける。首を振られた。
「私もそれは聞いたことがありません。
貴女しか聞かされていないのでは?」
「416のときだけ外見に触れたってことは‥‥貴女の外見が余程好みだったのかしら。
なるほど、貴女みたいなのがタイプなら、私たちはお呼びじゃないわよねぇ」
グローザはわざとらしい溜息を吐く。
あまりにも衝撃的な情報。
確かにノアは、いつも平気な顔で『綺麗だよ』とか『可愛いよ』とか言ってくる。しかしそれは他の人形に対しても同じで、例えばC-MSを抱き締めて撫でながら『キミはまるでシマリスだね!世界一可愛いぞ!』とか。Kar98kに対して『すっごい美人だ!民間人が見たらあまりの綺麗さに吃驚して転んじゃうね』とか。
とにかくノアは、全ての人形に対し『キミは世界で一番可愛い』と言ってしまえるのだ。しかもその台詞には妙な説得力があって、どれだけ気を張っていても頬が緩んでしまう。
そんなノアが、自分の容姿を個人的に好んでいる?相手のために褒めているとかではなく、彼自身の嗜好に自分が合っている?IWSに言われたことといい、それは、それはなんて――
「ちょっと416、大丈夫ですか?顔が真っ赤ですよ」
「安心してコンテンダー。この子は褒められるとすぐ赤くなるのよ。
まぁ、今回は特別赤いけど」
コアがカァーっと熱くなって、それを冷やすために冷却液がハイペースで巡る。人工体液がドクンドクンと走り回って、このままでは電脳がバグを起こしてしまいそうだ。
堪らずグラスを煽って、416は叫んだ。
「Springfield!ビールを頂戴!」