コンコン。
ノアが丁度G11の仕事表を作り終えたタイミングで、執務室の扉が叩かれた。「どうぞ」
「失礼します」
静かに、滑らかに扉が開く。瞬きすればドアは閉じていて、黒い装いにシラユキゲシの目立つ少女が眼前に佇んでいた。
その手には、出先で買ってきたのであろうウィスキーの瓶が収まっている。
それを差し出しながら、少女が口を開く。
「ステアーAUG、ただいま帰還しましたわ」
受け取りながら、ノアは立ち上がる。
「おかえりステアー。ほら、座って」
書類を片して棚からグラスを取り出し、向かい合ってソファに腰かける。
IWSと並んで「最強」の名を恣にしている戦術人形。
ノアが“猫の鼻”に来る以前から、ここを守り続ける
彼女がいなければ、アンバーズヒルは今頃その領土を三分の一以上失っていただろう。今回だって、市街西側に広がる防衛線はほとんど彼女の部隊に任せきりだったのだ。
ノアは労いの気持ちを込めて、ウィスキーを注いだグラスを差し出した。
「西はどうだった?」
AUGは両手でそれを受け取りながら、すいと目線を上げた。金色の目が、一瞬焦点を外す。
「平穏そのものです。一度鉄血の斥候部隊と
寧ろ味方の方が物騒でしたわ。Mk48とWA2000が喧嘩してばかりで、S.A.T.8が何度も間に入っていましたから」
「まぁ、あの二人は喧嘩するほど仲がいいってやつだから‥‥。
本隊は来なかったんだ。キミがいると知って諦めたのかもね」
ノアにとってはあながち冗談のつもりでもなかったが、しかしAUGはくすりと微笑んだ。
他の人形と比べると感情表現が遥かに薄いものの、これでもかなり分かりやすくなった方だ。
初めて会ったときを思い返す。あの頃の彼女の言葉には文面以上の意味など無く、言葉以外で伝えてくる情報もなく、ステレオタイプなロボットそのものと言っても差し支えない無機質さだった。
戦うためだけに在った彼女が、少しずつでも兵器以外の在り方を見つけていってくれたら、それはどんなに素晴らしいことだろう。
彼女の微笑に、ノアはそんな感慨を抱いた。
AUGがウィスキーを一口飲んで、平坦な声を放つ。
「指揮官こそ、最近はどうですか?
ここに来る前にシュタイアーと話しましたが、副官を採用されたそうですね」
こうして彼女からこちらのことを訊ねてくれるというのも、前は考えられなかったことだ――あれ?
ノアは背筋が冷えるのを感じた。殺気に近い気配が、彼女から放たれている。
「そ、そうだよ。HK416って子を副官にしたけど、どうしたの?」
表情こそ変わらないが、これは‥‥怒っているのだろうか。
目を凝らせば、ほんのわずかに頬が膨らんでいるような気もする。
じっとその表情を観察していると、ぷいと顔を背けられた。嘘でしょ。
想像を遥かに超える感情表現にノアが愕然としていると、AUGはいつもと変わらない声音で言った。
「私やシュタイアーのときは断りましたよね」
きろり、と金色の双眸がこちらを見る。普段通りの声と振る舞いなのに、どことなく棘があるのは気のせいだろうか。
「どのような心境の変化ですか?」
――ダメだこれやっぱり尋問だ――
彼女からは感じたことのない重圧を醸し出されているせいで、どうやって対処すればいいか分からない。
ノアはウィスキーをちびりと口に含んで、喉を鳴らした。
「‥‥心境の変化なんて、大した理由じゃないよ。
他の皆はあくまで僕のために副官をやると言ってくれたけど、それは申し訳ないから断ってきた。
でも416は、口でこそ僕への恩返しって言ってたけど‥‥その裏側にもっと大事な理由がありそうだった。
それも、彼女自身のエゴイスティックな感情に関係するような代物がさ」
結局、正直に言ってしまった。元より人に言えないような内容ではないし、AUGはいつも基地や街のために並外れた功績を上げ続けてくれる。
こんなことで恩返しにはならないが、せめて仇で返すのだけは避けるべきだと思ったのだ。
AUGが、グラスを傾ける。真っ白な喉がこくりと小さな動きを見せた。
「きっと、それは他の皆さんも同じはずです。恋愛感情とはエゴイスティックなもの、なのでしょう?
なのに貴方は、他の皆さんが貴方に身も心も尽くすことを許さなかった。
私たちのことを思ってゆえのことかもしれませんが、それで大きく傷ついた方もいます。
――そのことはよくご存じですよね」
うぐ、と声が漏れた。
彼女の言う通りだ。これまでノアに明確な好意を寄せてきた人形は何人かいる。AUGと同じ部隊にいるWA2000やS.A.T.8もその一人で――そしてノアは、その全員に対して惨めな思いをさせてしまった。
臓腑を鋼線でぎりりと締め付けられるような、そんな痛みを感じた。
「特にWA2000なんて、勇気を振り絞って貴方に告白したのに。言葉を尽くして彼女を袖にしたそうですね。
あんなに優しく丁寧に振られるなんて、って泣き叫んでいましたわ」
「それは‥‥ご迷惑をおかけしました‥‥」
その件に関しては、粛々と縮こまる以外に赦される行動が無い。真意や経緯はどうあれ、自分がWA2000の想いを踏み躙ったのは揺るがぬ事実なのだから。
AUGがかぶりを振る。
「私は彼女のような感情を持ち合わせていませんから、別段困りはしませんでしたわ。
彼女も、『次こそは振り向かせて見せるんだから』と花嫁修業に精を出しているみたいですし」
知っている。
彼女が時折作ってくれる料理もお菓子も、あの件を境にかなり美味しくなり始めたから。
直接的な愛情表現は無くなったけれど、彼女の好意は諸々の結果に滲み出ている。
あまりの罪悪感にノアは腹を押さえたが、AUGは構わず続けた。
「ですが、私の申し出を断っておいて、新しく来た人形を副官にしたということは不服です。
私でさえそうなんですから、他の皆さんはきっと心中穏やかでないでしょう」
あのAUGがここまではっきりと心情を口にするなど、これまで一度も無かったことだ。
しかし、そこに感動している場合ではない。
人形たちには自由に生きてほしいから、できる限り自分に依存させないようにしていたが、ままならないものだ。
溜息が零れ落ちた。
AUGが首を傾げる。
「結局、貴方はHK416の希望を叶えるために、信念を曲げてまで彼女を副官にしたのでしょう。
‥‥余程外見が気に入ったのですか?一目惚れ、というやつかしら」
「んえ゛っ」
派手にむせた。とんとんと胸を叩いて、呼吸を落ち着かせる。
AUGを見ると、きょとんとした様子で彼女もこちらを見ている。
ノアの口元が引き攣った。
「えっ、え?え?
どうしてそんな結論に辿り着いちゃったの」
「‥‥?
違いました?」
全力でかぶりを振――ろうとして、固まった。
あの日鉄血の工廠から416たちを救い出して、医務室のベッドに座る彼女を見たとき、綺麗だと思ったのは事実だ。
しかし、アレは恋愛感情と言えるのか?
積み重ねた齢は飾りか、ノア=クランプス。こんな疑問にさえ答えを出せないなど、先生に知られたら腹を抱えて笑われてしまう。
散々頭を抱えて唸った後、特大の溜息を吐いた。
「感情って難しいね、ステアー」
「まったくもってその通りですわね」
二人は顔を見合わせて、小さく笑った。
そのとき、ポケットの中の携帯端末が震えた。画面を見ると、発信者はグローザだ。
AUGの方を見ると、譲るような手振りで応答を許された。
「はい、ノアだよ」
『おはよう指揮官。ちょっと困ったことになったんだけど』
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